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第5話

 ――僕は何を期待していたんだろう。  セディは、ペーパーバックを手に取り、ページをめくっているのだが、先ほどから一向に内容が頭に入ってこなかった。  十数ページほどをめくっては、表紙に戻るのを繰り返している。  ――彼は、優しいんだ。ただ優しかっただけなんだ。僕をこの状況から救い出してくれるなんて訳がない。彼はヒーローでもないし、僕はお姫様でもない。乗客とクルーという関係でしか無い。  そこへ、トレーニングのメニューを終えたロベールが部屋に戻ってきた。  セドリックは手の中の本を閉じ、ソファに腰掛けたまま声を掛ける。 「ロベール」 「なんだ?」  顔を上げ、じっとロベールを見つめて、セドリックは言った。 「僕、あなたと別れたい」  ロベールは、顔色も変えず首からさげたタオルで、首筋を伝う汗をぬぐいながらセドリックに尋ねる。 「……あの男か?」 「え?」 「朝、来ただろう。長い黒髪の、あの男だろう?」 「ハジメは関係ない!」 「そうか?」 「ううん……本当は関係は、あります。でも彼とはお別れしたんです」 「それならもういいだろう。私はお前を許す。私達が婚約を解消する必要がどこにある?」 「あります! 彼と別れて、気がついたんです。痛い。こんなにも胸が痛い! ハジメは本気じゃなかったかもしれないけれど、僕は! 僕は本気だったって気がついたんです!」 「愚かな! 記憶もない、仕事も無いお前が、私と別れてどうやって生きていくと言うんだ? 正気に戻れ! お前は今まで通り、ただ私にすがって生きていれば良いんだ!」 「すがる?」 「あ、いや、失言だった。私を頼れ、昔のように。いつもお前はそうしてきただろう」 「あなたが欲しかったのは生涯の伴侶じゃなくて、自分の優越感を満たしてくれる哀れなペット……」  ロベールの平手が飛んだ。  高い音を立ててセドリックの頬を打ちしえる。  その打たれた頬を押さえもせずに、セドリックはロベールを睨みつけた。 「あなたと生きていくので無い限り、僕の過去の記憶には意味なんて無い! 全部あなたにあげる! “僕とあなたの記憶”を! 僕はもう、誰にも頼らないで一人で生きていく!」 「出来る訳がない。お前は、今この瞬間だって、私の世話になっているじゃないか。この部屋を出て、おまえに行き場なんて無いだろう。どうする? この部屋を出て、船を飛び降りでもするつもりか? 楽譜すら海に投げ込めなかったお前に、それが出来るはずもない」  ロベールに失笑され、セドリックは何も言い返せずに、部屋を飛び出した。  ――行く当てなんて無い。そんなの、自分が一番分かってたのに。  息をするのも嫌だった。  このまま消えてしまいたい。  セドリックは、ロベールにも、ハジメにも見つからぬよう、この大型豪華客船の人混みに紛れ込む。  ショッピングエリアに、遊園地エリア、巨大スライダーのあるプールエリア……それらの施設をうろうろと歩いて、セドリックは終いに、夕方から開演する劇場へと辿り着いた。  ゲートをくぐると、大きなシャンデリアが下がり、その下の深紅の天鵞絨が張られた観覧席には、着飾った人々が楽しげに着席し、幕が上がるのを待っている。  セドリックは、自分の席へと着いた。  仲睦まじい老夫婦が隣だった。  ――いいな。  今宵の演目はオペラではない。  シェイクスピアの「真夏の夜の夢」だ。  けれど、セドリックは、ただ舞台の上をひるがえる美しい衣装の色彩を目で追うのが精一杯で、ストーリーなどはまるで頭に入っては来ない。  やがて舞台が終わり、カーテンコールが終わり、観客が席を立ち――場内の清掃が入り初めても、セドリックは席を立てなかった。 「場内でまだ客が残って泣いてる?」  通信機で報告を受けたのは、劇場を担当していたハジメの――あの背を叩いた――同僚だった。  ――そんなに感動的な作品だったか? 「真夏の夜の夢」は?  劇場へ入って見渡せば、忘れる事も無い印象的なブロンド頭が一人、観客席に残っている。  彼は通信機を切り替えると、マイクに囁いた。 「あー。ハジメ?」 『どうした?』 「お前の『気になる』人が、劇場で泣いてる」 『なんだって?』 「全く動く気配がなくて、劇場が閉められない。お前の担当フロアの客だったろう? 困っているからすぐ来てくれ」 『わかった! グラッチェ・アミーゴ!』  ハジメが通話を切ったので、清掃員達にその乗客はそっとしておき、気にせず作業を進めるように指示すると彼は再び持ち場へと戻っていった。         ◉ ──俺は何を迷っていた? 俺に力がないからと、あの男にセディを委ねるのか? ……冗談じゃない! あの男は、いつだってセディを泣かしている。  船内を駆け抜けながら、ハジメの意志はもう、決まっていた。   「ムシュー・フォーレ!」      劇場いっぱいに響き渡る声で名を呼ばれ、セドリックは思わず顔を上げた。  その声は、セドリックが一番聞きたい声だった。  声の方を見れば、ハジメが座席を漕いでこちらへと向かっているところだった。   「また、泣いてる」    ようやくセドリックの元に辿り着いて、そう言うとハジメは隣の席に腰を下ろした。   「ハジメ……」    ハジメは手を伸ばし、セドリックの顎を引き寄せると、その瞼に、頬に、唇にくちづける。 「言うならオルヴォワール(さようなら)だろ? セディ、アデューなんて、言うなよ。あの時、俺は胸に槍でも刺さったかと思った」 「ごめんハジメ、そうしなきゃダメだと思ったの。でも、僕も、すごく胸が痛くて……」 「まだ痛い?」  ハジメは、セドリックの耳朶にキスを落とす。 「今は、胸が熱い」 「おいで」  ハジメは両腕を広げると、セドリックを強く抱きしめた。 「もう、離したくない。それがたとえ、セディを不幸にする行為だと分かっていても」  セドリックは、ハジメをきつく抱き返す。 「たとえ、記憶が戻って、その時、俺がセディにとって不要な存在になって、たとえ、俺が捨てられる運命であるとしても、それまでは一緒にいたい」  ハジメは抱擁を解くと、セドリックの左手を取ってその薬指にキスをした。 「ハジメ?」 「セディ、セドリック・フォーレ。俺は、あなたを愛しています。どうかこの俺と一緒に生きてくれますか?」 「あ……」  セドリックは、ハジメに手を取られたまま、また、その海のような瞳から、涙を落とした。  「喜んで」    

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