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第2話
港は晴れていた。
ハジメは空を飛ぶ鴎を目で追いながら、既に後悔し始めていた。
――引き受けるべきじゃなかったんだ。豪華客船のポーターなんて。
白い上下のお仕着せに、ハーフアップの頭には帽子を乗せ、愛想を振りまきながら乗客の荷物を受け取って運ぶ。
そう、客の荷物を運ぶのだ。
普段油臭いタンカーだの、鉄錆臭い貨物船だのを乗り継いで来たハジメは、未だかつてこんな小さな荷物を運んだことなどなかった。
――小さくて華奢だし、高そうだし、それになんだか良い匂いまでする。
通り過ぎるご婦人の残り香が鼻先を掠めた。
――まあ、それは悪くない。
きちんと留めた襟元のボタンを外して、ハジメは息を吐く。暑い、やっていられない。
他のポーター達は手慣れた風に笑顔で荷物を引き受けていた。
ハジメとて、けして笑顔が苦手な訳ではない。むしろにこやかな方だろう。
だが、どうにもこうにも、この頭の上のシロモノは落ち着かないし、ボタンでパツパツのお仕着せは、いくら労働者向けとはいえ普段身につけているランニングシャツのようには自由に動けない。
何より暑い。
ふう、と息を吐いてからもう一度ボタンを留めると、ハジメは荷物の受け取りに戻った。
「さて次は……」
気を取り直して前方に目をやると、一人、重たそうなトランクを引きずるブロンドの小さな後ろ姿が目に入る。
「セニョリータ! お持ちしますよ!」
ハジメは慌てて駆け寄った。トランクを足の上にでも落としたら、これからの船旅が台無しだ。
「任せて下さい、セニョ――」
横から手を伸ばしかけて、波打つブロンドの持ち主が実は女性ではなく、小さな男性であったことに、ハジメはそこでようやく気がついた。
「失礼、セニョールでしたか」
「いえ、いいんです、僕よく間違われて……」
応えた言葉はフランス語だった。
――ムシューとお呼びするべきだな。
ハジメは思い直してあらためて小さな乗客の顔を見る。すると、逆に微笑んだ瞳に覗き込まれた。
――南の海みたいだ。
ハジメはその瞳の色に一瞬見惚れ、受け取ったトランクを、足の上に取り落とした。
「痛ッ……重……ッ?!」
尋常でないトランクの重さに悲鳴を上げると、乗客は慌ててその荷物をハジメと一緒に持ち上げた。
「わぁ! すみません!」
「な、何が入ってるんです?」
思わず尋ねたハジメにセドリックは「楽譜です!」と答えた。
「変なものじゃありません、本当に楽譜、楽譜だけなんです!」
「が、楽譜?」
「その、僕、歌手みたいで……」
「ああ船で歌われるんですか?」
「いえ、歌えなくて……」
「?」
うなだれたセドリックに、ハジメは思わず下がった彼の肩へ、自分の大きなてのひらを置いた。
「よくわからんですが、これだけ重いものを持って歩くんじゃあ、疲れもしますよ。お運びしますね」
にっこりと笑って、見当違いなことを言うハジメに、セドリックは思わず吹き出した。
「ありがとう。あなたもこの船に乗るの? あー……ムシュー・アルバラード?」
胸元のプレートを読んで、セドリックが顔を上げる。
「そうですよ、お客様」
「セドリック」
「セドリック……えと、ムシュー?」
「フォーレ。セドリック・フォーレ。よろしくね、ムシュー・アルバラード」
「ハジメと呼んでください。ハジメ・アルバラードです」
「ハ……ジメ?」
「日本の名前なんです。日系二世なもので」
「そうなの、ふふ、素敵だね」
そこへ。
「セディ、何をしている?」
つかつかと忙しげにプラチナ・ブロンドの男がやって来た。神経質そうな声は面持ちもそのままで、男は深い緑の瞳でハジメをひと睨みしてから、セドリックを振り返った。
「何をしてると聞いている、遅いじゃないか」
「ロブ、ごめんなさい、僕の荷物が重すぎて、係の人にご迷惑を」
「そんなことは彼の仕事だろう。任せておけば良い。君、これも頼む」
「あ、はい!」
ハジメが突き出されたトランクを受け取ると、男はセドリックの腕を掴み、二人は足早に乗船へと向かっていってしまった。
「残念だったなハジメ」
受け取ったトランクを運び込んでいると、ハジメは同僚に声を掛けられた。
「その荷物、二つとも同じ部屋じゃないか」
チラリと目の隅で同僚を見ると、ハジメは言った。
「ああ、確かに部屋は同じだが、姓はまだ別だ」
プラチナブロンドの男から受け取ったトランク。その持ち手に下がったタグには『ロベール・デュラン』と表記されていた。
「夫婦別姓かもしれないぜ」
「かもしれないが、可能性はゼロじゃない」
「ハジメ、お前のその惚れっぽいのも大概にしておけよ。また痛い目を見るぞ」
「そりゃ……俺は惚れっぽいよ? でも別に惚れた訳じゃ……」
「何言ってんだ、顔に書いてあるぞ、『気になります』って」
荷台にトランクを詰め込んで、ハジメは二人の去った方向を振り返る。
「……だって、彼、あんまり幸せそうに見えなかったからな」
そのつぶやきに同僚はハジメの背中を叩き、さ、仕事仕事、と促したのだった。
◉
ハジメが二度目にセドリックを見かけたのは、ルームサービスのワゴンを届けた、戻りしなのことだった。
「もう、わかったよ! 僕の楽譜は全部海に捨ててくる! それでいいでしょう!?」
突然ドアが開き、楽譜の束を抱えたセドリックが部屋を飛び出してきたのだ。
「大丈夫ですか?」
ぶつかりそうになったハジメは、楽譜ごとセドリックを抱きとめて、その顔を覗き込む。 セドリックは泣きはらした目でハジメを見上げ、すぐに顔を背けた。
「泣いてるんですか?」
「き、気にしないで」
セドリックは大きく吐息をついて、気持ちを整えているようだ。
腕の中のセドリックが落ち着いたのを見計らって抱きとめた身体を放すと、ハジメは落ちた楽譜を拾い上げる。
それらの楽譜には小さな文字であちこちに書き込みがしてあり、音楽に疎いハジメでも、その持ち主が熱心な勉強家であることがうかがい知れた。
「駄目ですよ」
「え?」
「海にものを捨てたりしてはいけません」
ハジメは拾い上げた楽譜を揃えて、セドリックに手渡す。
「あ……ありがとう。ふふ。そうだね、もうしないよ、ハジメ」
「ましてや、こんなに練習してきた楽譜を捨てたりなんて、もっといけない」
すると、再び、セドリックの瞳に涙が浮かんだので、ハジメは慌ててセドリックを抱き寄せた。
「あ、あ、悪かった、泣かせるつもりは」
慌てたハジメは、セドリックを抱きしめたままオロオロと周囲を見回す。上手い言葉が見つからない。
客室フロアの通路は人通りも多い。
ハジメは周囲の刺すような視線に耐えかねて、セドリックの手を引き、最寄りの化粧室へと連れ込んだ。
「ムシュー・フォーレ」
涙をぽろぽろと溢すセドリックの様子を伺い瞳を覗き込む。
――ああ、やっぱり、南の海だ。
白い肌は昂揚のためセドリックの頬を赤らめていた。ハジメには、このどうしようもなく放っておけない人物を捨て置くことが到底出来そうもない。
混乱しているセドリックが、自分の手を振り払わなかったので、ハジメは彼を連れて化粧室の個室へとすべり込んだ。
内側から鍵を掛けて、ハジメは言った。
「嫌だったら叫んで」
「え?」
それから。
ハジメはセドリックの頭を抱え込むと、ためらいもせずに唇を重ねる。
それが。
ハジメの出来るたったひとつの慰め方だったからだ。
セドリックは驚きに目を見開く。
「ん……っ……んんっ」
ハジメの大きな手のひらでうなじを撫でまわされ、耳朶を優しく揉まれて、セドリックは腕の中の楽譜を取り落としそうになるのを必死に耐えた。快感がさざ波のように身体を這い上がり、全てを忘れてしまいそうになって、セドリックは、とんとんとハジメの胸を叩き顔をそらせた。
ハジメが、心配そうにセドリックを覗き込んでたずねる。
「嫌だった?」
「嫌……っていうか、こんなキス初めてで……溶けちゃうかと思った……」
その言葉に煽られて、ハジメは、セドリックを抱きしめ熱烈に首筋へとキスを落とす。
「ひぁ……っ」
熱い舌で襟元まで舐めまわされ、セドリックはもう自分の足では立っていられなくなり、ハジメの腕の中へと身体を預けた。
「だめ……ハジメ」
「ムシュー・フォーレ」
ハジメに見つめられ、セドリックはたじろいだ。
「僕には婚約者が……」
「この前の、彼ですか?」
ハジメはセドリックの首筋に再び唇を滑らせる。
「ぁ……やめて、ハジメ……」
ハジメがセドリックの耳朶を唇で食みながら、囁いた。
「こんな風に大事な人を悲しませて、悪い人ですね」
「んぁ……っやめ…ハジメだめ……だめだよ……」
「彼のことを愛してるんですか? 俺にはそうは見えなかったけど」
耳の後ろにキスを繰り返しながらハジメは続ける。
「んっ……わからない。……ぁあ……っ僕、彼のことを何も知らなくて」
そのセドリックの言葉に、ハジメのキスが止んだ。
「何も知らない?」
たずねられ、上気した頬で、セドリックはハジメを見上げる。
「僕、記憶喪失だから……」
「ええ?」
セドリックから思いも寄らなかった事実を告げられハジメは驚いた。
「彼、いい人なんだと思う、でも、ちょっと怖くて」
「怖い?」
「……うまく言えない」
言いよどんだセディに、ハジメはもう一度キスをしかける。
「んっ……んんっ……はぁ…ハジ……メ……っ……ぁ……ん……っ」
セドリックは貪られるままにハジメを受け入れた。厚みのある舌に口の中を蹂躙され、セドリックの口の端から透明な液体が伝い溢れる。
「ふぁ……っ」
「ムシュー・フォーレ……」
ぎゅうと抱きしめられ、セドリックはもはや楽譜を持ち続けることが出来ずに、バサバサと足下に落としてしまった。
「ハジメ……」
ハジメは微笑んでようやくセドリックを放すと、屈み込んで再び楽譜を拾い始める。
「あ……」
「哀しいのが去ったなら、良かったです」
拾い集めた楽譜をセドリックに手渡しながらハジメは言った。
「喧嘩したのなら仲直りをした方が良いですよ。ムシュー・フォーレ」
ぽんぽんと大きな手のひらで、セドリックの頭を叩き、ハジメは個室の鍵を開ける。
「部屋まで送りましょうか?」
セドリックは、ハジメを見上げるとかぶりをふった。
「そうですか。それじゃあ俺はこれで。仕事に戻らないと」
そう言ってハジメはセドリックのおでこにキスを落として彼を残し、仕事へと戻――ろうとしたのだが。
――あ……ぶなかった。もう少しで抱いちまうところだった。
ハジメは従業員の出入り口に駆け込むと、思わず頭を抱える。
――記憶喪失ってなんだよ。彼が怖いって? いったいどういう話なんだ?
「もうちょっと抵抗してくれよぉ……」
ハジメは自分のしたことも棚に上げ、天を仰いで壁に頭をつけた。
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