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第4話

 ――もどかしい。  正直なところ、出港してからこの方ハジメはセドリックを目で追い続け――今ではすっかり目が離せなくなっていた。  デッキで、アトリウムで、ショッピングモールで、ラウンジで。至る所で目にする二人の姿に、ハジメは溜息をつく。  華々しい芸能人である二人とは違い、自分はしがない船旅のクルーでしかない。この船に乗ったのだって、人づてに頼まれた臨時の仕事だ。おそらくこの航海が終わったら、もう二度とこんな豪華客船に乗ることなどないだろう。  おまけに、航海が終わるまでは休暇すらない身の上だ。自由になるのは夜遅くで――セドリックと二人きりになることなど、夢のまた夢だった。  しかも二人の姿を見かける度、セドリックはロベールに振り回されており、ハジメはそのたびに深呼吸を繰り返した。  ロベールも乗客のひとりなのだ。  その横暴な態度に振り上げそうになる拳を必死に押さえつけ、ハジメはクルーとして、ひたすらサービスに務めた。  担当のフロアにセドリックの船室があったことを最初のうちは喜んでいたハジメだったが、それはすぐに地獄に変わった。  ――すぐそこに、セドリックはいるのに、触れられない。  ハジメは再び溜息をつく。  甘いキスを交わした事が嘘のようだ。  あの日以来、ハジメは髪の毛一本、セドリックに触れることが出来ずにいた。 「何をしている? もう下がって構わない」  そうして、モーニングのルームサービスを届けに来たハジメは、給仕を済ませたあと、ついその場に留まってしまい、ロベールをいらつかせてしまったのだった。 「あ、申し訳ありませ……」 「ねえ、紅茶をサーブしてくれる?」  すぐに退室しようとしたハジメを、セドリックが引き留める。 「かしこまりました」 「セディ、スタッフの手を煩わせるな」  顔を顰めるロベールに苦笑を返して、ハジメは講習で習ったとおりに紅茶を注ぐと、セドリックへ茶器を差し出す。 「ありがとう」 「どういたしまして」 「君、もういいだろう、下がりたまえ」 「失礼いたします」  追い返されたにも関わらず、ハジメは上機嫌でガラガラとワゴンを押した。  ――指先が触れた。  紅茶を渡す時に、セドリックの手がハジメの指先に確かに触れたのだ。ジンとしたものが指先から胸に広がる。  一方、セドリックも、テーブルの下でハジメの指先に触れた手を愛おしげに握りしめていた。  ――どうすればいいんだろう。  ハジメの指先が触れた手が熱い。  ――ロブにはとても世話になっていることを聞いている。それにこんなにもよくしてくれてるというのに、どうしよう。僕は……どんどんハジメが、ハジメに惹かれていく。  あっという間に。  自分の心がひとりのクルーに持って行かれてしまったことに、セドリックは酷い良心の呵責を感じていた。  何にも知らない。  交わした言葉もほとんどない。  ただ慰めのキスをくれただけの男に。  こんなにも心惹かれてしまった自分をセドリックは恩知らずだとも恥知らずだとも分かっていた。  けれども、ひとたびハジメ・アルバラードに向かってしまった心は、もうどうにも止めることが出来なかった。  ――ロブのことを何も思い出せない、彼を好きだという気持ちが何処にもない今、彼を愛さなくてはならないという義務感はあるけれど、彼を愛しているという気持ちは……。  セドリックが胸の奥を探ってみても、それは何処にも見つからないのだった。  ――いいや、だめだ。僕は、ロブを好きにならなくては。 「セディ」 「な、なに? ロブ」  呼びかけられ、セドリックは我に返る。 「私はジムへ行ってくるが、お前はどうする?」 「あ……僕は、いいかな。読みたいものがあるから」  ロベールが何か言いたそうな顔でこちらを見るので、セドリックは続けた。 「違うよ、推理小説。もう楽譜は広げないから安心して。旅行の間は、お仕事には触れないよ」  そう言ったセドリックに、ロベールは鼻白んだ。 「仕事? まあ、お前がそう思うのは自由だ。ランチには戻る」  そう言い置いて、ロベールは部屋を出て行ったのだった。  セドリックはその言葉にまた胸を痛めた。 ――仕事じゃない? 僕の歌は、彼にとって真似事みたいなものでしかないのかな。  惨めにな気持ちになって、テーブルの上から船の図書室から借りてきたペーパーバックを取り上げる。  すると、その下からルームサービスのメニューが顔を出した。 「あ……」  セドリックがルームサービスにコールしたのは、その五分後のことだった。       ◉  船室のブザーが鳴った。  セドリックは転がるようにドアへと向かう。 「ルームサービスです」  銀盆を片手にやってきたハジメを見て、セドリックは思わず抱きついてしまった。 「ムシュー?」 「ロブは今いないんだ。ランチまで戻らないって」 「ええ?」 「こんな事をする僕は酷い婚約者だよね」  セドリックは微笑んだのだが、また同時に、涙が頬を伝い落ちた。 「違う。悪いのは俺だ」  ハジメは銀盆を扉横のカウンターに置くと、あらためてセドリックを抱きしめる。 「この前キスしたのが夢だったんじゃないかとずっと思ってた。さっきムシュー・フォーレ、あなたの手に指先が触れるまで」  髪に優しくキスをしながらハジメが尋ねた。 「セディでいいよ。ハジメ」  頷く変わりにハジメはセドリックの顎をすくい上げ、唇を重ねた。 「ん……っんんっ」  そのキスは、貪るような接吻に変わり、ハジメはセドリックの身体をまさぐる。 「セディ……」 「ぁ……ハジメ……」 「ずっとこうしたかった」  幾度も唇を重ね、リップ音が室内に響く。 「……ぁっ……」  やがてハジメのキスは唇を離れ、セドリックの首筋に、うなじにと降り注いだ。 「やぁ……それ、だめ……」 「どうして? ああ、セディは耳の方が好き?」  ハジメは意地悪に言って耳に唇を押し当てると、舌先でその穴を蹂躙する。 「ひあぁあ……!」  快感から逃れようと身を逸らすセドリックを抱え込んで、放さない。 「ハジメ……だめ……気持ちよくなっちゃうから……」 「なればいい。セディ……もっと触れたい」  ハジメは耳朶を舐め上げながら、セディのシャツをたくし上げる。  浅黒い手をすべり込ませ、ハジメはセドリックの白い肌を撫で回した。 「ぁ……あ……っ」  波打つセドリックの身体を辿り、ハジメの骨太な指先がやがて胸の先の敏感な部分をとらえた。 「んっ……ぁはあ……っ!」  くりくりと先端を指先でいじられ、セドリックが身を捩る。 「ここ、いいんだ?」 「ぁ……あ……っ」 「妬けるな。彼にすっかり可愛がられて開発済みか……」 「違っ……知らなぁあっ……やぁ……っ」  シャツの胸元をはだけて、ハジメはセドリックのほつりと立ち上がった乳首を唇で優しく食み、舐め上げる。ちろちろと桃色の先端を舌先で嬲って空気ごと啜り上げれば、びくびくとセドリックは身を震わせた。 「ぁっああっ……!」 「セディ……」 「僕、こんなつもりじゃ……だめ……ハジメ……だめだよ……」 「セディ、だめなのか?」  唾液でぬるついた乳首を指先で弄びながらハジメは尋ねる。 「僕……はぁ……あぁっ……少しでも……話せたらいいなって……んっ」 「話してるじゃないか」 「ちが……こんな……こと……」  ちゅっと乳首を吸い上げられ、セドリックはまた小さな嬌声を上げた。 「セディは嫌い?」 「ハジメ……意地悪言わないで……」  ぎゅうとしがみつくセドリックは小刻みに震えている。 「こんなこと、あなたとしかしたことないから。わからないよ」 「なんだって?」  セドリックの新たな告白に、ハジメは驚愕した。 「したことない? じゃあこの前のキスも……」 「初めてって、言ったでしょう? あんな深いキスしたことないよ、ロブと」 「こんな可愛い婚約者がいるのに触れたことがないって? 彼は頭がおかしいんじゃないのか」 「ロブはよくしてくれるよ、でも、愛してくれているのかは、僕には分からない。まだ彼とは数ヶ月しかいないけれど、彼の親切は、彼にとっての親切であって、僕の気持ちは、どうでも良いみたい……身体を求められることだってない。僕は間違っているのかな?」  そこでハジメは、自分たちが船室のドアの前でまだ突っ立ったままであることに気がついた。  ハジメはセドリックをソファに座らせると、持ってきたコーヒー給仕する。コーヒーポットの中身は幾分かぬるまっていたけれど、香りはまだ充分に残っていた。 「ごめんよセディ。俺は、自制心が足りないって言うか、好きなものを見つけると目標にまっしぐらって言うか……」 「それって、僕を好きって事だよね。嬉しいよ、ハジメ」 「セディが、そんな、複雑な事情になってるって知らなくて、本当にごめん」 「ごめん? ハジメは、ただ僕がアバンチュールの相手にいいなって、そう思ったって事?」 「俺は!」  ハジメは思わず大きな声を上げて、それから、何も言えなくなり、ただ、うつむいた。  ――確かに、それ以上を考えていなかった。 「ハジメ?」 「混乱させるつもりじゃなかったんだ。困らせるつもりも……ただ、セディの哀しそうな顔を見てられなくて」  セドリックはうつむいて、そうなんだ、と小さく呟いた。  その時、ハジメの腰の端末が、小さなビープ音を鳴らした。仕事だ。 「ああ、もう戻らないと」 「ハジメ、ありがとう。アバンチュールの相手でも、僕のこと、好きって思ってくれて嬉しかった」 「セディ?」 「僕、しゃんとしなくちゃね。ロベールの婚約者なんだから、そのこと、あなたといるとたまに忘れてしまって」 「ごめん、本当にそんなつもりじゃ、ただ俺はセディに楽しくなって欲しくて……」 「行って。お仕事があるでしょう。コーヒーは許して、喉を通りそうにないから残りは下げて貰って良いかな」 「セ……」 「ほら行って、腰の通信機光ってる」 「今行く!」  ハジメは通信機に荒っぽく応答して、セディを見た。 「セディ。俺は」  セドリックは冷たく微笑むと、言った。 「ありがとう。ちゃんと楽しかった。もう十分だよ。僕はそろそろ元の世界に戻らなくちゃ。アデュー」  アデュー。  それは、訣別を意味する別れの挨拶だ。  言われたハジメは、胸にざっくりと刺さった何かに、思考の全てを持って行かれてしまう。  ――俺は、セディにとって、もう、いらない存在なのか。 「……アデュー。ムシュー・フォーレ」  ようやくそれだけ口にすると、銀盆を片手に、ハジメは退室した。  ――そりゃそうだ。セディが何を思ったにせよ、結論は明白じゃないか。セディが俺を選ぶか? こんな手の早い、ただの船乗りをを? ノ! 最後には、こんな船旅に婚約者を連れ出せる男の方を選ぶに決まってる!  呼び戻されて、指定の部屋へガラガラとルームサービスのワゴンを押しながら、ハジメはなんとか自分を納得させようと自問自答を繰り返す。  ――俺の年収だって足りないぜ、あの部屋は。 「くそっ、もっと力があれば!」  ――そうだ、俺がもっと、力のある人間だったら、セディを連れ去れるのに。  ハジメは独りごちて、その言葉に自分で更に傷つき、その日は仕事に没頭することに専念した。

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