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第5話

 新幹線に乗るにはまだ時間があるという百合絵は、 「この先は松山、高松、広島でしたわね。お気をつけて。ごきげんよう、音丸さん」  とまた風雅な挨拶をして土産物屋に入って行くのだった。  音丸は改札を入って予讃線で松山に向かう。  列車は本州を離れ瀬戸大橋を渡って四国に向かう。車窓の景色はまるで電車が瀬戸内海に浮いて疾走しているかのようである。  折しも秋の日が暮れなずむ頃だった。空の青と夕陽の赤とが入り混じった光が波間にきらきら輝いている。  ついスマートフォンを取り出して、その夕景を撮る音丸である。  龍平にメールを送ろう。写真を添付して。LINEはうまく使えない。  夕陽の写真にコメントを添える。  楽屋でひどいことを言った。すまなかった。許して欲しい。いつも落語家としての自分を気にかけてくれて感謝している……等々。  あれこれ文章を書いては消し、書いては消し、結局残した文章は、 〈ただ生きてさえいればいい〉  これだけだった。  これを送っても意味がわかるまい。  首を傾げているうちに、兄弟子の徳丸からLINEメッセージが届いていることに気がつく。  何やらツイッター(X)に落語家柏家音丸の悪い噂が流れているとの連絡である。事が大きくなる前に一度、仁平(にへい)師匠宅で話し合いをしようとのことだった。  この時はただ首を傾げた音丸だが、これが後々SNSに拡散される〝ラポール・ファミリオ・グループ真垣宗太郎(まがきそうたろう)会長の孫娘を凌辱した落語家〟という噂の始まりだった。  この時LINEには龍平からも着信があった。楽屋での件について謝って来たと思ったが既読はつけなかった。  德丸が言って来た穏やかならぬ噂の影響が奴に及んではならない。会社員の場合、落語家などとは比べ物にならない厳しい社会的制裁があるような気がしたのだ。  暢気(のんき)に夕陽の瀬戸内海の写真など送らないでよかった。  音丸は用心のあまり龍平からの連絡も全て無視することとなった。  それであそこまで泣き暮らすとは思わなかったが。  やがて芦田香乃子(あしだかのこ)の存在が大いなる助けとなる。  その女子高生から電話があった時、音丸は新宿の寄席にいた。  楽屋で弦蔵師匠に動画を見せられていたのだ。  スマートフォンの音を消して見せられたのは、あの岡山のホテルのあの吹き抜けで、あの女子高生が落ちそうなところを龍平が助けた(自分は補助したに過ぎない)あの場面を撮影したものである。全てに〝あの〟がつく驚嘆の動画である。 「し、師匠……誰が、何で、ど、どうしてこれを……!?」 「俺が撮ったの。音丸が大変そうだったから助けに行きたかったんだけど……ごめんねえ」 「そ、それで部屋からこれを撮るって、何で!?」 「あのご婦人がちょっと訳アリでねえ。行かないでって袖引かれるしさぁ」  画面に顔を張り付けんばかりにして見つめていた音丸はその視線をじろりと弦蔵師匠に移した。  さすがの強面師匠も身を引いて、頭を掻いている。 「いや、万が一のことがあれば、警察にこれ見せて事情を話せるし……」 「ま、万が一って……!」 「万が一だよ。助かってよかったなあ」  ぽんぽんと気安く肩を叩く師匠である。揚句の果てに言った言葉が、 「これ、テレビのビックリ動画とかに投稿して賞金もらえないかなあ?」  である。 「あんたなぁ!」  瞬間的に師匠の襟元を締め上げている音丸である。  楽屋にいた芸人たちが一斉に腰を浮かせた。実際に外廊下まで避難した前座もいた。お盆に茶碗を乗せたまま。  そこに音丸のスマホが鳴ったのだ。見覚えのない電話番号だが、個人事業主の落語家としては出ないわけには行かない。仕事が入るかも知れないのだ。  締め上げていた師匠の襟首を打ち捨てて誰にともなく「失礼」と言うと外廊下に出た。 「あっ、音丸さんですか。芦田香乃子です。はいっ。ラポール・ファミリオ・グループ会長の真垣宗太郎の孫です」  だから今が今、何であの女子高生から電話がかかって来るんだ⁉  全くもって意味不明だが、渡りに船であるのは確かである。  今日はカラオケボックスで徳丸に落語の稽古をつけてもらう予定だったので、その前に女子高生に会うことにした。  楽屋に戻ると、弦蔵師匠はちょうど出番で高座に上がっていた。それが下りて来るなり自分のスマホを突き出した。 「あの動画、送ってください」  師匠が自分の席に戻る道をふさぐように立ちはだかっている。  次の出番の落語家が身を縮めて高座に出て行った。まるで楽屋は無法地帯である。 「いいよ。ハナからそのつもりで見せたんだ」  音丸を押しのけて弦蔵師匠は帯を解き長着も脱ぎながら自分のスマホが置いてある座布団に戻った。  シャツにステテコ姿で、スマホを取り上げるなり言ったものだった。 「これでどお?」  と三本指を立てている。 「金……取るつもりか? あんた……!」  顎が外れる程にぽかんと口を開けてしまう。師匠に飛び掛かろうと思いつく前に前座に羽交い絞めにされた。 「いけません。あにさん!」  先ほど茶盆ごと廊下に避難した前座だった。  音丸はその腕を振りほどくと、傍らの茶盆から湯呑みを取ってお茶を一気に飲み干した。  そして財布の中から千円札三枚出して、 「これで」  と弦蔵師匠の前に差し出した。 「え? 千円札なの」  拍子抜けしたような師匠に向かって、 「万札を出す程のものじゃない!」  と言い捨てた。  楽屋における上下関係を完全に無視した物言いである。だが注意する者はいなかった。みんな知らんふりでテレビや新聞を見ているのだった。  弦蔵師匠はそれでも嬉しそうに三千円を受け取った。すかさずスマホを操作して、 「今、送ったからね」  言いながら盆にある茶碗を手に取った。既に音丸が飲み干した茶碗である。 「おい、お茶がないぞ!」  と前座を叱りつけている。  音丸はスマホに届いた動画を確かめながら、 「ちなみに師匠は、この女の子が何者かご存知ですか?」 「東京の女子高生だよ。帰りの新幹線で偶然会ったんだ。親があのイベント会社の関係者なんだってさ。下っ端なんじゃない? タダ券をもらって喜んで見に来たみたいよ」 「なるほど。……確かに受け取りました」  最後まで動画を確認すると、スマホをザックのポケットにしまって楽屋を出た。  あの少女がラポール・ファミリオ・グループ会長の孫娘と知ったら、しわい屋の弦蔵師匠のことだから千円札三枚などでは済まなかったろう。  生涯黙っていようと思う音丸だった。  そしてカラオケボックスで芦田香乃子と再会するのだが、そこには中園龍平もいるのだった。  生憎ここでもまたキスひとつ出来なかった。  何をかいわんや。  ともあれ、女子高生のお陰で音丸はラポール・ファミリオ・グループ総帥の真垣宗太郎と面会が叶い、師匠の動画の助けもあって身の潔白を証明できた。  SNS騒ぎもやがて収束するのだった。    以上。  いや、続きはある。    真垣宗太郎邸を辞して龍平のワンルームアパートに戻った二人は、狭い玄関で抱き合うこととなる。  行きがかり上、共にスーツ姿でネクタイを締めていたから互いにそれを解き合って愛し合う。  いや、正直に言えば音丸だけが強引に迫っていた。  これまでは少しばかりいちゃいちゃした後、お行儀よくシャワーを浴びてきれいな身体でベッドに入って抱き合うのが常だった。  龍平にとって〝セックス〟とはそういうことらしく、音丸はずっと大人しく従っていたのだ。そういうセフレがいてもいいし。  だがセフレではないとすれば。  ずっとこいつとやるのなら少しは好きなようにやらせて欲しい。  音丸は生の龍平が欲しかったのだ。汗も体臭も何もかも、丸ごと自分のものにしたかった。  龍平は怖がったけれど、今度ばかりは遠慮をしなかった。  色情の恐怖など自分があの吹き抜けで感じた絶望にも近い恐怖に比べれば大したことではない。  龍平のものを思い切り責め苛み、邪魔くさいシャツを引き裂き胸も責め、悲鳴に近い嬌声を上げさせたのだ。喘ぎに喘いで音丸の肌に爪を立てんばかりにしてイッたのだ。 「ざまあみろ」と得意に思う暇もなく、殆ど同時に音丸もイッていた。  二人揃って早撃ちガンマンである。  けれどその快感ときたら、これまで見たこともない極楽浄土を訪れたかのようだった。という比喩はいかにも古いが。  全身から魂が抜けたかのように呆けている龍平を裸に剥いてバスルームに運ぶ。  実のところ音丸も魂半分で足取りはふわふわしているのだった。たぶん顔もにたにたと締まりなかったはずである。  龍平を風呂椅子に座らせて、シャワーで丁寧に洗ってやる。  白い肌のあちこちに赤く残っているのは自分の狼藉の跡である。せめて服の外には出ない位置にしたつもりの穏便に言えばキスマーク、有体に言えば噛み跡だったりする。 「染みるか?」  などと泡立てたボディソープで丁寧に洗ってやれば、恥じらいながら首を横に振る。 「僕、こんなの初めて………すごくよかった」  ようやく落ち着いた顔色がまたぽっと朱に染まる。下半身で別の龍平も、もじもじしている。  ワンルームアパートが狭いのは玄関だけではない。バスルームとて同様で洗面所も兼ねている洗い場に男二人が座って身体を洗えば、意図せず抱き合う仕様となる。 「ねえねえねえ……」  きゅっと抱き着く龍平は、先程の痴態ですっかり声がかすれて鼻声である。  それで甘く耳元に囁かれれば、音丸の分身もまた頭をもたげるではないか。  抱き合った二人の物が下でもまた寄り添っている。 「あン」  にわかに喘いだのは音丸だった。  背後の急所、尻が別れる前の窪みが泡に濡れた手でぬるぬると撫で回されている。 「ちょ……待っ、そこ、ンッ……」  待てと言うわりには目の前の身体を強く抱き締めてしまう。  ぞくぞくと背筋が粟立つ快感に、ただ天然パーマの頭を揉みしだく。シャワーの湯気で盛大にくるくる巻いている髪にキスをする。というかすっかり口に含んでいる。  龍平は両手を泡で滑らせて音丸の尻を愛撫している。  やがて奥の核心部に指が伸ばされた。ただ中心部を丸く撫でているだけなのに、音丸は変な声が出るのを堪えるのに必死である。 「今度は僕が音丸さんの中に……」 「や、やめ……」 「やめる? いや?」  問われても何も返せない。  この指使いの上品さは何なんだ。さながら茶道の袱紗さばきのように柔らかに、けれどきっぱり動いている。  ゆるゆると入り口付近で動いていた指は、何本も連れだってしとやかに奥に侵入して来る。  じわじわと広がる快感にやがて花咲くかのように全身の肌が一斉に総毛立った。  だからこの指使いは、動きは何なんだ!? 「やっ、い、いやッ、じゃない……あ、っ」  喘ぎながらの声よりも力強く勃ち上がる分身こそがはっきりとした答えである。  そして音丸はベッドでネコと化す。 「ホントはね、僕ずっと音丸さんとこうしたかったんだ」  はにかみながらも力強い動きを繰り返す龍平である。 「あっ、は……あン、ううッ……」  動きに応えて喘ぎを漏らす音丸は、愉悦の極みで泣きそうになっている。  背後にぴたりと接した龍平の身体は、岡山のあのホテルで師匠の部屋を二人して逃げ出した時のようである。  そう思えば今度は笑いそうになる。淫乱な声と共に感情までがダダ漏れである。  この高潔なる紳士に元チンピラの自分が犯されていると思えば、それだけで感極まってイッてしまいそうになる。 「だめだよ、まだイッちゃ。一緒にイこう」  後方でつながって龍平の手は音丸の胸と下とに回されて、敏感な部分をまた優雅な指さばきで刺激している。  音丸はただ腰を振って喘ぐばかりである。 「い、す、好き……龍、平、あッ……い、してる……」  身体と心が共に満ち足りた瞬間、切ない叫びが出てしまう。  何を言ってるんだ自分は?  耳ざとい奴は聞き逃さない。 「もう一回言って?」 「…………」  抜かれる。  にわかに軽くなった身体を返して見上げれば。  肩で息をしながら龍平はこちらを見下ろしている。 「ちゃんと言って?」  色白の顔が見事に薄紅色に染まっている。濃いまつげに縁取られた大きな瞳はぎらぎらと淫欲に光っている。 「……言ってよ。愛してる?」  言いながら龍平は、音丸の両脚を広げると肩に担いだ。  対面した顔も秘所も全てが相手に晒される、この上もなく恥ずかしい体勢である。  いつもなら音丸が思い切り恥ずかしがる龍平に強いる体位であるのに。  改めて身体の奥深くに突き立てられる。 「あああッ!」  最も感じる位置にピンポイントで刺さる。  背筋が反り返って足の爪先まで快感が突っ走る。 「あッ、いッ……ん、んんっ」  龍平は何度も抜き差ししながら、 「ねえ、ねえねえ……」  と言う声はかすれてぞっとするほど色っぽい。  音丸は奴の肩にある両脚でその身を我が身に引き寄せる。  そして耳元に唇を寄せて言う。 「愛……してる。龍平、は……ただ……」  攻められる度に、言葉が途切れる。 「生きて、いれば……イィッ!」  しまいには違う意味で叫んでしまう。  愛が弾けて天国に辿り着いてしまう。  至上の愉悦の果ての果て……  致し方ない。  音丸はキスしたかっただけではない。  他にもいろいろしたかったのだから。                                                     〈了〉  

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