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第12話
「……うん、ありがとう。ハジメ。両親には手紙を書くよ。時間はかかるかも知れないけれど、きっと分かってくれる」
セドリックは最後にそう言って、この話を切り上げたのだった。
◉
それから何ごともない日が過ぎて。
ハジメの話していた南半球でのクリスマスは夏真っ盛りだ。
その日は朝から過ごしやすい気温で、直クリスマスという日曜日の事だった。
広場では家族連れの笑い声が響き、子供たちが走り回り、鳩たちが石畳の上を忙しなく歩いている。
セドリックはいつものようにパラソルを開き、売店の支度を整えた。
それから、いつものように、ラジオのダイヤルを回す。
すると。
聞き慣れたポップスを探していたセドリックの指が、不意に止まった。
スピーカーから流れ出した旋律に、ふいに胸を貫かれたからだ。
──『美しい人に恋い焦がれて』。
それは《アルジェのイタリア女》第一幕。
リンドロが初めて歌うアリアだった。
瞬間。
止まっていた時間が、一気に逆流する。
ピアノの旋律。
譜面に書き込んださまざまなメモ。
舞台の照明。
歌い上げる緊張感。
すべてが、洪水のように脳裏へ押し寄せた。
「あ……」
その調べを耳にしたセドリックは、気がつけば美しい唇を開いていた。
セドリックは歌っていた。
誰に聞かせるでもなく。
ただ、その旋律に導かれるまま。
澄み渡るテノールが広場へ広がっていく。
通行人が足を止め、子供たちさえもが振り返った。
それでもセドリックは歌い続ける。
頬を伝う涙を拭おうともせずに。
震える喉を必死に支えながら。
歌い終えた時には、胸の奥を覆っていた霧が完全に晴れていた。
忘れていたもの。
失っていたもの。
そのすべてが戻ってきていた。
──ああ、そうだ。
──僕は。
──僕は歌が……
その時だった。
「セドリック・フォーレ!」
鋭い声が広場を切り裂いた。
それはまるで雷鳴だった。
鳩たちが一斉に飛び立ち、白い羽根が空へ舞い上がる。
ざわめいていた広場が、一瞬静まり返った。
セドリックは弾かれたように顔を上げる。
羽ばたく鳩の群れの向こう、逆光の中から現れた姿を見た瞬間、息が止まった。
それは、セドリックが、恐れていたロベールの姿だった。
「……ロブ」
震える唇から零れ落ちた名前。
ロベールは真っ直ぐにこちらを見つめている。
その瞳は、嬉しそうに揺れていた。
「今の歌声……思い出したんだな」
低く掠れた声。
ロベールはゆっくりとセドリックへと歩み寄る。
一歩。
また、一歩と。
だが、そのたびにセドリックの顔から血の気が失われていった。
「あ……」
蘇った記憶は、幸福だけを連れてきたわけではなかった。
「来ないで!」
悲鳴のような叫びが広場に響く。
ロベールの足が止まった。
「セドリック──」
「来ないで!」
涙で濡れたセドリックの瞳がロベールを射抜いた。
「信じてたのに……!」
声が震える。
怒りか、悲しみか、自分でも分からない。
「どうして僕の未来を潰したの? どうして、どの舞台も、どのオーディションも、全部あなたが裏で手を回して奪っていただなんて!」
胸の奥に押し込められていた感情が堰を切った。
「歌が僕の全てだったのに!」
ロベールは目を伏せた。
苦しげに息を吐く。
下ろされた拳が白くなるほど握り締められていた。
「……やはり聞いていたのか」
「答えて!」
叫びに近い、セドリックの、声。
ロベールは沈黙した。
数秒にも満たない時間が、永遠のように長い。
やがて彼は顔を上げた。
その眼差しには、後悔と執着と狂気にも似た愛情が混ざっていた。
そうして、ラベルは続けた。
「愛していたからだ」
セドリックは、世界が止まった、と感じた。
「……え?」
まるで理解できない。
いや、理解したくもない。
「お前を失いたくなかった」
ロベールの声が震える。
「お前が舞台に立てば立つほど、遠くへ行ってしまう気がした」
一歩。
ロベールが近付く。
「だから私は──」
もう一歩。
「お前を私の傍に繋ぎ止めたかった」
その言葉は告白ではなかった。
呪いだった。
「一生、私の元に置いておきたいと思ったんだ!」
ロベールが両腕を広げる。
セドリックの全身を悪寒が駆け抜けた。
「いやっ!」
反射的に後ずさる。
「やめて!」
ロベールが伸ばした腕がセドリックの肩を掴む。
「セドリック!」
「離して!」
二人はもみ合いになった。
かつて愛し合った婚約者同士とは思えないほど激し諍いが続く。
「帰るぞ!」
ロベールが叫んだ。
「もう二度とあんな真似はしない! だから──!」
「嘘だ!」
セドリックはその腕を全力で振り払った。
「信じられない!」
肩で息をしながら、ロベールを睨みつける。
「あなたが愛しているのは僕じゃない!」
その言葉に、ロベールが息を呑んだ。
セドリックの瞳から涙がこぼれ落ちる。
「あなたが愛しているのは、自分の思い通りになる僕だけだ!」
その言葉は、刃よりも鋭くロベールの胸を貫いた。
ロベールは、それでも縋り付くように、セディの腕を執拗にとる。
「セディ!」
刹那。
「──その手を放せ!」
怒号が広場に響き渡った。
騒ぎを聞きつけ、人混みをかき分けて駆けつけたハジメだった。肩で息をしながら、彼は迷うことなく二人の間へ割って入る。
そして、セドリックの腕を掴んでいたロベールの手を強引に振り払った。
「セドリックは俺のパートナーだ!」
ハジメはロベールを真っ直ぐに睨み据える。
「悪いが、あんたはもう彼の隣に立つ資格はない!」
その言葉に、ロベールの顔が苦痛に歪んだ。
「馬鹿な……」
低く絞り出すような声。
「貴様などと一緒にいて、セドリックが幸せになれるはずがない……!」
怒りとも悲しみともつかない感情を滲ませながら、ロベールはハジメを睨みつける。
しかし、その言葉を遮ったのは、セドリックだった。
「僕の幸せを」
静かな声だった。
けれど、その場にいた誰もが耳を奪われるほど、強い声だった。
「どうして、あなたが決められるの?」
ロベールの瞳が揺れる。
「セドリック……」
呼びかける声は、どこか縋るようだった。
次の瞬間。
ロベールはハジメを押しのけ、セドリックへ向き直る。
セドリックは逃げなかった。
まっすぐに、ロベールを見つめ返した。
「ねえ、ロベール」
セドリックは穏やかな声だった。
「愛していたというなら──」
一度、言葉を切って小さな吐息をつくと、セドリックは一息に尋ねたかったことを口にする。
「どうして、意識を取り戻した僕に、一度も触れなかったの?」
ロベールの肩がぴくりと震えた。
「婚約者だったあなたなら、無理やりだってできたはずなのに」
三人の間に、沈黙が訪れた。
広場の喧騒さえ遠く感じるほどの静寂の中、やがてロベールが、ゆっくりと息を吐いた。
そして、真っ直ぐにセドリックを見つめる。
逃げることも誤魔化すことないそんな表情で。
「……愛していたからだ」
たった一言。
だが、その言葉には何年もの想い──強い想いが込められていた。
セドリックの瞳が大きく揺れる。
ハジメも思わず息を呑んだ。
全てを観念したロベールは続けた。
「お前が私を嫌っていたことには気づいていた」
声が震える。
「だから……触れられなかった」
ハジメがぽつりと呟く。
「あんた、本当に不器用だな」
ロベールは自嘲するように口元を歪める。
「……そうかもしれん」
敗北を認めた声だった。
再びセドリックへ向き直ると、ロベールは言った、
「セドリック」
その呼びかけは、昔と変わらない優しさを帯びている。
「ご両親は今もお前を案じている」
ロベールは一瞬だけ視線をハジメへ向けた。
「一度、帰国した方がいい。その男を連れてな」
セドリックは目を潤ませながら頷いた。
「うん」
そして、少しだけ、笑った。
「ロブ。そうするよ」
ロベールは何かを言いいたげに、ハジメの顔を見つめめた。
託したい言葉が、頼みたい願いが、あったのかもしれない。
けれど結局、その唇は閉ざされ──ロベールは何も言わずに背を向けた。
その背中へ、セドリックは叫ぶ。
「ロブ!」
ロベールの足が止まった。
「ありがとう!」
セドリックの声は晴々としたものだった。
その別れの挨拶は、かつて愛してくれた人への最後の贈り物だったのだろう。
ロベールは振り返らずに、手を振って答えた。
いつしか出来上がっていた人集りの向こうへと、背中が消えていく。
彼は二度と、振り返らなかった。
◉
「セディ、震えてるのか?」
「……うん」
セドリックの掠れた声。
「僕、怖かったみたい」
ハジメに促されるまま、セドリックは売店のパラソルの下へ腰を下ろした。
深く息を吐くセドリック。
けれども、吐き出したはずの息は胸の奥の震えを消してはくれなかった。
両手で顔を覆うと、指先まで小さく震えているのがセドリック自身よくわかった。
「あの人に……抗えるなんて、思ってなかった」
セドリックは長い沈黙のあと、ようやく言葉を絞り出した。
ハジメは、答える。
短く。
「そうか」
と。
それ以上ハジメは何も言わなかった。
いや、言えなかった。
記憶を取り戻したセドリックが、何を選ぶのか。
何を望むのか。それを聞くのが怖かったからだ。
もし、元の場所へ戻りたいといったら。
もし、ハジメはもう必要ないと言われたら。
そんな考えがハジメの胸の奥を静かに締めつけていた。
なにも言えずにいるハジメの沈黙に、セドリックが顔を上げる。
赤くなった目が真っ直ぐハジメを見つめた。
「ハジメ」
「ああ」
呼ばれただけで、ハジメの心臓が跳ねあがった。
セドリックは小さく息を吸い込む。
「僕、やっぱり歌いたい」
その言葉は驚くほど真っ直ぐだった。
迷いも、躊躇いもなく──
ようやく取り戻したセドリック自身の願い。
それを聞いた瞬間、ハジメは目を瞑り空を仰いだ。
瞼越しに陽の光を感じる。
──ああ。
これでよかったんだ、本当に。
「そうだな」
声が震えそうになるのを堪えながら、ハジメは笑った。
「それがいい」
セドリックは微笑んで、言葉を続けた。
「じゃあ、一緒にフランスに来てくれる?」
思わず、時間が止まった。
ハジメはセドリックを振り返る。
「……え?」
「来てくれる?」
セドリックは再度不安そうに尋ねると、首を傾げた。
その顔は、ハジメが断るかもしれないと、怯えて伺うようだった。
「い、いいのか? 俺も?」
「当たり前じゃない」
セドリックは少し困ったように笑った。
「僕のパートナーでしょ?」
その一言がハジメの胸の奥へ真っ直ぐに染み込んでいく。
どうやらセドリックの未来には。
そう。
歌うことを選んだ未来にも。
フランスへ向かう未来にも。
──どうやら俺がいるらしい。
セドリックはまだどこか不安そうに、ハジメの顔を覗き込む。
「……いや?」
「いやなわけ……!」
最後まで言い切れなかった。
込み上げてくる感情が喉を塞ぐ。
嬉しさと安堵が、どうしようもない愛おしさをおしくるんで。
ハジメは勢いよく両腕を広げると、そのままセドリックを抱き寄せた。
「ハジメっ?!」
セドリックの驚いた声が耳元で弾ける。
けれどハジメは、もう、離さなかった。
絶対に。
「行く」
震える声で言う。
「どこへだって行く」
腕の中でセドリックが息を呑んだ。
ハジメは満面の笑みだ。
「お前が歌う、その隣に」
抱きしめる力を少しだけ強くする。
「俺はずっといる」
それは泣きそうな声にも聞こえた。
「うん、僕も君がいい」
セドリックは、そっとハジメの背中に腕を回す。
「約束だね?」
「約束する!」
セドリックはくすりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、ハジメは胸がいっぱいになる。
もう十分だった。記憶も、過去も、誰に愛されていたかさえも。
そんなことは、もう、ハジメにとって、どうでもよくなっていた。
今、セドリックは自分を選んでくれたのだ。
──それだけで。
ハジメは──セドリックに、そっと、くちづけた。
二人の上には真っ青な南半球の夏の空が、どこまでも永遠に広がるかのようだった。
【END】
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