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第3話

 明るくなった部屋の奥を覗き込もうとする龍平を慌てて手で抑え込む。胸に抱き寄せいつものように天然パーマをわしゃわしゃしようと思いきや、ジェルで固められた髪が手に触れる。  なのでその手を肩から背中に下ろして、やがて尻まで愛撫する。 「やん……そこ感じる」  などと色っぽい声で言われて、ついさっきの続きを始めてしまう。相手はまるで違うのだが。  龍平の唇に口づけをするれば「ふぅん」と甘い吐息が耳朶をくすぐる。  しみじみと龍平の唇を吸い舌を舐り合う。いよいよ全身が熱くなり、先程にも増して荒い息である。  堪え切れずに背後に回した両手で龍平の臀部を鷲掴みにする。前では下半身を強く擦りつけて布地越しに互いの昂りを感じ取る。 「あン!」  という感極まった声と、部屋のチャイムが鳴るのは殆ど同時だった。 「おーい、あんちゃん。帰ってるのか?」  男の声である。ぎょっとして身を離す。 「いないか、音丸?」  音羽亭弦蔵師匠の声である。ドアをどんどん叩いている。  いついかなる時でも先輩に逆らってはならない。落語家は入門するなりそう叩き込まれる。二つ目の音丸もその躾に抗うことは出来なかった。後先考えずにドアを開けていたのだ。 「ここ、俺の部屋だよ。頼むぜ、音丸」  と肩を叩かれる。 「部屋を出る時、おまえにカードキーを渡したじゃないか」 「え……は? 師匠のカードキー?」  と壁のキーホルダーに刺さっているカードを見る。  背中に感じられるぬくもりは龍平がぺったり張り付いて隠れているらしい。それが顕れないように注意しながら、自分のデニムのポケットに手を入れる。  すると何としたことか、もう一枚カードキーが出て来た。 「ほらあ! そっちがおまえの部屋の鍵だろう?」 「……あ!」  仕事を終えてそれぞれにホテルの部屋に入った。そして呑みに出かける際に、音丸は自室を出てカードキーをデニムのポケットに入れたのだ。  師匠は二つ隣の部屋から出て来て、 「あれ、財布は? あれ? ちょっと持ってて音丸」  と音丸にカードキーを預けて、財布を探し始めたのだ。そのカードキーを音丸はジャケットのポケットに入れていた。 「あった。財布! よし。じゃあ行くか!」  という次第で、それっきりカードキーを師匠に返すのを忘れていたのだ。  部屋が明りで照らされた一瞬、奥にちらりとルイ・ヴィトンのスーツケースが見えた気がした。混乱している頭が見せた錯覚かと思ったが、見間違いではなかったのだ。弦蔵師匠の荷物である。 「申し訳ありませんでした。お邪魔しました、師匠」  音丸は背中に龍平を貼り付けたまま蟹の横這いのように部屋を出て行くのだった。  ドアの外には艶やかな着物姿のご婦人が待っている。こちらは花のような香りを漂わせている。 「失礼しました」  そちらにも音丸は丁寧に頭を下げるのだった。背後で棒立ちになっていた龍平の姿が丸見えになったことだろう。  けれど、大人の色気あふれるご婦人は顔色ひとつ変えなかった。しとやかに頭を下げると花の香りと共に師匠の部屋に入って行くのだった。  ゲイに人気のがっちり体型だが、弦蔵師匠は紛うかたなきノンケなのだった。  そうして改めて自分の部屋に戻る間も龍平は、 「ねえねえねえ。もっとキスってば……」  駄々っ子のように音丸の背中に貼り付いては耳元に囁くのだ。尻には何やら硬い物が当たっているし。  いろいろと意味不明な事態が続き(真島健斗はどこに消えたのだ?)音丸の頭脳はもはや思考停止していた。  今この場に中園龍平がいる以上、やるべきことをやればいい。と、それしか考えていなかった。  だが事態は更に悪化するのだった。  正しい自分の部屋に入り濃厚なるキスを再開し、龍平の真珠色のネクタイを解いた時だった。  にわかに廊下が騒がしくなるや、 「きゃーーーっ!」  と絹を裂くような女の悲鳴が響いたのだ。  廊下の吹き抜けに音が長く反響している。  音丸は仕方なくドアを開けて見た。  吹き抜けの中に妙な物がぶら下がっている。  廊下の向こうの吹き抜けの中で唐草模様の手摺りにぶら下がっているのは、長襦袢に足袋裸足の女だった。  両手で手摺りの裾にしがみついている。  手を離せば、この十二階から一階まで遮る物は何もなく、真っ逆さまに落下する空間である。  途端に部屋を飛び出したのは龍平だった。 「えっ? どうした」  と、それを追いかける音丸である。  吹き抜けを囲んだ廊下には、京友禅の振袖や帯が無惨に打ち捨てられている。吹き抜けにぶら下がっている女の物だろう。  ふと顔を上げると、男が一人向こうの壁にへばりついている。柔らかくウェーブした髪に小洒落たスーツを着た伊達男だが、魂が抜けたような顔色でひたすら吹き抜けの中を凝視している。  音丸がその男から目を放したのは、 「放すな! 香乃子ちゃん!」  と龍平が吹き抜けの中に飛び込もうとしたからである。  何を考えてるんだあいつは⁉  慌ててそばに駆け付ければ、鉄棒に取り付く要領で手摺りの横棒に腹を当て、片手を宙に伸ばしている。 「音丸さん! 掴んでて!」  言われるまでもなく音丸は、龍平の身体にしがみ付いた。  ついに龍平は両手を中空に伸ばした。  そのズボンのポケットから何やら光る物が飛び出して吹き抜けの中を落下する。  そしてコンコンコーンと床に到達した。  ヲタ芸のサイリウムだった。  心臓がきゅっと音を立てて握り締められたような気分だった。  ただ歯を食い握縛って龍平の腰に縋り付き、その身体を引き上げようとする。 「No‼ One moment!」  何やら叫ぶのも構わずに更に力を込めたところが、 「まだ上げないで‼ 僕まだ彼女を掴んでいない」  肌襦袢なんかで出歩く女はどうでもいい‼  龍平さえ助かればいいのだ‼  その時、龍平は女の手首を掴んだらしい。 「Yes‼」  という声と共に荷重が倍になる。せっかく引き揚げかけた龍平の身体がまた重力に引かれて吹き上げの中に戻って行く。 「あんた! 手伝ってくれ!」  振り向くことも出来ないが、壁に張り付いた洒落たスーツの伊達男に向かって怒鳴る。  そして必死で横を見れば、声をかけたはずの相手はエスカレーターの横にある非常階段に向かって走って行く。 「おいっ‼ 待て、この野郎……」  ばたばたと階段を駆け下りる音が遠ざかる。罵声などで体力を使うべきではないと判断する。  そして、驚くまいことか。  龍平が手首を掴んでいる女は、あのボーイッシュな女子高生のようだった。  おまけにその娘は、この十二階から十一階の廊下に飛び降りると叫んでいる。  なるほど。身を乗り出した音丸の目にも十一階の廊下の床が見えるのだ。  飛び降りることが出来るかも知れない。  とっさに叫んでいた。 「龍平! 彼女を十一階に飛び降りさせろ!」  女子高生は両手首を龍平に摑まれて、自分から身体を揺すっている。まるで空中ブランコのようである。その勢いで十一階の廊下に飛び降りようと言うのだ。  何だそのクソ度胸は⁉  後になって考えれば音丸は、龍平がさっさとこの娘の手を放すのを望んでいた。  この荷重が消えれば龍平を引き上げられるのだ。女子高生の落下に巻き込まれてこいつが奈落の底に落ちるなんぞまっぴらだ。  だからかなり積極的にカウントをした。 「いいか、龍平! 掛け声をかける。いち、にい、さんのさんで手を放せ!」 「OK‼」  躊躇している暇などなかったのも事実だが。 「彼女‼ いち、にい、さんのさんで龍平が手を放す! そしたら飛べ!」 「はいっ‼」  女子高生はまるで体操選手のように声を上げると一段と揺れを大きくする。  音丸は「いーち!」「にーい!」そして「さんっ‼」と叫ぶと共に龍平の腰を叩いた。  それをきっかけに龍平は両手で掴んでいた少女の手首を外した。  少女の行方を確かめずに音丸は、今度こそ遮二無二龍平の身体を引き上げた。  階下で、どすん、ばたんと重い音が聞こえる。女子高生は十一階に着地したようである。 「香乃子ちゃん‼ Are you alright⁉」  音丸が抱えて廊下に転がった体勢のまま龍平は下に向かって叫んでいる。 「大丈夫です‼」  張り詰めた少女の声が返って来た。  音丸は龍平の腰に回した両手が離れなかった。全身が氷のように冷たくなって硬直している。 「please let go of my hand……」  龍平の言葉がわからない。  絶望の果てにいる気分で怒鳴りつけた。 「おまえは何語で話してるんだ⁉」  吹き抜けに身を乗り出している間は殆ど冷静だった心臓が、いきなりどどどどどっと凄まじい音で鳴り始めた。にわかに息が苦しくなる。指先や足先など身体の末端がぶるぶる震えるのが止まらない。  こいつは死ぬところだったのだ。  あのサイリウムのように奈落の底に落ちるところだったのだ。  もし死んでいたら?  もしも中園龍平が死んでいたら?  そうなったらもう二度とこの天然パーマを拝めない。  この笑顔も見られない。 「ねえねえねえ」という甘え声も聞けない。  よしんばそれらが音丸ではない者に向けられても構わない。  仮にそれらがあの女子高生のものになったとしても構わない。  音丸のものでなくとも、セックスができなくてもいいのだ。  ただ生きてさえいれば。  頭ががんがんする中にそんな考えばかりが繰り返された。 「僕、日本語で話さなきゃダメだよね」  龍平に震える手を握られてその温かさに全身の筋肉が緩む。そっと身体から手を引き離される。もう少し握っていて欲しいと思いながら声ひとつ出ないのだった。  龍平は自力で立ち上がって、階下の女子高生を見に行こうとしている。  音丸はまだ震えている両手で頭を抱え込んで、 「勘弁してくれよ……」  ようやく出たのは泣きそうな声だった。

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