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第3話
セドリックの婚約者であるロベール・デュランは、そつのない男、という部類の男だった。
少し神経質なところのある彼は、白銀の髪も相俟って時に脆くも見えるのだが、実際にはそんなことなど全くなかった。
むしろセドリックに対しては、強引とも言える振る舞いをする彼を、周りの者は──セドリックの家族でさえ──止めることはできなかった。
何故なら力のないセドリックは彼によって支えられており、彼がいるからこそセドリックの今があるのだ、と、誰しもが考えていたからだ。
ロベールは何をするにも婚約者のセドリックを連れて歩いたし、彼は彼なりにセドリックを愛していたのだろう。
だろう、というのは、当のセドリックが記憶を無くし、ただただ自分に辛く当たるロベールからの愛情を、もはや信じられなくなっていたからだ。
怒鳴り、叱り、貶す。
セドリックにはなぜ自分がそんな態度を取 られなくてはならないのか、記憶を失った今、まるで納得することができなかった。
「あなたはどうして、そんな酷いことを言うの?」
セドリックは涙を浮かべて、理由を求めようとロベールに逆らうが、それが余計にロベールを苛立たせた。
なぜなら自分が、自分こそが、弱々しいセドリックを見出し、彼を愛し、彼が舞台に上がり役を得るようになったのだと、自負していたからだ。
学生時代からセドリックの面倒を見てきたロベールは、この、全ての恩を忘れて自分に歯向かうようになってしまった婚約者をなんとか元に戻そうと──この船旅に連れてきたのだった。
それなのに。
遡ること数刻前。
「その楽譜はなんだ! セディ? 歌のことはしばらく忘れろと言っただろう!」
「ごめんなさい、ロブ、でも、ほら見て、こんなふうに走り書きがしてあって、僕、どんな風に歌おうとしてたのかなって……何か思い出せないかなって……」
「医者に休めと言われただろう? どうして素直に言うことを聞けないんだお前は!」
思わず怒鳴りつけたのは、ロベールがシャワーを浴びて浴室を出ると、船室のベッド一面にセドリックが楽譜を広げていたからだ。
「そうだけど……僕だって、あなたのことをちゃんと思い出したい」
「無駄なことだと言っている! そんなことをしても疲れるばかりで、余計に頭が混乱するだろう!」
セドリックが、がさがさと楽譜をまとめ始めたので、話を聞き分けたものとロベールが安堵したのも束の間。
「もう、わかったよ! 楽譜は全部海に捨ててくる! それでいいでしょう!?」
そう言って、セドリックは部屋を飛び度して行ってしまったのだった。
バスローブ姿のロベールは直ぐには後を追えず、いまいましげに舌打ちをして、真新しい下着と……先ほど脱いだスラックスにサマーセーターを身につける。
「セディ! 何処だセディ!」
ロベールはドアを開けると、あたりも気にせずセドリックの名を呼びながら船内を練り歩いた。
しかし、姿が見つからない。
三十分もセドリックを探し回って、ロベールはようやく船室へと戻った。
「一体何が不満だと言うんだ!」
ロベールはベッドへ乱暴に腰を下ろすと、靴を脱いでは床へと叩きつけた。
「この私がだ! この私がだぞ? 全ての予定を後回しにして、セディ、お前を優先してると言うのに、いったいこれ以上何を望むというんだ」
するとそれに、答える声があった。
「僕が望んだとして、あなたはそれを叶えてくれるの?」
戸口に楽譜を抱えた、セドリックが佇んでいた。
「セディ! 何処へ行っていた」
「あなたのいない場所」
「混ぜっ返すな、お前は私の婚約者だろう? いちいち歯向かうな」
「あなたになんの権限があるというの?」
セドリックは上目遣いに怯えながら、精一杯の反論を試みる。
「ああ、セディ。だから、お前は全てを忘れてしまったんだよ。私がどれだけお前の為に尽くしてきたか……」
ロベールはそう言ってセドリックに歩み寄ると、彼を抱きしめ、優しくそのブロンドを撫でた。
「ごめんなさい、ロブ。僕がわがままでした」
セドリックはこうされると、いつも何も言えなくなって、ロベールの言いなりになる他はないのだった。
◉
初めて二人が出会ったのは学生の頃だ。
音楽院でロベールの後輩だったセドリックは、真面目であるが故に地味で目立たず、そんな彼にロベールが声を掛けたのが最初だった。
「君、リンドロ役をやらないか?」
試験で発表するオペラのグループ分けで、どこにも参加する事が出来ずに厄介者扱いされていたセドリックを、ロベールがそう言って誘ったのだ。
「君の声はテノーレ・レッジェーロそのものだ。今度の課題の『アルジェのイタリア女』で是非一緒に歌って欲しい」
「ありがとうございます。でも僕、要領が悪くて練習室もろくに取れないんです。きっと皆さんの足手まといに……」
「ああ、それなら、うちを使うかい?」
「え?」
「私の家に防音室があるから、好きな時に来て使うと良いよ」
「そんな、いいんですか?」
「かまわないよ、試験のためだ」
そう言ってある日案内されたロベールの自宅は、セドリックの想像以上の豪邸だった。
セドリックの家はといえば、ごく普通の一般階級で、父親は教師、母親は手芸が趣味の専業主婦だった。住まいは郊外にあったので、ロベールとは較べるべくもない家柄だ。
「凄いですね……ムシュー・デュラン」
「ロベールだ」
「ロベール……」
「ロブで良いよ、セディ。凄いのは私じゃない、私の家だ」
くだんの防音室は、セドリックの想像よりも広く、グランドピアノまで置かれた一角には、舞台も設えられていた。
「すごく感謝します」
セドリックは燦めくような笑顔でロベールに応える。
その。
セドリックの、人に恩義を感じ、また、アーティストにしては珍しく素直にアドバイスに耳を傾ける性格が――徐々にロベールを壊していったことは、不幸でしかなかった。
『哀れなセドリック』から感謝されるという優越感が、徐々にロベールの心を蝕んでいき――ついにセドリックを手放せなくなって、婚約を申し出たのはロベールが学院を卒業して間もなくのことだった。
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