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第3話 猫の階段にて

 警察官が職務質問をするのに、鼻血を出したサラリーマンはポケットから革の名刺入れを出して、名刺を渡していた。  正気に戻った金髪と赤毛にはもう一人の警察官が事情聴取をしていた。そしてお説教こそされたものの警察署に連れて行かれることはなかったようである。  学校の教師等が言うには、この街には皇居や国会議事堂や最高裁判所など国にとって重要な施設が多いから、警察官もよその場所より多いらしい。セントテレジア女学館は日本一安全な場所にあるそうな。  というわけで警官はチンピラの一人や二人に構っている暇はないのだろう。 「あの……私はもう行っていいですか?」  香乃子が警官の一人に尋ねると、 「今日は学校はどうしたのかな?」  と訊き返された。  鞄から国立演芸場のチケットを出して見せた。 「これから学校の古典芸能観賞会に行くんです」  警察官は頷くと、あまりこのような屋外で弁当は食べないようにと注意した。香乃子は頷いて弁当箱を学生鞄に入れると、猫の額のように細い階段を上がって行った。  赤いネクタイのサラリーマンも警察官から解放されて、下の坂道の方に歩いて行くようだった。  何もお礼を言わなかったと気がついたのは、上の坂道に出てからだった。  香乃子の祖父は興行会社の会長である。専業主婦の母がその娘で父は関連の広告会社で働いている。ちなみに両家はサンダル履きで行き来できる距離にある。  祖父や父は様々なサンプルやチケットが手に入るようで、それらは居間のカウンターにある籠に無造作に放り込まれている。香乃子も兄も適当なチケットを勝手に取っては無料で見に行く習慣だった。  クラシックのコンサートチケットがあった時には、安土音也に贈って「すごい! このコンサートはプラチナチケットだよ!」と感動されたものである。  本当は二人で行きたかったのだけれど躊躇した。香乃子はまだ父兄同伴なしでソワレに出かけたことはないのだった。もし誰と行くのか親に問われて「クラスメイトと」などと嘘をつく自信もなかった。  二枚とも音楽教師にプレゼントしたのだが、もしやあの抱き合っていた生徒と行ったのではないかと思い返すと、何やら腹の中がどす黒い雲で覆われた気分になる。  今回たまたま学生鞄に入れていたのは、国立演芸場のチケットだった。そこで何が行われるかは知らないが、まっすぐ家に帰りたい気分ではない。  家は地下鉄に乗って三十分もかかる。その間ずっと二人の淫乱な姿を思い出してどす黒い気分に陥りたくない。  そうしてやって来た国立演芸場は随分と小さな建物だった。  大きく立派な国立劇場なら家族で歌舞伎や文楽を見に来たことがある。観客は着飾って場内には香水の香りが漂っていたものだった。  その裏におまけのように建っているのが国立演芸場なのだった。  小さな会場には心なしか加齢臭が漂っていた。客層のほとんどが高齢者なのだ。  これでは制服の香乃子は悪目立するぱかりである。  こそこそとホールに向かったところが、男子トイレから頬に手を当てた若い男が出て来た。  赤いネクタイを締めたあのサラリーマンである。 「あ……」  思わず指差して声を出した香乃子に、男はニカッとアメリカンスマイルを見せたが、すぐに手で鼻先を覆って顔をしかめた。痛むのだろう。殴られた後の鼻先や頬が赤く腫れている。 「あの……ありがとうございました」  ぺこんと頭を下げた。 「いえいえ」  男は手を振りながらポケットから真新しい手拭いを出して鼻先を覆った。 「何で手拭いなんですか?」  思ったことをそのまま口にしていた。  芦田香乃子の言動は良く言えば素直である。悪く言えば思慮が足りない。安土音也に対してはその思慮不足が祟っているような気もするが今はまだ考えたくない。  そんな香乃子の思惑には構わず、サラリーマンはまたニカッと笑って、 「落語家にもらった手拭い」  と手拭いを広げて見せるのだった。  白と若草色に染め分けられた幾何学模様のデザインの中に〝柏家音丸(かしわやおとまる)〟の文字が読み取れる。 「落語家……ですか」  そう言えば今日の演し物は落語や漫才だった。改めてパンフレットを覗くと〝柏家音丸〟の名前もある。 「もしかして、あの背の高い人が柏家さん?」 「そんな人いなかった」 「え?」  男はまた内ポケットから革の名刺入れを出すと、警察官にしたように香乃子に向かって丁寧に両手で名刺を差し出した。 「中園龍平(なかぞのりゅうへい)と申します。あのチンピラどもを退治したのは僕ということで、ひとつよろしく」  と、今度はニヤリと笑って香乃子の目を覗き込んだ。思わず赤くなって、 「あ、芦田香乃子(あしだかのこ)です。セントテレジア女学館高校の二年生です」  名乗りながらあわてて名刺を受け取った。 〝初音製薬(はつねせいやく)株式会社営業本部〟カスタマー何とかかんとかの中園龍平と書いてある。初音製薬なら生理痛の市販薬で毎月お世話になっている。  あのチンピラ達はオッサン呼ばわりしていたが、サラリーマンルックに惑わされていたのだろう。よく見れば彼らとそう違わない若者である。  美青年といっても過言ではない。漆黒の巻き毛に大きな瞳。濃い睫毛に縁どられた瞳は白目が青白くさえ見える。唇はあくまでも赤く、ネクタイの色と調和している。これでもっと背が高ければ(あの黒服の男のように)モデルと言われても納得する。  比べれば安土音也はこれ程きらびやかな美貌ではない。けれどピアニストにふさわしい上品で繊細な容貌である。  なればこそファーストキスに天にも昇る心地だったのに。何であんな生徒とあんな淫乱なことを……などとまた地獄の気分に堕ちているうちに香乃子は帰りにお茶をする約束をしていた。 「じゃあ。終わったら外で待ってるね」  と青年は客席に入って行った。  香乃子はもらった名刺を手に呆然としていた。  我に返ったのは低い声だった。ぼんやり客席に座っていて、演芸が始まったのも上の空だった。ふと舞台で話している低く響く声が耳に止まり、顔を上げると見覚えのある男だった。  着物姿で座布団に正座しているのは、あの黒服の男だった。背筋がぴんと伸びて腰から下が微動だにしない見事な正座姿だった。  そして話しながら羽織紐を解き、すとんと羽織を肩から落とすと両手で背後に回して隠す。その一連の動きが流れるように美しかった。  あのチンピラの鳩尾を蹴り、顎を蹴り上げた動作とはまるで性質が異なるのに、流れの滑らかさという点では似ていないこともない。 「手は怪我出来ない。足なら折れても何とかなる」  という言葉が思い出された。なるほど座布団の上に座って話すだけなら、手さえ無事なら何とかなるだろうと素人にも理解できた。  香乃子はぼんやりと高座の落語家、柏家音丸を見つめていた。その向こうに見ていたのは、またあの女顔だったが。  安土音也だって着物を着ていた。この春の卒業式で黒紋付の羽織袴を着て来たのだ。自分で着付をしたと言っていた。折り目正しい和服姿の優しい顔立ちの教師は卒業式典で他の誰よりも素敵に見えたのだ。  なのに今やこの落語家の方が着物が似合って見える。安土音也は着物に着られていたが、柏家音丸とやらは着物を着ている。  いや単に裏切られた腹いせでそう見えるに過ぎない。チンピラどもを足蹴にする男より卒業生を寿いで正装して来た安土先生の方がずっと素晴らしい。  だが落語家は香乃子を助けるために暴力を振るったのだ。  見知った女子高生に猥褻行為を働くよりずっとましではないか?   等々……考えれば考える程、頭の中にどす黒い渦が巻く香乃子である。  ちなみに中園龍平は前列中央あたりの席に天然パーマのくりくり頭を見せていた。 「落語は初めて聞いた?」  龍平に尋ねられて香乃子はこくんと頷いた。実は乱れる心に支配されて落語などまるで聞いていなかったのだが。  地下鉄駅近くのカフェでお茶をしている。夕方五時頃のカフェはサラリーマンやOLで混雑していた。演芸場帰りと思われるジジババもいる。  香乃子が弁当を食べ切れなかったのを見ていた龍平は、 「チョココロネ食べようか?」  とカフェラテに添えて注文してくれた。自分はブラックコーヒーを飲んでいる。 「お弁当にちくわの磯辺揚げが入ってたね。あれおいしいよね」 「おいしいですよね。私のは冷凍食品だけど」 「お醤油をかけるともっとおいしい。鄙びた味になってね」 「へえ。私あれわりと最近知ったんです。母は貧乏臭いって嫌がるから、自分のお小遣いで冷凍食品買ってお弁当に詰めて」 「すごいね。自分でお弁当作るんだ?」 「昨日のおかずの残りとか冷凍食品を詰めるだけだから」  ちくわの磯辺揚げを教えてくれたのが安土音也だということは言わなくてもいい。香乃子はまた音楽教務室のことを思い出している。

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