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第1話②
「島内でも最高級のヴィラと聞いていたが、宿泊客のプライベートビーチで性行為に及ぶスタッフを抱えていたとはな」
世界的複合企業のCEOとして名高い、赤髪の美丈夫ヴィルフリート・ハンコックは、的確な表現で言い放った。口元をわずかに歪めて嘲笑う様子は、自分がその口撃の対象でさえなければ、危うく見惚れてしまいそうなほどの男振りだ。何の飾り気もない白のサマーニットが、恐ろしくサマになっている。
ぐうの音も出ないほどガッツリと痛いところを突かれた琉斗 は、素直に頭を下げた。
「昨夜は大変失礼を致しました!」
いったいどんな記憶力をしているものか、ほんのわずか遠目に見掛けただけの東洋人の琉斗の顔を、ヴィルフリートははっきりと覚えているらしい。
となれば、ここはとにかく、誠意を持って謝るしかないだろう。言い方はムカつくけれど、プライベートスペースに勝手に立ち入ったのは事実なのだし、立場が逆だったら腹が立って当然だとも思う。今の自分の立場もあるし、叔父達にも迷惑は掛けられない。
「…………」
頭を下げた姿勢のまま、悲壮な決意を固めていた琉斗は、違和感にふと眉根を寄せた。
予想に反して叱責は続かず、奇妙な沈黙が続いている。窺うように恐々と顔を上げると、ヴィルフリートは何事かを言い澱むように、視線を彷徨わせていた。
机上には飲みかけのワインが揺れている――
――これはもしや、酔っていらっしゃる?
琉斗の脳裏を、咄嗟に狡い考えがよぎった。
相手が酔っていて舌鋒 が弱まっているなら、さっさと御用聞きを済ませて出ていってしまおう。後でどうなるかはわからないが、取り敢えずこの場はやり過ごせる。
琉斗が口を開きかけるのと、ヴィルフリートが凛々しい顔を上げるのとは、ほとんど同時だった。
「――彼女は君の恋人なのか」
「……は?」
思ってもみなかった切り返しに、琉斗は瞳を瞬かせた。不法侵入や、日本で言うところの猥褻物陳列罪的な意味での叱責なら覚悟していたつもりだが、これはさすがに想定外だ。
そもそもほとんど初対面のような相手に、わざわざ聞くようなことか? という疑問の裏で、『恋人』という美しい表現にはおおよそ似つかわしくない、自分達の実際の関係性に、思わず口籠る――昨夜の女性は、一緒に旅行中の夫の目を盗んでアプローチを掛けてきた、一夜限りのお相手だったから。
「あー、えーと……」
言葉に詰まった琉斗の様子から、ヴィルフリートにはすべてが理解できたのに違いない。昨夜と同じ、整った顔に侮蔑の色を浮かべて、フンと鼻を鳴らす。
「低俗な」
吐き捨てられ、非があるのは自分だとわかっているはずの琉斗はその時、なぜか度し難い苛立ちに襲われた。質問を投げかけておきながら、禄に話を聞こうともしない態度は、まるで最初から「話をする価値もない」と切り捨てられているようだ。琉斗にだってそれなりに事情はあるのだし、そもそも金持ち連中の方がよっぽど性的にめちゃくちゃなことやってるだろ、という、一般人としてのセレブに対する勝手なイメージもある。
相手がVIPだろうが、何とか一矢報いてやりたいと考えたのは、琉斗がやはり、本質的にはホテルマンには向いていないことの顕 れだったのかもしれない。
「――アンタの女の扱いよりマシだろ」
どうせわからないだろうと高を括って、琉斗は日本語で呟いた。
昨夜の一件が琉斗の失態であることに代わりはないが、同時にヴィルフリートの身に起こった女性とのトラブルも、それなりの醜聞には違いない。経済誌の表紙を飾るような人物が、女性との別れ話を拗らせて騒動を起こすなど、高級ヴィラの敷地内でなければ、パパラッチの標的になっていたはずだ。
――ああ、女の子があれだけブチギレてたんだ。コイツが失礼な態度を取ったって言われた方が、よっぽどしっくりくるね!
そうして心中でヒッソリ溜飲を下げるつもりだった琉斗だが、事はそう簡単には終わらなかった。
「……何だと?」
「!」
地を這うような低音、かつハッキリとした日本語で言い返されて、琉斗はさすがにギクリと背筋を強張らせた。どうやら世界的企業のCEO様は、日本語も流暢に操れるらしい――なんで日本語なんてわかるんだよクソ!
まずいとは思うものの、もはや後の祭りだった。ヴィルフリートは外国人特有の、ややオーバーな身振りを交えて詰め寄ってくる。
「君に私の何がわかると言うんだ!」
相手の圧に押されながらも、会話が日本語になったことで、琉斗はヴィルフリートの意外な二人称に驚いていた。てっきり「お前」とか乱暴な口調でこき下ろされているものだと思っていたが、「君」に「私」と来たもんだ。彼の日本語教師は美しい言葉遣いを叩き込んでくれたのだろう、育ちの良さが窺えるような話ではある。
「いや、あの別れ話はさすがに……」
黙っていることが許されない雰囲気に流されるように、琉斗はもごもごと反論を口にした。宿泊客相手に、引き下がるのが賢明だと頭ではわかっている。しかし、すぐに掌 を返すのは、彼のような人物相手には、何となく逆効果になるような気がしたからだ。
「私の財産目当てとわかっている相手に、配慮など必要ない。そもそも交際してもいないのだから、別れ話というのも間違っている」
琉斗の早合点も含めて逐一訂正を入れながら、ヴィルフリートはピシャリと言い放った。この言い分では、彼らは恋人関係にあった訳ではなく、女性の側からのアプローチを受けて時間(恐らく食事)を共にした、というだけのことだったのだろう。そして、ヴィルフリートから決定的な否定の言葉を投げ付けられた女性が激怒した、といったところか。
知らねぇよ、と思いながらも、琉斗はヴィルフリートの、年齢にそぐわぬ危うさのようなものが気に掛かり始めていた。詳しくは知らないが、同族企業の『若きCEO』とはいえ、これはあまりに直情的過ぎるのではないか、と。
「それで恨みを買ってどうするんですか。同じ振るにしても、言い方ってものがあるでしょ、可哀想に」
子供じゃないんだから、という言葉を何とか飲み込んで、琉斗は苦言を口にした。あれだけの剣幕で立ち去ったのだ、彼女が今後、彼や会社に対して、何か仕出かさないとも限らない。大企業の内情は知らないけれど、誰しも立場というものはあるのだ。気に入らないからといって感情のままに攻撃してしまえば、どんな遺恨を残すかわからないではないか。
琉斗の、少々呆れたような非難には、あからさまな嘲笑が返された。
「さすが、行きずりの女性とすぐに寝られる男は、言うことが違うな」
「――!」
グッと顔を近付けられ、至近距離で罵られる。バカにしたようなストレートな物言いには、本来愛想が良くて人懐っこい琉斗も、さすがにカチンと来た。ヴィルフリートの顔が良いだけに、余計にムカつく気がする。
確かに、琉斗の行為が褒められたことでないのはわかっている。だが、人間、仕事と恋の両方を一度に失うと、根無し草になったような気分になるのだ――それがたとえ、大して熱の持てないものであったとしても。
叫んだのは、ほとんど無意識だった。
「アンタだって、俺がなんでひと夏の恋に癒やしを求めてるか知らないだろ! 女どころか他人の気持ち一つ汲めないで、よくそれで大企業のCEOなんて務まるもんだな!」
その時の琉斗は、これでバイトを失うのもやむ無しと考えていた。ここまで議論が平行線を辿るVIPが、これ以上の琉斗の暴挙を許すはずがない。連絡もなしにフラリとやって来た甥っ子を受け入れてくれた叔父と、その友人達には申し訳ないが、黙ってはいられなかった。
先程ヴィルフリートは、「君に私の何がわかる」と言ったが、それこそお互い様だ。
――そのヴィルフリートの、顔色が変わった。
頭の片隅で、叔父達への謝罪を考え始めていた琉斗は、虎の尾を踏んでしまったらしいことに気付き、遅れ馳せながら少々慌て始める。バイトをクビになるのは仕方ないにしても、暴力はちょっと。
焦る琉斗の顔の横で、バンと威嚇的な音が立った。
「!」
一瞬両目を閉じてしまい、状況を確認するために慌てて目を開けた琉斗は、ギョッとして息を呑んだ。
エントランスの扉に縫い止められるようにして、ヴィルフリートの両手に動きを封じられている――いわゆる壁ドンというヤツだ。
相手の意図がわからず混乱する琉斗に対し、ヴィルフリートは体格差を存分に活かし、覆いかぶさるようにして琉斗の肩口に顔を伏せた。これでは表情すら窺えない。
「――女性一つまともに転がせない私に、この職務が果たせないと?」
静かな声音には、隠しきれない怒りが含まれている。だからこそ余計に怖い。
ややあって、ヴィルフリートはゆっくりと顔を上げた。その整った顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。しかしその目は、まったく笑っていない。
「――いいだろう」
低く笑いながらヴィルフリートは、声も出せずに見守るしかない琉斗の腕を掴んだ。咄嗟に振り払おうとするも、びくともしない。
「何を……!」
喘ぐように何とか発した非難は、完全に黙殺された。ヴィルフリートは整った顔を歪めるようにして、琉斗の耳元に薄い唇を近付ける。
「君の心得 違いを、思い知らせてやる」
「ッ!」
言うが早いか、ヴィルフリートは琉斗の細身の身体を担ぎ上げるようにして室内を移動した。驚異的な腕力に驚く間もなく、先程まで彼が鎮座していたソファに投げ出される。
振動で机上のワイングラスがかちゃりと音を立てた。そちらに気を取られた次の瞬間、伸し掛かるようにして、嫌味なくらい整った顔が近付いてくる。
(嘘だろ、こいつソッチの人だったの!? だから女の子に厳しかったとか?)
男である自分にも普通に厳しかったことを思い出して、琉斗は必死に現状理解に努めた。何だって自分が、毒舌セレブの超絶イケメンに押し倒されているのだろう。どこをどうしたら、女性の扱いの話から、こんな展開に進んでしまうのか。
顔を引き攣らせたまま、まさかまさかと脳内で慌てふためく琉斗に構わず、節ばった大きな手が、制服のシャツの裾を捲り上げる。
「……二度と私に、生意気な口がきけないようにしてやろう」
自信満々といった様子で、ヴィルフリートは囁いた。
赤い長髪が視界の端に揺れたと同時に唇を塞がれて、琉斗は心中で絶叫を上げる。突き飛ばそうにも、体格差は如何ともしがたかった。
――ああやっぱり、コイツめちゃくちゃ酔っ払ってんじゃん!!
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