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第1話

 地下鉄出口の長いエスカレーター。背後から来た男に割り込まれた。  むっとした音丸だが、相手が振り向いた途端に、 「来たのか。龍平」  思わず目を細めてしまう。  スーツ姿でビジネスバッグを斜め掛けにしているのは他のサラリーマンと違わないが、その美貌は抜きん出ている。漆黒の巻き毛は色白の肌に映え赤い唇は色気すら醸し出している。音丸よりも少しばかり背が低いのもご愛敬である。  中園龍平(なかぞのりゅうへい)とはこの春先に知り合って、すぐに深い仲になった。  柏家音丸(かしわやおとまる)は二つ目の落語家である。世間が休んでいる時こそ忙しい商売である。  だから会社員の龍平とはなかなか時間が合わない。ろくに会えなから、つきあいも五ヶ月になろうというのに身体を重ねた回数は、つばなれしない。 〝つばなれ〟とは十の意味である。  一つ、二つ、三つと数えて十になれば〝つ〟がなくなる。つ離れするのだ。  一方〝つばなれしない〟は十に満たないの意味である。  って、いちいちセックスの回数を数えたくなるつきあいもどうなんだ?  だが実際に前に肌を合わせたのがいつだったか、よく考えないと思い出せない。  今日は国立演芸場での仕事が終われば、羽田空港に行き熊本へ飛ぶ。  熊本には昔馴染みの肥後もっこり(何だそれは?)いや肥後もっこすがいる。セックスに関してはそちらで補填(ほてん)するとして。  こいつとはいっそこのまま自然消滅でもいいと思っていた矢先だったのに。 「直帰にして来た。だって今日しか会えないし」  と嬉しそうに言われれば満更でもない。これから音丸が旅仕事に出ることを知って来てくれたのだ。  何しろ龍平は落語家音丸のファンでもある。音丸公認のファンサイトでスケジュールを調べては会えそうな時にやって来る。  アイドルほどではないけれど落語家だって一応は人気商売である。同性愛者とばれては困るし、仮に別れるにしてもネットで噂になるような修羅場は避けたい。自然消滅がベストなのだ。  大体この天然パーマは毛並みが良すぎる。血統書付き愛玩犬のようなものである。帰国子女で英語は出来るし、一部上場企業のサラリーマンで給料もそこそこもらっている。  それで言えば音丸なんぞ雑種の野良犬に過ぎない。落語家の二つ目とは修行中の身分だから、稼ぎもそうそう良くはない。  そして肝心のセックスも少しばかり物足りない。いや決して相性は悪くはないのだが、根がチンピラの音丸は龍平の上品さに何かと臆してしまう。  遊び慣れない初心さが可愛いのは最初のうちだけである。やがて物足りなくなるのは当然で、毎晩共寝が出来るなら技の稽古もつけられようが、その時間がないならば別れるの一択である。  そう思っていたのにエスカレーターに前後して顔を見合わせ、 「キスしたい」  などと囁かれれば、 「ヤリたい」  と返したくなる。  そんな下品な言葉遣いは引かれるだろうから黙っているが。  奴が天然パーマにつけている整髪料が鼻先に香れば下半身で何やら兆す有様である。  だがいい大人が、まして同性愛者が昼日中屋外であれこれ出来るわけがない。  ただ少しばかりいちゃつける場所はあるかも知れないと真剣に検討してしまう。  そして、国立演芸場に到る細い路地。  わざわざやって来た場所で、どういうわけか乱闘騒ぎになってしまう。  何しろ中園龍平は幼い頃からアメリカのたぶん富裕層が住む地域に育ったらしい。レディーファーストの躾を受けて紳士として育ったわけである。  女子高生がチンピラにからまれていれば助けようと声をかけてしまうのだ。  なのに、あっさり殴られて、仕方なく音丸がチンピラを蹴散らしていた。  対する音丸はヤクザの本場、福岡で生まれ育ったのだ(いや福岡県民が全て喧嘩慣れしているわけではないが)。高校だけは何とか卒業したが、元は単なる不良である。  東京で落語家に入門して日頃の行いは正したつもりだが、恋人が……いやセフレが暴力をふるわれていれば助けるにやぶさかではない。  あの路地でキスどころかいちゃつくことも出来ないままに、東京での仕事を終えると熊本行の機上の人となっていた。  キスしたかっただけなのに、だと?  こっちは他にもいろいろしたかったのだ。  そして熊本で、肥後もっこりは妙に尖った顎の茶髪男の肩を抱いて現れた。  無事に高座も終えて居酒屋に呼び出した時のことである。 「昔、世話になった神谷さん」  と茶髪男に紹介された。肥後もっこりには落語家とは明かしていない。仕事で東京から熊本に出張に来た会社員と称している。芸名ではなく本名の神谷到(かみやいたる)で対応しているのだ。 「こいつ、俺のマブダチなんすよ」  マブダチとは愛人かセフレのどちらかだろう。昔の男、神谷到は用無しというわけである。  三人でひたすら酒を吞んで別れた夜だった。  熊本から名古屋へ、それから一度東京の寄席に出て、その日のうちに青森に飛ぶ。  セックスのセの字もありはしない。旅先の夜は自分で自分を慰めるのがせいぜいである。  そんな時の妄想に現れるのが天然パーマの美青年か、肥後もっこりかなど知ったこっちゃない。  ようよう東京に戻ったその足で龍平のワンルームアパートに行った。  旅土産もどっさり持って行ったが、奴からは残業になると連絡があった。  貰っている合鍵で部屋に入って、帰りを待つうちに熊本土産の芋焼酎を一人ちびちび呑み始め、しまいには眠りこけていた。   翌朝は始発で奥多摩に行かねばならないのに。  そして夜明けに目覚めれば、床で寝ていた音丸は掛布団にくるまっているのだった。龍平が掛けたのだろうが、当人はベッドの上で寝息をたてている。  今ベッドにもぐり込んで手を出しても拒否はされまい。  けれどもし龍平が、つい今しがた眠ったのなら少しでも睡眠時間を確保させるべきだろう。9時6時で働いている会社員なのだ。自分のみだらな欲望でその貴重な睡眠時間を奪っていいとは思えない。  悩んだ結果、起こすことはしなかった。  旅土産の包装紙に、 〈始発で奥多摩に行く。仕事だ〉  と走り書きをするだけだった。  もしや目覚めはしないかと寝顔の額にそっとキスをしてみたが「んんー」と蠅でも払うように手を振り回されただけだった。 「俺は蠅か?」  一人寂しくワンルームアパートを後にした。  神谷到こと柏家音丸は健全なる肉体をもつ二十九才男子である。  はっきり言えばたまっている。  音丸の住んでいるアパートはとてつもなく古い。風呂なしで、玄関トイレ台所共同の木造建築に六畳一間が何部屋も並ぶ。世界遺産になろうかという(ならない)昭和初期の建物である。  どこかの部屋で男女の営みがあれば各部屋が万遍なく揺れ、住人達の顰蹙を買う。男同士でも大差ない。  従って、しかるべき時には龍平のワンルームアパートを使うのが二人の習わしだった。  音丸が龍平のアパートに行くというのは、つまりそういうことなのに。  残業する龍平も龍平だが、帰りを待てずに寝てしまう自分も自分である。  貴重な共寝の夜がまた消えた。  となれば次のチャンスは〝英語de落語会〟である。  マンモス団地の会議室で行われる、小さな落語会だが、実は龍平も世話役の一人なのだ。  打ち上げを終えて、別々に帰ったふりでワンルームの部屋で合流するのがこれまでの倣いだった。  なのに、その気満々で行ってみれば龍平は打ち上げに参加せず、見知らぬ女の子と一緒に帰ってしまった。  あまつさえ、龍平はその夜の音丸のおとないを断った。電話で言ったものだった。 「何で音丸さんは、ああいうタイミングで顔を出すかな。マジやめて欲しい」 「どういうタイミング?」 「僕はね、これでもわりと柏家音丸の評判に気を配ってるんだからね。台無しにしないで欲しい」 「だから、台無しって?」 「いいから。今日は来ないでよ」  つれなく電話を切られた。言ってる意味がまるでわからない。  何なんだそれは?  そもそも〝英語de落語会〟は龍平と菅谷百合絵の発案で始まった会である。  菅谷百合絵は元は単なる音丸ファンだった。ネット上で勝手に初めた音丸ファンサイトに承認を求められて頷いたところが、有能なこと限りなくあっという間に音丸のマネージャーもどきになっていた。  そして百合絵も英語圏からの帰国子女らしく、外国人に日本の文化を伝えたいと英語で解説を入れた落語会を提案して来たのだ。同じく帰国子女の龍平が賛同して始まった企画である。  二人は日本語しか出来ない音丸の前で英語でおしゃべりをしたりする。取り残されたようで忌々しい限りである。  二つ目という修行中の身分であるからして、どんな仕事も良い経験と引き受けたのだが。   よもやオットー呼ばわりされるとは思ってもみなかった。  龍平ときたら、まるでDJのように英語で落語会の開始を告げるのだ。 「Hi! everybody Let,s begin 英語de落語show!」  通訳よろしく百合絵が日本語で解説する。 「英語de落語会、通訳のリリー&リューです。では落語家、柏家音丸の登場です」 「Call him Otto!」  龍平の煽る声で客席は「オットー!」「オットー!」と拳を振り上げる。  その中を着物で登場する落語家の身にもなって欲しい。  ほんの小さな会議室で、会議テーブルに座布団を置いて高座に見立てた会場である。  そこでオットーにリリー&リューだと?   欧米か⁉ と古代ギャグを言いたくなる。  そうして帰り際、会場から出た小道で龍平は女子高生を泣かせていた。  よくよく見ればあの女の子は国立演芸場のそばでチンピラにからまれていた女子高生である。あの頃から龍平はこの女の子とつきあっていたのか?  百合絵は二人を見て、 「ふふ……龍平さんには、ああいうボーイッシュな女の子がお似合いですわね」  などと微笑んでいる。  正に二人はお似合いなのだ。それが心底気に入らない。まるで厳格な両親も認めるであろうティーンエイジャー爽やかカップルである。いや龍平は既に二十四才ではあるが。  事ここに及んで音丸はようやく気がつくのだった。  ひょっとして龍平はバイ・セクシャルではないのか?  音丸自身は女性には全く興味がないのだが、龍平はどうなのだろう?  男も女もどちらもいけるタイプだとしたら?  基本あいつは紳士だから高校生に手出しはすまいが、あの女の子と話す時の楽しそうな様子と来たらどうだろう。  音丸の前であんなに屈託のない表情を見せたことがあったろうか?  いつも怯えているような、気を使うような物言いが多い。  それは自分のチンピラ気質が悪いのだと内心反省をしていたが、実は女の子といる方が楽しいのではないか?  疑い始めるときりがない。  つれなくふられて電話を切った後、にわかにぞっとする。  実は今しもアパートでは龍平とあの女子高生が愛の一夜を過ごそうとしているのではないか?   いやいや、奴は紳士だから未成年者には……しかし、これまでにない強気の物言いは彼女の手前だったからでは?  やはり、きりがないのだ。  一晩中でも疑っている。  

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