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第2話

 そうこうしているうちに音丸は再び旅の仕事に入るのだった。まことに落語家は一所にじっとしていられない商売である。仕事内容は座布団の上で話すだけなのに。  その座布団を用意してくれる場所は全国各地にある。収容人数何千人の大ホールから、個人宅の六畳間まで様々である。  そして仕事は入った順番に受ける。従って旅の順路は滅茶苦茶になる。  前回の旅仕事は土産が名古屋の手羽先、熊本の芋焼酎、青森の南部せんべい、という有様だった。  それに比べれば今回は、岡山、松山、高松、広島と方角が固まっているだけありがたい。  ほんの数年前に二つ目に昇進したばかりの音丸に、これだけ毎日仕事があるのは僥倖ですらある。  二つ目仲間には何か月もスケジュール帳が真っ白でウーバーイーツなどでアルバイトせざるを得ない者もいるのだ。  恋人とセックスが出来ないなどと不貞腐れている場合ではない。それは重々承知なのだが。  岡山での仕事はラポール・ファミリオ・エンタテインメントという興行会社の仕切りだった。初めての主催社だが、 「おい、すげえぞ! さすがでかい会社は違うな」  共演の音羽亭弦蔵(おとわていげんぞう)師匠は楽屋に用意された弁当を見て狂喜した。二段重ねの和風懐石弁当だった。  大企業の創業祭だけあって全てにおいて豪華なのだ。用意された宿泊施設も落語家御用達のビジネスホテルよりはるかにランクが上だった。  もっとも音丸が弁当を食べることはなかった。夕食にするつもりで手をつけないで高座に出て戻って来ればもう無くなっていた。 「すまんな、あんちゃん。一個じゃ足りなくてよ。どうせおまえは高座の前には食わんだろう」  けろっとして言う先輩である。その代わりと仕事の後は、 「おう、音丸。お姉ちゃんのいる所に連れてってやんぞ」  と連れ出された。 「ありがとうございます!」  と頭を下げるも、言うまでもなく音丸はお姉ちゃんには興味がないのだった。  ちなみに落語界で音丸が同性愛者だと知っているのは、直接の師匠、柏家仁平だけである。  後で顕れて迷惑をかけてはいけないと入門時に打ち明けたのだ。それで入門を断わられても仕方がないと覚悟していたが、特に咎められることもなく無事門下に入れた。  仁平師匠は音丸のセクシャリティについては秘密を守ってくれている。  従って落語界では音丸も異性愛者と思われている。女性相手の風俗に誘われても断ってばかりいるうちに、音丸は真面目で堅いと評価されてしまった。  一般社会ではそれは好評価だろうが、芸人の世界では如何なものか?  岡山シンフォニーホールでの落語は午後四時には終わった。  常よりもリッチな老舗ホテルの、けれど本館ではなくアネックスにチェックインする。十二階の部屋に荷物を置いた後、弦蔵師匠のご贔屓筋の案内で街に繰り出した。  まだ日が沈まないうちから、若い女の子がキャビキャビ群れている店で酒を呑み、年の締まった姐さんがいる小料理屋でウドのキンピラや金目鯛の煮付けなんぞを肴に酒を呑み、カラオケバーではかなりに年の締まった婆さん、いや姐さんと〝三年目の浮気〟をデュエットし……。  呑むだけ呑んで最終的に弦蔵師匠は風俗店に行くようだった。これまたご贔屓筋が選びに選んだ高級風俗店だそうである。 「そちらは遠慮致します」  と言う音丸に弦蔵師匠は無理強いしなかった。毎度断っているから、 「音丸はこういうの潔癖だね。でも落語の勉強にもなるんだよ」  と言う程度である。  一人残った音丸に、 「よろしければ、この辺の夜景でもご案内しましょうか」  と声をかけたのは、その店で呑んでいた男性客だった。  店に入った時から、なかなか悪くない男だと目をつけてはいた。時々音丸と目も合っていた。洒落たスーツを肩で見事に着こなしている。つまり肩幅が広く、胸板が厚いのだ(この際関係ないが、音丸は着物体型だからスーツはまるで似合わない)。  弦蔵師匠等と別れて二人タクシーに乗り込む。  隣り合って座席に座ると香水の香りがする。 「失礼ですが、何か香水をつけてらっしゃいますか?」  逆に問われたのは音丸だった。  香水などつけてはいない。 「着物を着ることが多いので。着物に入れた匂い袋の香りが身体に染みついているようです」  今は黒いジャケット黒トレーナー黒デニムなどを着用している。汚れが目立たないから愛用している安価な服だが、それにも香りは移っているらしい。  龍平は音丸のこの香りをとても好んでいる。時には本気で身体に鼻を押し付けてくんくん嗅いで、 「癒されるー」  などと言ったりする。  いや。今が今、奴のことを思い起こす必要はない。  タクシーに乗るなり、 「今夜はどちらにお泊りですか?」  と問われて答えると、男はその老舗ホテルの名を運転手に告げた。  夜景の見える場所とは、実は老舗ホテルの部屋だったらしい。何しろ十二階だし。 「真島健斗(まじまけんと)と申します。神谷さんとお呼びしてよろしいですか?」  男は握手の手を差し出した。  一瞬黙り込んだ音丸に、 「芸名では何かとまずいでしょうから。神谷到さん?」  にっこり微笑む男である。  音丸の正体を知っていて声をかけたらしい。いや呑み屋で弦蔵師匠に「音丸」と呼ばれていたのを聞いて検索でもしたのだろう。  神谷到である音丸は、黙って握手の手を握り返した。  つい、ごくりと生唾を飲み込んでいる。  掌の感触から全身の雰囲気を思い描く楽しさよ。  何がなし弾む心でタクシーを降りてホテルのロビーに入る。  すると、にわかに奥から、 「音丸さん!」  と弾む声をかけられて、足が動かなくなった。  音丸はひどく驚くと身体が固まってしまう癖がある。喧嘩の時には致命傷になりかねないから気をつけているのだが。いや、今回は戦いではない。  とりあえず黙って直立していると、ダークスーツ姿で引き出物の袋を下げた龍平が駆け寄って来る。 「シンフォニーホールで仕事だったんでしょう。今夜はここに泊るの? 僕は大学のみんなと泊まるんだ」  と言いながら嬉しそうにオレンジ色に光る棒を振っている。 「何だそれは?」 「ヲタ芸!」  ちらりと背後に仲間達を振り返りながら言う。なるほど礼服の集団が同じように引き出物の袋や光る棒をぶら下げてたむろしている。  漆黒の天然パーマはいつもならくるくる自由に巻いているのに、今日はジェルで固めて撫でつけてあるらしい。  ダークスーツに真珠色のネクタイは、背後の集団を見ればどうもお揃いの衣装のようである。だが龍平ほどにネクタイの色が肌に映えている美青年はいない。 「結婚式か」  言いながらちらりと背後を伺うと、真島健斗はさりげなくそばを離れて柱の影の彫像などを眺めている。 「うん。大学の先輩の。結婚式場はこのホテルだったけど、二次会や三次会で街に出てたんだ。ねえねえねえ。音丸さんはどこの部屋?」  音丸は殆ど無意識にポケットからカードキーを出している。部屋番号が刻印されたタイプのカードキーである。  龍平は身を寄せて「ふうん」とそれを覗き込むと部屋番号を覚えている。  すかさずカードキーをポケットに戻すが、いや、自分は何をしているのか? と自問する。  まずはあの男を帰さないことには。 「あら、音丸さん。まあ、龍平さんまでいらしてたのね」  今度は背後から声をかけられる。振り袖姿の背の高い女性である。 「あっ、百合絵さん。また落語遠征?」  図らずもオットーとリリー&リューが揃ってしまった。いよいよその場に硬直して彫像化する。  それが他人には落ち着いた風格と見えるらしい。 「いつもありがとうございます。百合絵さん」  とりあえず頭を下げると、百合絵もしとやかに会釈するのだった。 「ラポール・ファミリオ・グループの創業祭に落語が入るのは初めてなんですってね」 「らしいですね。オペラとフラメンコの間に一席やったのは初めてです」 「珍しい体験でしたわね。でも音丸さんの〝天狗裁き〟さすがに楽しかったですわ」 「百合絵さんも今夜はこちらにお泊りですか?」 「ええ。明日は昼席ですもの。落語を聞いてから新幹線に乗っても夜には家に帰れますわ。じゃあ、夕食に参りますので。ごめんあそばせ」  華族のご令嬢のような挨拶をして百合絵は玄関から出て行った。  聞くところによれば、帰国子女の百合絵はなかなかの家柄のご令嬢らしい。  落語は庶民の芸能ではあるが、昔は〝お旦〟と呼ばれる金満家のスポンサーがつく人気者もいた。洋の東西を問わず芸術芸能の発展にはパトロンがつきものなのだ。  今もその名残りか、落語の贔屓客には結構な富豪がいたりする。それに比べれば龍平や百合絵など可愛いものだが、音丸と育ちが違うのは明らかである。 「後で音丸さんの部屋に行くね」  と龍平は大学時代の仲間に呼ばれて集団に戻って行った。  さて、どうしたものか?  音丸はアネックスに向かう渡り廊下へと歩いて行った。柱の影から真島健斗が出て来て、静かに背後を歩いている。 「なかなかお忙しいことですね」  と声をかけられて断ることも出来なくなっている。  いや、今や助平心が燃え盛っているのだ。  何とかなるだろうと希望的観測のまま、やって来たエレベーターに二人で乗り込む。  箱の中に真島健斗の香水の香りが満ちる。ムスク系の煽情的な香りである。  ぴったりと脇に付けた真島の手は、音丸の腰の窪みに軽く添えられている。デニムのベルトのやや下あたり。危うく吐息を漏らしそうになる。そこは音丸の急所である。いわゆる性感帯。  そして十二階でエレベーターを降り、部屋に向かう。少し遅れて影のように真島がついて来る。  アネックスの客室は建物の中央に一階までの吹き抜けがある。その長方形の空間を腰高の唐草模様の手摺りが囲み、廊下もそれに沿って走っている。  四方の壁にドアが付き、つまり廊下に出ればその階にある全ての部屋のドアが見渡せる造りになっている。豪華さを誇示しないハイセンスなデザインである。  後々そこが恐怖の現場となるわけだが、この時の音丸には知る由もない。  久しぶりに見知らぬ男とのワンナイト。だがいつ龍平のおとないがあるかわからない。そんなスリルとサスペンスに満ちた夜である。奇妙に捻れた悦びに胸が高鳴る。  ポケットからカードキーを出してドアを開ける。チェックインした時と何かが違うと気づく余裕などありはしなかった。  部屋に入るなり真島健斗はドアに背を預けて音丸を抱き寄せた。がちゃりと鍵がかかる音がする。明りが点かない暗闇である。逞しい男の厚い胸板を感じてぞくぞくする。音丸は身長こそ高いものの、どちらかと言えば痩身である。  先ほど気づいたのか真島健斗は音丸の最も弱い部分を真っ先に責める。臀部に到る直前の腰の窪み。下着の中に手を入れられて直接そこに触れられると、 「あふん」  間抜けな吐息が漏れてしまう。 「この辺、弱いみたいですね」  と、しつこく同じ部分を愛撫する男である。  応えて音丸も相手の逞しい背中に両手を回してひしと抱き合う。  待たされた分、昂っているのか真島健斗は気忙しくも音丸のジャケットを剥ぎ取り、トレーナーの中に手を差し込むのだった。  腰のみならず胸の急所も攻撃され、たちまち息が苦しくなる。身も世もなく悶えて下半身を擦りつければ、相手の昂りは音丸をはるかに凌ぐ大きさらしい。  久しぶりにネコでもいいと思ったりする。  中学生での初体験はネコだった。タチを経験したのは高校も卒業する頃である。殆ど卒業式のノリだった。  相手が龍平の場合は……まあ、言うまでもない。  ネコやタチはともかく。  何より好きなのは男のネクタイを緩めることである。鼻息荒く真島のネクタイを緩めてワイシャツのボタンを外すと、広げた襟元に噛みつくようなキスをする。  二人はまだドアの内側に寄りかかったままである。複雑に手足を絡めて身体をまさぐり合っている。音丸の片手にはまだカードキーがあり、邪魔なので打ち捨てたくなっている。  そこにドアチャイムが鳴った。  ドアに背を預けていた真島がびくっと飛び上がる。  音丸は真島の乳首を甘噛みしていた口を離した。 「音丸さん、来ちゃった」  龍平の声である。  ええと……。  思わずその場で辺りを見回す。  両腕はまだスーツの中に差し込んで逞しい背筋を撫で回している。 「ねえねえねえ。音丸さんてば。開けてよ」  どういうわけか龍平は甘える時に言葉を三度重ねるくせがある。  そして、どういうわけか音丸はその三度重ねに抗えない。  とりあえずこの口元の涎を何とかしなければ。  カードキーを持った手で口元を覆い、反対の手でドアを開けてみる。  途端に龍平がドアの隙間からするりと身を滑り込ませて来る。 「僕の部屋、三人部屋なんだよ。もう狭くてさ」  と音丸に抱き着いて来るのだ。  あたふたと辺りを見回すが、真島健斗はどこに消えたか姿が見えない。というか扉が閉まれば相変わらずの暗闇なので視界が効かないのだ。  龍平ときたら音丸の黒いトレーナーに顔を埋めるようにして、くんくんと匂いを嗅いでいる。 「癒されるー」と言われると思いきや、きょとんと音丸を見上げている。 「音丸さんの匂いじゃない……」  と身を離される。 「何か臭い。……香水つけてる?」  見上げられて音丸は彫像のように固まっている。そもそも龍平の身体に手を掛けてもいない。 「キャバ、キャバクラの、店の女が……師匠のお供で呑みに……」  と言ってから目をしばたたく。にわかに室内が光りに満ちた。  龍平が音丸の手にあるカードキーを取って、壁のキーケースに差し込んだのだ。照明スイッチと連動しているキーケースである。

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