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第4話
ただ生きてさえいればいい。
あの夜は確かにそう思ったはずなのだが……。
翌日、岡山シンフォニーホールの楽屋に訪ねて来た龍平に音丸は罵詈雑言を浴びせていた。
その前に、あの夜の出来事にはまだしょうもない顛末が残っていた。
女子高生はちょうどその時夕食から戻って来た菅谷百合絵に保護されてその部屋で休むことになった。龍平も一緒である。
この騒ぎにカードキーを持たずに部屋を飛び出していたから、音丸は本館一階のフロントにマスターキーを借りに行くことになった。
エレベーターを待っている時、またどこかの部屋で雄叫びが聞こえた。すわとばかりに振り向くと、とある部屋から男が飛び出して来るところだった。
一目散に駆けて来るのは、どこぞに姿を消していた真島健斗だった。
「なっ、何だ、おま……おまえっ……何なんだ⁉」
ドアから顔を出してそれに向けて怒鳴っているのは弦蔵師匠である。自前の浴衣を着ているが、見事にはだけて帯で身体に引っかかっているだけである。
真島健斗は音丸の姿も目に入らないようで、ちょうどやってきたエレベーターに飛び込むなりドアを閉めて下に降りて行った。
音丸は自分が呼んだ箱が一階に向かう表示を眺めて、改めて呼び出しボタンを押してから、
「どうなさったんですか、師匠?」
仕方なく声をかけた。
「窓に……夜景を……カーテンを開けて見たら、中に知らない男が……何なんだあれは?」
必死に訴える師匠の腕を、背後から伸びた細い腕が掴んだ。
「やっ……あっ……えっ?」
外と内とをきょろきょろ見比べて、おそらくかの妙齢のご婦人に腕に引かれて師匠は部屋の中に姿を消した。
ドアが閉まる音と前後して、もう一台のエスカレーターがやって来た。
あのムスク系の香水の色男は、室内の窓とカーテンの隙間に隠れていたのだ。
驚きよりも可笑しさの方が勝り、音丸は一人エスカレーターの中でくすくす笑っていた。しまいにげらげら笑いになっていたのは、最前の恐怖の反動だったに違いない。
そして新たなカードキーで部屋のドアを開けてベッドに入ったが眠れたものではなかった。
菅谷百合絵の部屋から出て来た龍平は、何度もドアを叩いたりチャイムを鳴らしたりしたが、音丸は出なかった。
スマホにも散々連絡が届いていたが構わなかった。
別に寝てはいなかった。
ひたすらに龍平の姿を見るのが怖かったのだ。
失われるはずだった命を見て、多分自分は号泣するだろう。
いや泣くのを見られるのが恥ずかしいわけではない。
思い知りたくなかったのだ。
たぶん……。
あの命が失われれば自分は生きてはいられない。
それを自分の心に認めるのが怖かったのかも知れない。
だってあれは単なるセックスフレンドではないのか?
ともあれ。
烏カアで夜は明ける。
「面白かったー。音丸さんの〝夢の酒〟って僕、大好き」
「…………」
終演後、龍平が楽屋にやって来た時、音丸は姿見に向かって着物を脱いでいた。
「ここの当日券が取れたから、帰りの新幹線の切符を払い戻して見に来ちゃった」
「…………」
もはや音丸は何を言えばいいのかわからない。
昨夜の冒険活劇で龍平は筋肉痛が出ているとのことだった。音丸も高座で身体を動かすたびにあちこちの筋肉が痛んだ。
だが龍平が差し出す鎮痛剤や湿布薬を頑なに受け取らなかった。
公演が始まる前に、あの女子高生がやって来たのだ。その正体にも驚いたが、もっと驚いたのは案内して来たのがあの香水の伊達男だったことである。
真島健斗はこの公演を主催するラポール・ファミリオ・エンタテインメントの社員だったらしい。
そして女子高生、芦田香乃子ときたら、ラポール・ファミリオ・グループ会長の孫娘だった。とんでもない富豪のお嬢様である。
しかも彼女が昨夜のお礼と共に、
「中園さんは音丸さんのことをとても心配してらっしゃいます」
と伝えた内容は、音丸にとってはいささか腹立たしいことだった。ブライドが傷つく思いで素直には喜べなかった。
だからつい龍平につっけんどんに言っていた。
「あの女の子に余計なことを言ったらしいな」
鏡越しに睨んだ瞳の鋭さに龍平は近づくのを憚っているようだった。
「人気商売だから暴力がどうのこうの。国立演芸場のそばでチンピラを退治したのはおまえだとか……」
脱ぎ捨てた着物に手を伸ばす龍平を「触るな!」と叱りつけた。
自分でそれを畳みながら立ち尽くしている龍平を睨め上げた目つきは、かなり剣呑だったと思う。昨夜の激しい感情の揺れを無理やりまとめて詰め込んだような視線だったかも知れない。
「どういうつもりだ?」
「どうって……え? 今になって、あのチンピラどものこと言われても……だって困るでしょう。万が一にも暴力落語家とか話題になったら」
「おまえには関係ない」
切り落とすように言った。
「それと、おまえはあの娘がここの主催者の孫娘だと知っててつきあっていたのか?」
「えっ?」
ぽかんとする龍平を上から下まで睨め回した。そして着物類を風呂敷包にまとめて黒いザックに詰め込みながら、
「知らないようなら教えてやるが。芦田香乃子はラポール・ファミリオ・グループ会長の孫娘だそうだ」
「ラポールって……えっ、この会の? お嬢様? いや、興行会社の会長がおじいさんとは聞いたけど、もっと小さな会社かと……」
「お嬢様だ」
にやりと笑って頷いた。つられて笑った龍平の表情が氷るような冷淡な声を出していた。
「よかったな。夕べ手を放さなくて」
龍平はごくりと固唾を呑み込んでいる。
「万が一にもあの娘が落ちて死んでいたら……生涯かかっても払いきれないような莫大な慰謝料を請求されていたろうよ」
違う。言いたいのはこういう事じゃない。
わかっているのに何故こう捻じくれた話し方になってしまうのか?
誠実なる紳士である龍平の自尊心を傷つけるだろうと知って選んだ言い方だった。さすが言葉を生業にする落語家である……って、最低じゃないか。
案の定、龍平はにわかに眦を吊り上げた。立ち上がった音丸に向かって決然と言ったものである。
「その言い方はどうなの?」
「何が?」
二人は胸が触れ合わんばかりにして睨み合っている。
「僕は彼女が何者でも、お嬢様でなくても助けていたよ。あの場合、人として当然のことじゃないか」
「あの娘はおまえの何なんだ?」
とうとう言っていた。天然パーマの頭頂部を見下ろして、言い放ってしまった。
「何って……友だちだよ」
龍平も負けずに睨み上げる。
「ほお。そうなのか。あの路地で会った時から、変に粉かけていたようだが」
「粉って……不良にからまれてる子を助けるのは大人の義務でしょう」
「何が義務だ。〝英語de落語会〟の後もいちゃいちゃしてたな。何を泣かせていたんだよ」
「な、何だっていいだろう! 音丸さんだってキャバクラの女といちゃいちゃしたくせに。香水なんかつけちゃって」
「師匠のお供だ。仕方ないだろう。おまえこそ、あの時部屋に彼女がいたんだろう」
「あの時? いつ? 部屋ってどこ?」
「アパートだ! 落語会の後で部屋に行こうと思って電話したら断ったじゃないか。泣かせて部屋に引っ張り込んだのか」
嫉妬丸出しである。もうプライドもクソもない。
龍平も自分も死に損なったと思えば、口はもう留まるところを知らない。
「女もいける口とは知らなかったよ」
「何それ! ええ⁉ 女? いける口って……」
龍平は殆ど悲鳴に近い声を上げている。
「ええーっ⁉ 何その下品な言い方! 何なんだよ⁉」
驚きのあまり目に涙まで浮かべている。
「うるさい」
切り捨てるように言いながら龍平を押しのけて戸口に向かう。龍平の瞳がいつにも増して光っていたのは涙が浮かんでいるからだった。
「いちいち泣くな。男のくせに」
「ジェンダーバイアスのかかった言い方するな! 男が泣いて悪いかよ!」
「何だそれは。ジェンダーバイ……? 偉そうに小難しいことを言うな。夕べは日本語忘れてたくせに」
「どうせ僕は日本語ヘタだよ! 帰国子女で悪かったな! 落語家でちょっと古い言葉を知ってるからって威張るな!」
「落語家が嫌なら来るな! 出て行け!」
声の大きさでは完全に音丸が勝っている。高座で鍛えた腹式呼吸である。
そこにノックの音が響き、二人同時に口を噤んだ。
「どうぞ」
音丸がドアの向こうに呼びかけると同時に、
「どうなさいましたの?」
と顔を出したのは百合絵だった。
龍平は手で顔の涙を拭きながら玄関に降りて靴を履いている。
「喧嘩でもなさったんですか?」
このマネージャーもどきは二人が親友同士だと認識しており、時には喧嘩の仲裁にも入ってくれるのだが。
「何でもないです。お先に」
龍平は百合絵にだけ言葉を向けて、部屋を飛び出して行った。
怪訝そうに目顔で問われて音丸も、
「放っときゃいいんです」
冷たく言い放つのだった。
怪訝そうな顔だったが結局、百合絵は落語の感想を語りながら音丸と共に楽屋を出るのだった。
大ホールではまだバレエの公演をやっているようだった。楽屋口から出る音丸や百合絵を待ち受けていたのは、かの真島健斗だった。
「音丸さん。お疲れ様でした。駅までお送り致します。どうぞこちらに」
と駐車場まで案内される。
黒塗りの車には白手袋の運転手が待機していた。音丸は百合絵と共に車の後部座席に座った。
車窓から覗き込んで真島健斗は、
「またこちらにおいでの際にはぜひご連絡ください」
音丸に向かって名刺を差し出すのだった。
そこにはラポール・ファミリオ・エンタテインメント中部地方統括部 課長真島健斗と書かれていた。東京本社でなくてよかったと何故かほっとする。
車はシンフォニーホールを離れて走り出す。岡山の街は午後の日が少しばかり傾いて鈍い色合いである。
ムスク系の香水が染みついた紙を指先で摘んで眺めていると、裏側にペンで〝神谷到様へ〟と走り書きがあった。その下の数字は真島健斗個人の携帯番号らしかった。
ぼんやり眺めながら考える。
「本名は……神谷到だ」
と言い出したのは音丸である。ベッドの中である。最初ではなかった。数回枕を交した後だったと思う。
龍平は得意気に言ったものである。
「知ってるよ。僕ちゃんと調べたもん。音丸さんの本名は神谷到。誕生日は五月二十一日。年齢は二十九才。出身地は福岡県で、子供の頃の呼び名が〝いっちゃん〟」
「〝いっちゃん〟でも〝到〟でもいいけど……」
そう呼んで欲しいと言いかけたところを柔らかいキスで遮られた。
裸の腕を肩に回され、
「駄目だよ」
間近に目を見つめて言う龍平だった。
「それに慣れたら僕、外でもそう言っちゃう。音丸さんは人気商売なんだから、ゲイの彼氏がいるなんてばれたら大変だよ」
こいつの髪は漆黒で強く 見えるが実は柔らかい。天然パーマに指を突っ込んでわしゃわしゃするととても心地いい。この時初めて知ったように思う。
髪に絡めた指を弄びながら、
「僕はずっと音丸さんて呼ぶ」
そう宣言する龍平だった。
あの時、音丸はさして深く考えてはいなかった。
裸で抱き合っている時点で芸名も本名もないと思っていたのだが、今になれば奴がどれほど自分の立場を慮ってくれていたか理解できる。
香水が香る名刺を手の中で握り潰して、ザックの奥深くに突っ込んだ。
桃太郎通りを走る車からやがて駅が見えて来る。車窓の景色がにじんで見えるのは、きっと目にゴミが入ったからだろう。手拭いで顔の汗を拭う(汗である!)。
「吊り橋効果というのは男女だけなのかしらねえ?」
百合絵は車窓の景色を眺めながら独り言のように呟いている。
〝吊り橋効果〟とは、見知らぬ男女でも吊り橋を渡るような危険な状況を共にすると恋が芽生えるという説らしい。百合絵は改めて音丸に向かってそう説明すると、
「男同士だと逆に喧嘩になるのかしら。大人になってからは親友なんてめったに出来ないのに。もったいないと思いませんこと?」
「別に親友じゃありません」
精一杯の虚勢だったりする。困ったことに親友でもセフレでもなかったと気がついてしまったのだ。
百合絵が更に何か言う前に、車は駅前ロータリーに入っていた。車を降りると二人は駅前で別れた。
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