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第1話

 プエルトリコ生まれのハジメは普段、貨物船やタンカーの乗組員をやっていた。  航海中に髪が伸びるのは鬱陶しいので、黒い癖毛は伸ばしっぱなしにして普段はひとつに結んでいる。  特徴と言えばそれくらいで、浅黒い肌の体格は悪くない方だ。顔もそう悪くはない。  港に寄れば、茶色い瞳に二重の垂れ目はそこそこもてた――女にも、男にも。甘いマスクと人の言うそれで、ハジメの方はと言えば、お相手に選り好みはしない主義だ。  プエルトルコ人の母親は言っていた。お前の父親は日本から来た商社マンで、一夜の相手をしたら、大当たりだったのだと。  マナブという名前しか知らない父親とはそれきりだと言うが、娼婦をやっている母にはそれは何でもないことだったし、そろそろ子供が欲しかったから丁度良かったのだとも言っていた。 「愛しているわハジメ」  母親はいつもそう言って自分を可愛がってくれた。  幼い頃は様々な言語を話す娼婦達に囲まれていたので、ハジメは自然と各国の言葉を覚えた。スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、英語にフランス語。気の良い娼婦達に囲まれて育ったハジメは、母親の気性も受け継いで本当に優しい男に育った。街にも港にも仲間はいたし、多言語が話せるハジメには子供の頃から、いつも人づてに仕事が転がり込んできていた。  だから一七歳の時、愛情いっぱいに自分を育ててくれた母のエンマが事故で亡くなって、自分に残された家族的なものが母の姓だったアルバラードだけになっても、別段寂しくはなかった。  ハジメは海に出た。  最初は近海の漁船を手伝い、船を覚え、海を覚え、気がつけばハジメは立派な船乗りになっていた。航海が好きだったし、何より海が好きだった。そこに泳ぐ生き物たちも、飛ぶ鳥達も全て。  ハジメは生きているというそのことが素晴らしいと思っていた。  ハジメ・アルバラードという男は、そう言う男だった。       ◉  セドリックは記憶を失っていた。  病院のベッドで気がついた時には、家族と、婚約者だと名乗る男が側にいて、自分がフランス人で、テノール歌手であることを知らされた。  確かによく歌っていた小さかった日のことや、普段の動作などは覚えているのだが、ここ数年のことが全く思い出せない。  自分は歌手だというので、セドリックは試しにスマートフォンで自分の名前を検索してみたのだが、オペラでは端役やその他大勢に、金髪碧眼の、背の低い自分の姿を見るばかりで、まったく冴えない印象を受けた。  目を覚ましても一向に記憶を取り戻さないセドリックに、心配した家族はこう言った。 「疲れていたんだよセディ。気の小さいお前は舞台には向いていなかったんだ。いっそ婚約者と旅行にでも出て、羽を伸ばしておいで」と。  婚約者。  言われたから理解はしたが、お前の婚約者が見舞いに来たと言われて、病室に通された人物がプラチナ・ブロンドの男性であったことに、セドリックは始め面食らった。  そして面食らいはしたけれども、拒絶はしなかった。  面会が許されてから退院した今日まで、婚約者は忙しい中を縫って自分の元を訪れてくれたし――彼は自分と同じオペラ歌手で、バリトンを歌うらしい――記憶を思い出せないセドリックに、彼なりに常に優しく接しようと心がけてくれたからだ。  彼は言った。 「セディ。一緒に船旅に出よう。船はもう押さえてあるんだ。そうして私達のことを思い出そう」と。  けれどもセドリックは、記憶のない今は単に見ず知らずのこの男性と、二人きりの長期旅行に出るのは少しばかり不安があった。  問題は、彼なりに、と言う部分だ。  彼はいい人なのだが、多分に、正義感過ぎるというか、独善的であるというか、ともかく自分がよかれと思ったことを、そのまま人に押しつけてくるタイプの人間であった。  最初にそのことに気がついたのは、セドリックが病院でまだ体調が思わしくなく、思うように食事が摂れなかった時のことだ。  婚約者は無理矢理セドリックに食事を摂らせ、結果、セドリックは吐いてしまった。 「食べることが出来ないと治らないぞ」  と、食べられないからと言っている人間に無理やり食べさせた挙げ句に、嘔吐し苦しんでいる時にも一言も謝らず背中をさすって優しくそう言う男に、不安を覚えない者がいるだろうか。  一事が万事、婚約者の振るまいはそんな調子なのだ。  そうして、今、その婚約者と船旅に出るため、セドリックはくすぶるような不安を抱えたまま、嫌とは言えずにトランクに荷物を詰め始ている。  セドリック・フォーレという男はそういう状況だった。

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