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第1話①

 ぱし、と乾いた音が聞こえてきて、琉斗(りゅうと)はふと動きを止めた。  つられるように見上げると、眼前の小高い崖の上に、大小の人影が並んでいる。一人は立派な体格の男性で、もう一人は細身かつグラマラスな女性だ。  遠目にも身なりの良い二人の姿に、琉斗は柔らかい身体を背後から抱き締めた体勢のまま、瞬時に状況を理解した。動揺から僅かに強張った足元で、夜の色に染まった波が、ぱしゃりと音を立てる。  どうやら自分達は、波打ち際を歩いてきて、そのままVIP用コテージのプライベートビーチに入り込んでしまったらしい。この位置からは、広大な敷地内に建つコテージの威容を捉えることは出来ず、気付けなかったようだ。  足元の海辺で不埒な行為に及ぼうとしている者達の存在には気付かず、真紅のドレスで美しく着飾った女性が大きく身を捩った。同時に、濃紺のタキシードを着こなした男性が、振り払うような動作を見せる。とすれば、先程琉斗の意識を奪った物音は、平手打ちを食らわせようとした女性の腕を、男性が掴んで見事に制止した際のものだったのだろう――確かに、宵闇の迫りくる海辺にあって、かりそめの恋人達の密やかな声と、寄せては返す波音に紛れて、それは随分と異質に響いた。  しかし今、それ以上の異質さで、女性が金切り声を上げた。スラング混じりの口汚い雑言は、日常会話に困らない程度の琉斗の英語力ではすべてを理解することはできなかったが、取り敢えず激しく憤慨していることはわかる――曰く、「ふざけんじゃないわよちょっとくらい顔が良くて金持ってるからって舐めないでよね!」とか何とか。  腕の中の女性と二人、呆然と事態の推移を見守っていると、やがて崖上の女性は長い髪と真っ赤なドレスの裾を翻して、猛然と立ち去って行った。  琉斗達にとっては、そのまま男性もコテージに引き上げてくれれば良かったのだが、さすがに、事はそれほど都合良くは進まない。  怒れる女性の渾身の平手打ちを留めるほどの能力の持ち主は、人の気配にも敏いということなのだろうか。琉斗の視線は、このコテージの宿泊客らしい男性と、しっかりと絡み合ってしまった。 「――!」  思わず息を呑んだのは、男性のエキゾチックな容姿のためだ。  浅黒い肌に、切れ長の瞳、通った鼻筋。一つに束ねられた豊かな長髪は海風にそよぎ、まるで炎のように赤々と揺らめいている。一見しただけで、先程の女性の投げ付けた言葉が負け惜しみであるとわかる、ワイルド系の超絶イケメンだ。  腕の中の女性、琉斗の一時(ひととき)の恋人が、うっとりと溜め息を漏らした。庭園灯に照らし出された長身の男性は、鍛え上げられた肉体を上質なタキシードに包み、無慈悲な王のようにこちらを見下ろしている。嫌味なくらい完璧な立ち姿に、彼女が目を奪われているのは明白だった。  それを悔しいと感じるよりも先に、男性が薄い唇を開く。 「――ここはプライベートビーチのはずだが?」  深みのある、耳に心地良い声と、流暢な英語。そして何より、隠す気もない侮蔑の眼差しに、琉斗は面食らった。不法侵入を働いた上に、そこで性行為に及ぼうとしていたのだから、悪いのは100%こちらなのはわかっている。だが、ストレートに不快感をぶつけられて驚いてしまうのは、やはり琉斗が、場の空気を読み、和を以て貴しとなす、日本人であるが故かもしれない。 「――すみません!」  琉斗が叫ぶのと同時に、女性もまた謝罪を口にした。慌てて居住まいを正し、彼女の手を引いて、その場を立ち去る。  パシャパシャと波を蹴りながら、琉斗は探るように、一度だけ男性の方を振り返った。彼は、まるでゴミでも見るかのような最後の一瞥をくれて、くるりと踵を返すところだった。  その様子に、しかし琉斗は、小さく胸を撫で下ろす。  取り敢えずはこれで済んで良かった。万が一自分の素性がバレたら、各方面に迷惑を掛けることになったはずだ。  安心して、琉斗は改めて、手を引く女性との情事の場所を、あれこれと選定し始めた。  背を向ける直前、男性の浅黒い頬がほんのりと赤らんで見えたことは、すぐに念頭から消えた。                     ● 「……………………はぁ」  西陽の差し込むコテージのエントランスで、琉斗は大きく溜め息をついた。 「利用者に木のぬくもりと安心感を与える」というコンセプトのもと、現地の高級木材を惜しげもなく使って造られた玄関は、宿泊客でない今の琉斗には、威圧感を与えるものでしかない。  シャツの襟元をくつろげるように指先を引っ掛けたのは、完全に無意識だ。恐らくは、制服の重圧から逃れたいという気持ちの(あらわ)れだったのだろう。  ――俺、ただのバイトなのに。  恨みがましく思い出すのは、同僚であるスタッフ達の顔だ。  琉斗は現在、英語圏のとある南の島で、臨時のホテルスタッフとして働いている。  日本を飛び出したきっかけは、失恋と失業のダブルパンチを食らったためだ。冷たい現実からの逃避とリフレッシュを兼ねて、叔父が友人達と共同経営するリゾートホテルへ転がり込んだのは、ひと月ほど前のこと。  学生時代から英語は得意な方だったし、日常会話程度なら問題はない。  今でこそ政府の方針に則って、主に外国人観光客向けの高級ヴィラとして営業している叔父達のホテルは、元々はアットホームを売りにしていたこともあってか、愛嬌で乗り切れる場面も少なくないのがありがたかった。  生来の人懐っこさを存分に発揮し、早いうちから正規スタッフにも裏方の仕事にも馴染むことができた琉斗は、快適な従業員寮で暮らしながら、癒しを求めて、滞在客の女性と数日間の密かな恋を楽しんだりしていたのだが。  問題は今朝、VIP専用のコテージで起こった。  といっても、琉斗のプライベートビーチへの不法侵入がバレたわけではない。  高級リゾートを謳うヴィラでは、戸建てのVIPルームにそれぞれ専属の執事(バトラー)が着き、よりきめ細かなサービスを提供する、という決まりになっている。世界の富豪を相手にするため、当然ながらスタッフの中でも選りすぐりの人物のみが対象なのだが、そのうちの一人、数日前から、ある世界的企業のCEOのバトラーを務めていたスタッフの身内に不幸があった。  島は観光のハイシーズンに入ったばかりで、VIPルームはすべて埋まっている。休暇中のスタッフに急遽ヘルプの連絡を取ったものの、諸用で島を離れてしまっていたため、戻るにも数日は掛かるらしい。  困った叔父達は、「出来るだけ自分達も協力するから、時間で区切るとか業務で分けるとかして、みんなで何とか回して欲しい!」と頭を下げた。  叔父の窮地(きゅうち)に心を痛めつつ、とはいえ琉斗は、さすがに自分には関わりのない話だと、どこかで高を括っていた。  気楽なリゾートバイトの身分では、基本は裏方、表へ出るにしても、ファミリー層(主にお子様達)のお相手程度しかしたことがない。ホテルの命運さえ左右しかねない上客の相手など、短時間であっても任されるはずがない、と。  しかし、それはVIP専用バトラーの資格を持たない、正規のスタッフ達にとっても、同じだったようだ。  これまでに同僚達から仕入れた話によると、件のコテージの宿泊客――琉斗ですら名前だけは知っている、同族経営の世界的大企業の最高経営責任者は、容姿こそ派手なイケメンだが、その肩書に恥じない気難しい人物であるらしい。本来のバトラーすら「なかなかの難敵だ」と零していたというから、一般客相手に楽しく仕事をしているスタッフでは、どんな叱責を喰らう羽目になるかわかったものではない。  給料上乗せは嬉しいけど、でも……と責任を押し付け合う中へ、いつの間にか琉斗が巻き込まれていたのは、ひとえにこの人懐っこい性格のせいだ。よそ者意識を抱かれることなく皆の懐へ入り込んだ結果、バイトの身にも関わらず「共に試練を分け合う仲間」として認められてしまったのである。  急場を凌ぐことを優先したらしい叔父達経営陣からも、援護は望めなかった。  ――と、そんな訳で、琉斗は夕刻の太陽に身を焼かれながら、溜め息を繰り返しているのである。  さすがに本職のバトラーのような、機転を利かせる必要のある役目を押し付けられたわけではない。アルバイトの身分を最大限考慮してもらった結果、琉斗に任されたのは、夕食後の御用伺いのようなものだ。食後の飲み物を下げつつ、何か不足はないか、寝るまでに用意しておくべきものなどないかと確認するだけの仕事であり、必要であれば対応は社員の方でしてくれることになっている。  それでも気が重いのは、当然ながら昨夜の「不祥事」が原因であるのは言うまでもない。  ――ああ、もう! なんでよりによってココなんだよ!  琉斗は往生際悪く、奥歯を噛み締めた。  不可抗力とはいえ、プライベートビーチに忍び込んだのがスタッフであると、何とかバレずに済んだはずだったのに、なぜこんなことになるのだ。前評判を聞くまでもなく、昨日の言動からあのタキシード姿の長髪のイケメンが、相当に厳しい人物であることは疑いようもない。琉斗がヴィラ側の人間であると知れれば、叔父達経営陣に厳重な処罰を求めることも考えられる……。 「…………よし!」  その後たっぷり2分は考え込んでから、琉斗は覚悟を決めた。いい加減、夕方とはいえ南国の陽射しに晒されているのがつらくなってきたのもある。  インターホンに応えるのは、昨夜のあの、深みのある声だった。「休暇と商用を兼ねて」という滞在理由にも関わらず、秘書官一人を伴ったのみのセレブは、夕食後の時間を静かに過ごすのがお好みらしい。  この時点で、本人と顔を合わせずに済むのではないかという最後の期待は打ち砕かれたが、昨夜の自分達との間には少し距離があった。そもそも欧米人(だよな?)にアジア人の顔なんて、見分けがつかない可能性もある。ここさえ乗り切れば、今日はもうアガリだ。頑張れ、俺!  自分を奮い立たせながら、琉斗は解錠された玄関ドアをくぐった。  程良く空調の効いた最高級コテージは、地元の素材を使った装飾や調度品に彩られ、さながら南国の王の離宮のようだ。豪奢(ごうしゃ)な中にも安心感があるのは、随所に木材が多用されているためだろうか。  入ったその場から続く広いリビング、そこに設えられたソファでワインを楽しんでいたらしい部屋の主が、ゆっくりと顔を上げる。 「……君は……!」  最高級の要人、VIP用コテージの宿泊客である、ヴィルフリート・ハンコック。  琉斗の姿を見止め、見開かれた彼の両の瞳が、まるでこの島の海を写し取ったかのような、それはそれは美しいエメラルド色をしていることに目を奪われながらも、琉斗は小さく肩を落とした。  ――終わった、と。

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