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第4話 猫の階段にて

「変なお願いだけど……」  と龍平はコーヒーカップを置くと、香乃子を見つめた。 「もし万が一にも今後誰かに訊かれることがあったら、あそこであなたを助けたのは僕ということにして欲しい」 「柏家音丸さんじゃないと?」  龍平は小さく人差し指を立てて唇に近づけると、 「そんな人はいなかった」  と教え諭すように言った。 「何でいなかったことにするんですか?」  またしても率直に疑問を呈している。  龍平は身を乗り出して小声で話した。 「一応あれでも人気商売だし。暴力沙汰があったと噂になったら困る」 「でも、私を助けてくれたんだし」 「それでも。噂なんて無責任なものだから」 「はあ……」 「僕は単なるサラリーマンだから噂が出ても別に困らない」 「そうなんですか?」 「そう。せいぜい訓告、最悪でも懲戒解雇とか」 「それって困るんじゃないですか?」 「他の会社に再就職すればいいだけだよ。でも彼の場合は違う」 「違うんですか?」  香乃子にはあまりそう思えない。 「彼はまだ二つ目……修行中の身分なんだ。変な噂が立てば修行が長引いたり、悪くすれば師匠に破門される。落語家生命の終わりだよ。頼むから彼の名前は出さないで欲しいんだ」  と説明しては頭を下げる龍平に、香乃子は訳の分からない苛立ちを感じ始めていた。 「つまり、自分のことはどうでもいいけど、彼のことは庇いたいと……」  言ううちに香乃子は謎の苛立ちが口惜しさなのだと気づいた。何がどう口惜しいかはわからないけれど、声が震えるほどだった。  龍平がふと香乃子の目を見つめたのはそれに気づいたのか。殴られた顔の腫れは赤黒く変色していた。 「中園さんとあの人ってどういう関係なんですか?」 「友達です」 「そうなんですか」  とカフェオレを一口飲んでから、唐突に閃いた。 「本当は恋人同士でしょう?」  香乃子は龍平の目を直視した。あの時まるで宝物を庇うように龍平を抱いていた音丸の姿が思い浮かぶ。  と同時に「こっちじゃない」と頬の横に手の甲を当てた教師の顔も思い浮かぶのだった。  あれをスルーしたから今こんな嫌な気分に陥っているのだと恨みがましく思う。  龍平は黙ってコーヒーを飲み続けている。そしてカップを置くと軽く笑った。 「想像力が豊かだね。いわゆる腐女子?」  途端に香乃子は手にしていたカップのカフェラテを龍平の顔にぶちまけた。  一瞬、店内の客全てが口を噤んだような気がした。  無論そんなことはなく、瞬間こちらに目をやったサラリーマンやOLが見なかったふりで会話を続けていた。  龍平はまたポケットから手拭いを出して顔から肩に流れるカフェラテを拭いている。まるで雨に濡れたから拭いているかのような自然な動作だった。  香乃子はといえば我と我が行動に驚き、言葉を失い身体が固まってしまっていた。こんな無礼な振る舞いは生れて初めてである。慣れていれば、ここでさっさと席を立っていたろうに。 「送るから待ってて。洗って来る」  龍平はそう命じると、これまた当り前のようにトイレに立った。  香乃子は周囲の人々がこちらを見ないで全身で様子を伺っているのを感じながら、石のように椅子に座っていた。 「牛乳って後で臭うんだよね」  店を出た龍平は手拭いで濡れた髪を拭きながらその匂いを嗅いでいる。足を向けたのは地下鉄駅とは逆方向である。背後に立ち竦んだまま、 「どこに行くんですか」  突っかかるように尋ねる香乃子に龍平は振り向いてまたニカッとアメリカンスマイルを見せた。 「もう少し話をさせてくれないかな。店の中じゃまずいから。この先に神社がある」  そんなものは見たことがない。ついて行ってはいけない。 「すみませんでした」  とりあえず香乃子は頭を下げた。 「いや。僕が悪かった。すみませんでした」  少し離れた位置に立ったまま龍平も頭を下げた。 「人が真面目に考えて言ったことをバカにするのは失礼だよね」  香乃子はまた絶句してしまった。感動したのだとわかったのは、もっと後になってからである。 「それが正解かどうかはさておき」  と龍平はまるで外人のように肩をすくめて見せると、また歩き出した。香乃子は自然にその後について歩いた。  すっかり日が暮れて街灯の明かりのない場所は真っ暗である。なのに蒸し暑さが残っているのは何か騙されているかのようだった。  すぐにビルやマンションに囲まれた小さな神社が現れた。本当に鳥居が立っている。小さな境内もある。灯りは少なく、蹲っている石像が牛であるのに気づいたのは近づいて見てからだった。  龍平は鳥居をくぐると拝殿に向かい、丁寧に二礼二拍手一礼をするのだった。香乃子はその様子を眺めながら牛の石像をぺたぺた叩いていた。  そばに来た龍平に、 「すごく丁寧にお参りするんですね」 「教わったんだ。僕は帰国子女で日本的なことに疎いから」 「あの落語家さんに教わったんですか?」  薄暗がりに目が慣れて、龍平が首を傾げて香乃子を見ているのがわかった。 「何でそう思ったの?」 「だって。さっき舞台で見たあの人のお辞儀もすごい綺麗だった」 「うん。綺麗でしょう」  と得意げに笑って見せてから龍平は、 「って、そうじゃなく。どうして僕らが恋人同士と思ったわけ?」  香乃子は龍平の質問にはまるで関係のないことを口走っていた。 「今日、学校で先生が生徒とエッチしてるの見ちゃったんです」  暗闇の中でも龍平が思い切り困惑しているのがわかる。 「セントテレジア女学館てそういう学校だったの?」 「知らない。私は初めて見たし」 「だろうね。そんなのしょっちゅう目撃したら困るよね」  思わず香乃子はくすくす笑った。あの教師などより龍平が何気なく言う言葉の方がよほど面白い。  なのに続けて出て来たのは、 「男の人なんて……いやらしい」  吐き出すような言葉だった。  音楽教務室の細い窓から見た記憶を投げ捨てるかのように言っていた。素敵な音楽教師の醜悪な姿。きっとあれは淫乱な女生徒に誘惑されたからに違いない。 「あの二人組……金髪と赤毛だって、この制服を見てにやにやしちゃって。違う服だったら、あんなに絡まれなかったかも知れない」 「あれは本当に災難だったね」 「男なんて満員電車の中だって、いやらしいことする。人が動けないのをいいことに触ったり、スカートに変なの付けたり……」 「ああ、それ僕も経験ある。ちょっと自尊心へし折られるよね。ああいうことされると」 「えっ! 中園さん男なのに痴漢に遭うんですか?」  驚く香乃子に龍平はしばし黙り込んだ。 「すいません。だから、あの……中園さんは普通の男の人と違うと思って。いえ、痴漢に遭うからじゃなく。私を、女子高生を見る目が違うから……だから男の人と恋人かと」  香乃子は考え考え説明していた。今日会ったばかりの人に何をこんなに真剣に言っているのか、自分でも理解できないまま。  龍平は腕時計を見ながら頷いた。 「ごめん。遅くなるから要件のみね。君の憶測もあまり言いふらさないで欲しいんだ」 「中園さんと柏家音丸さんが同性愛者で恋人同士だってこと?」 「……単なる憶測だとしても」  と、何度も〝憶測〟を強調する龍平である。 「噂になれば信じる人もいるから。僕はいいんだけどさ」 「自分はいいけど彼が噂になったら困るって、そういうことでしょう」  香乃子はまた意味不明な怒りに駆られて語気が強くなっていた。 「うん。僕はさ、仮に社内で同性愛者とか言われてもコンプライアンスがあるし。でも彼のいる世界は古いから……」  最後まで言わさずに香乃子は怒鳴っていた。 「よくわかりました! 別に私、友達いないし言いふらす相手もいないから!」  龍平が尻込みするほどの勢いだった。 「助けてくれてありがとうございました! さようなら!」  と頭を下げて神社を出た。ずんずんと駅に向かって早足で歩く後を、龍平が黙ってついて来るのが足音でわかる。  改札口までついて来た龍平は、香乃子が改札内に入ると踵を返したらしい。人混みの中に遠ざかって行く足音は中園龍平に違いないと思えた。

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