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第30話 天使と落語家

 香乃子はランニングシューズの紐を結ぶ。アクアマリンのちょっと素敵な色のシューズである。  冬ざれた校庭の上に広がる乾いた空の色にも近い。三学期はもう始まっている。  心理カウンセリングは三か月のタームでいったん終了した。年明けの二月になる頃だった。帰り道にあるスポーツ用品店で終了記念に買ったシューズである。  今月になってショーウィンドーに飾られて一目惚れしたのだ。毎週相談室に来るたびにまだ売れていないかどきどきしながら見つめていた。  既にランニングシューズは持っているから、ためらう気持ちが大きかった。必要だからではなく、素敵だからと買い物をするのは初めてのことだった。  そんな事が出来るようになったのもカウンセリングのお陰かも知れない。  そしてあの二人のお陰でもある。  龍平と音丸にお礼として送った臙脂色と老緑色のネクタイは三琳デパートで買い求めたのである。  本当は一人で選びたかったのだが、若い男性に何を贈ればいいのか見当もつかなかった。  つい受付でいつもの外商担当者を呼び出せば、幸いにも店内にいて香乃子の相談にのってくれたのだ。 「香乃子様、これは少しお高過ぎませんか? むしろ受け取った方が恐縮なさるかも知れませんよ」  なるほど、そういう考え方もあるのかと参考になった。 「そうだね、ありがとう。でもいいの。命の恩人に贈るんだから」  と香乃子は初心貫徹した。  外商の家族カードではなく自分のお小遣いを銀行から下ろして現金で買った。万札を何枚も出す時は、さすがに胸がどきどきした。  だが外商が案じた程には二人は恐縮しなかった。場合が場合だったからだろう。  自分にお金を使うのに遠慮がなくなったのは、きっとこの時からだろう。  アクアマリンのランニングシューズは履くなりクラスメイトや陸上部員たちに賞賛された。 「そのシューズ可愛い!」「どこで買ったの?」「靴と紐が微妙に色合いが違うのがお洒落よね」  等々……。  今日からハーフマラソンの練習は学校を出て皇居一周に変わる。校庭のトラックを回って皇居を回って帰って来る。  皇居一周は約五キロだから大会に近づくにつれ周回を増やして行く。 「芦田さん。バレンタインデーのチョコレートもう用意した?」  香乃子と組んでペアストレッチをしている菱木忍が話しかけた。背中合わせで腕を組み、香乃子の背中に乗っている時である。 「別に」と答えて、逆に今度は香乃子が菱木忍の背中に乗る。  女子校だからバレンタインデーには友チョコ以外にも下級生からチョコを貰ったりする。  だが香乃子が自ら率先して贈る相手はいなかった。  昨年までは、バレンタインデーになったらきっとあの音楽教師に贈るのだと思い描いていたのだが……。  もはやどす黒い記憶である。  毎年用意するのは祖父、叔父、父、兄など家族チョコである。  背中の上の菱木忍は香乃子の背から降りると、アクアマリンのシューズを示して、 「そのシューズ、色が可愛いよね。まだなら日曜日に一緒にデパートに買いに行こう?」  と二つのことを一時に言う。  思わず香乃子が頷いたのはシューズのことだが、結局買い物も一緒に行くことになった。  今年は龍平や音丸にチョコレートを贈りたいと思ってはいた。けれど昨年、祖父の家に案内してからもう顔を合わせてはいない。  あれから間もなく龍平からお礼のメッセージが届いた。 〈彼の悪い噂は聞かなくなりました。ありがとう。君のおじいちゃんのお陰だと思います〉  そして臙脂色や老松色のネクタイも愛用していると書いてあった。  ただ龍平のLINEメッセージには一言も固有名詞が出て来なかった。〝真垣宗太郎〟も〝安土音也〟も、もちろん〝柏家音丸〟も出て来なかった。  なるほど彼は彼氏の評判に気を配っていると今更ほほえましく思うのだった。  もう少し遅れて音丸からは祖父宅に郵便が届いた。〝真垣宗太郎様気付芦田香乃子様〟と毛筆で書かれた封書だった。 「これ、おじいちゃんちに届いていたわよ」  母親は例によって香乃子の部屋のドアの下から封筒を滑り込ませるのだった。  無事に騒ぎも収束したと達筆なお礼状だった。正月初席の寄席の招待券も数枚同封されていた。  けれど香乃子は寄席には行かなかった。何ならその券は菱木忍に譲ってしまった。曾祖父母が落語ファンだと聞いたからである。  音丸のファンサイトも覗いているが落語会には行っていない。  何しろ受験勉強に必死だった。二年生の二学期最後で進路変更など遅すぎるにも程があるのだ。頑張らなければならない。  部活では都内女子高校ハーフマラソン大会の練習もある。この大会の成績が受験の体育実技に反映されると思えば、張り切らずにはいられない。  毎日走っている。年末年始も練習は休まなかった。  その後、年末に龍平から〝英語de落語会〟のお知らせも届いた。 〈今年最後の英語de落語会です。終演後にドリンク付きの懇親会もあります。ぜひご参加ください〉  とのことだったが、これも行かないまま年が明けた。  校庭のトラックは周囲をプラタナスの並木が囲んでいる。葉を落とした木々は細い毛細血管のような枝々を見せている。  運動場より一段高い場所に校舎がある。その窓から鈴なりに顔を出している生徒たちは何やらきゃーきゃーと黄色い声を上げている。 「最近、見物が増えたと思わない?」  と尋ねる香乃子に真っ白なウェアを着た菱木忍が笑うのだった。 「見物って……ファンとかサポーターとか言ってあげなよ」 「誰かのファンなんだ?」  ペアストレッチを終えて菱木忍は香乃子の肩を叩く。 「芦田さんに決まってるじゃない」 「私? 何で?」  驚いて菱木忍を見た途端に遠くから、 「カンコちゃん!」  と呼ばれて、ぎょっと背後を振り向いた。  従姉妹のエリやマリに呼ばれたと思ったのだが、校舎の窓から届く声だった。 「カンちゃーん! 頑張ってー!」 「ほら、芦田さんのファン。香乃子は呼びにくいからカンコちゃんになったみたいよ。最近、芦田さんカッコよくなってるから」 「……カッコいい?」  ひたすらぽかんとする香乃子である。  確かに意識すれば校舎から届く歓声は「カンコちゃん!」「カンちゃん!」と聞き取れる。 「ヒッシー!」「シノちゃん!」と聞こえる声は、菱木忍ファンだそうである。  顧問教諭の号令でスタートラインに並び、走り出す。校庭を一周する間「カンコちゃーん!」「ヒッシー!」という声援が繰り返される。  いや、これは単なる練習だから……と香乃子は首を傾げながら走っている。  岡山のホテルで傷めた左足首はもはや何の問題もなく完治している。  一歩一歩足を出す度に身体に歓喜が湧き上がる。新しいシューズがその気持ちを後押しする。ふくらはぎが太腿がわくわくしている。もっと早く走りたいと。  だがまだ抑えている。イーブンペースである。ゆっくりと一定のリズムで地を踏みしめて前へ進む。  校庭一周をして校外に出る。共に出た部員達は次第にばらけて一人ずつ走るようになる。  アスファルト道路を踏みしめ、半蔵門から内堀通りを桜田門、大手門、竹橋、千鳥ヶ淵と進むコースである。  右手に国立劇場を見ながら走っていると、何車線もの車道の奥に見覚えのあるシルエットがあった。  黒い服に黒いザックを背負った細長いシルエット。背の高い男が歩いている。香乃子よりは遅めだが、一定のペースである。時々軽く右を向いたり左を向いたりしている。  ああ、あれは落語で言うところの〝上下(かみしも)()る〟という動作である。一人で歩きながら稽古をしているに違いない。そう思いながら香乃子は柏家音丸を追い越して走って行く。  達筆なお礼状を読んだ後SNSを日々検索したが、柏家音丸に関する芳しくない噂は見事なまでに消えていた。一時はちらほらと「女子高生に暴力」「チンピラ崩れの落語家」「武闘派一門」といったゴシップが見受けられたのだが。  そもそも落語家の噂がSNSを席捲するなどめったにないのだ。笑点の新メンバーが決まったか、人間国宝が決まったか、それぐらいで後はせいぜい訃報である。 「あの……何とか音丸って落語家。一時Xに変な書き込みされてたけど、あっという間に見なくなったな」  田端さんのコロッケを食べながら父がぼそぼそと母に言っているのを聞いた。 「落語なんて古臭いものはXに載らないでしょう」  が母の見解だった。  ラポール・ファミリオ・グループ総帥の鶴の一声は効果絶大だったらしい。  そう言えば祖父が言うには、国立劇場や国立演芸場は今年、令和五年の十月から改装のために閉鎖されるらしい。新たに建て直されるまでの間、落語家達はどうするのだろう?    そんなことを考えながら脚を進める。  平日の夕方だが一般ランナーも多い。香乃子はそれらを抜きつ抜かれつしながら走って行く。 「カンちゃん。早いね」  と後ろから肩を叩かれる。菱木忍が追い付いて来たのだ。 「気をつけて。そろそろ人が増えるよ。会社が終わってサラリーマンやOLが走り始めるから」  そう言って香乃子を追い越して行った。かなりペースを上げたようである。  確かに人は増えている。香乃子はこれまで真面目にマラソン練習に参加して来なかったから、そんな知識もなかった。  桜田門、二重橋と過ぎると東京駅が見えて来る。そして大手町。この付近に初音製薬のビルがある。あの妊娠検査薬を買ったドラッグストアも談話室瀧川も、あのビルが群れている付近だと眺めながら走り続ける。  そろそろペースを上げる。足取りを早めると前からやって来た男性ランナーとぶつかりそうになる。皇居マラソンコースは反時計回りがルールである。完全に逆走している。 「すみませーん!」  と声を上げて走って行くランナーを振り返って見る。  真新しい緑色のジャージを着て、天然パーマを風にふわふわ揺らしている。中園龍平ではないか。  香乃子は自然に頬に笑みが浮かぶが、また人とぶつかりそうになり慌てて視線を前に戻した。  龍平と同じデザインの緑のジャージを着た集団が群れている。腕と脚の横に〝HATUNE〟とオレンジ色のロゴ入りで、胸には〝初音製薬 皇居ラン同好会〟の刺繍が付いている。 「中園はどこに行った?」  怒鳴っている男性に応えて、数人の男女がそれぞれ龍平が走り去った方向を指差している。 「逆走じゃないか。だからミーティングは休むなと言ったのに。何であいつの親戚はミーティングの日ばかりに葬式を出すんだ?」 「いや、先輩。それパワハラっすよ」 「中園くんは国立劇場の小ホールで開口一番とかいうのを聞いて戻って来るそうです」 「とにかく! 皇居ラン同好会の練習初日だ。ちゃんと反時計回りに走るぞ!」  香乃子はその一団を追い越して、やや早めたペースを守って走り続けた。ネガティブスピリット(後半からペースを上げる)にはまだまだ早い。その余裕を残して走っている。  国立劇場小ホールで柏家音丸が落語会の開口一番を務めるらしい。  龍平は走って聞きに行くつもりなのか。  十八時か十九時開演だとしても、あのペースでは到底間に合わないだろう。  香乃子は一人でにやにやしながら走っていた。先を走っていた菱木忍に追いつく。 「カンちゃん。何を笑ってるの?」  香乃子は今や完全に笑いながら走っていた。いつの間にか〝カンちゃん〟と呼ばれていることも可笑しく、更に笑う。 「何が可笑しいの?」 「さっき、天使と落語家とすれ違った」 「何それ?」 「お先に。ヒッシー」  香乃子は手を振るとペースを崩さず走って行く。  アクアマリンのシューズは心地よく地を踏みしめる。  足だけでなく全身の筋肉が歓喜している。  この喜びがずっと続いて行くのだ。高校を出て家を出て体育大学に入り、そして未来へと。  マダガスカルに手紙を書こうと思う。アフリカ大陸の隣の島に住みたくて転校して行った同級生に。  エアメールを出すのだ。  自分はきっと大丈夫。  そしてあなたも。  私たちにはまだまだ未来があるのだと。  前よりも日が長くなっている。春が少しずつ近づいているのだ。  空が茜色から藍色へと変わり、橙色の太陽がビルの谷間に沈んで行く。  さよなら。  明日また帰っておいで。  私はもう大丈夫。 〈了〉  

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