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第1話 プロローグ

 三十年前 東京。  深夜の歓楽街。黒崎静雅(くろさきしずか)はやかましい呼び込みや酔っ払いに絡まれながらも、ただひたすら、電柱の脇に立って待ちつづけていた。  見つめているのは、幾つものクラブやバーが収まった雑居ビル。  ――このビルに収まっているホストクラブに一ノ瀬はいるはずだ。  待ち伏せ……と言えば人聞きが悪いが、黒崎はともかく一ノ瀬にひとこと言わなければ気が済まなかった。  なぜなら、構内でしばらく姿を見ないと思っていた一ノ瀬が、いつのまにやら大学を中退していたからだ。  それを知ったのも今日、法学演習のゼミでのことで──  講義の始まりに教授が配った今期のゼミのグループ分け。  そこに〝一ノ瀬本(いちのせはじめ)〟の名前がなかったのだ。 「先生、一ノ瀬の名前がありませんが……」  訊ねると、教授は、残念そうに応えた。 「ああ、彼はね、もうこの学校にいないよ」 「え?」 「ゴールデンウィーク明けぐらいだったかな。自主退学したんだ」 「な……っ」  黒崎は絶句した。  一ノ瀬は、黒崎にとって数少ない友人の一人で……いや、それ以上の存在だった。  ──そんな馬鹿な話があるか。大学四年にもなって辞めるなんて。  それより何より。  ──何で俺に一言も……。  思い出しても腹が立つ。  黒崎が腹立ち紛れに四人目の客引きを無言で睨みつけて追い払った、その時だった。  ──いた。  長髪を茶色く染めて、じゃらじゃらとイヤーカフだのチョーカーだの指輪だのをして、どこから見てもホストとしか言いようのない格好の一ノ瀬が、女客を連れて出て来たのは。  酔った女客が絡んでなかなか帰ろうとしないのを、一ノ瀬はかわしかわしタクシーを呼び止め、車内へと押し込める。  ようやく一仕事終えて店へ戻ろうとするところを。 「一ノ瀬ッ!」  黒崎は、頭ごなしに怒鳴りつけて呼び止めた。  一ノ瀬は、黒崎を見つけてへらりと笑う。 「あれ? 黒崎、どうしたの? うちの店、女の子いないけど? 飲んでく?」 「お前、何で大学辞めたんだよ?!」 「あ、うん」 「うん、じゃないだろ! 何故だ?! 弁護士やるって言ってただろう?」  黒崎は思わず、一ノ瀬の両肩に掴みかかる。 「……やむなく犯罪に手を染めさせられた子供達を助けたいって、お前……」 「黒崎」  物凄い剣幕の黒崎に、一ノ瀬はなだめるような声で言った。 「僕さ、二十歳になってお酒飲めるようになってすぐ、ホストのバイトはじめたじゃない? ……まだ一年も経たないけど、この世界に飛び込んで分かったことがあるんだ」  眉根を寄せて、困ったような顔で、一ノ瀬が黒崎の顔を覗う。  黒崎より背が低い一ノ瀬は、背筋をしゃんと伸ばして、深夜、自分を心配してこんな歓楽街までやってきてしまった友人を見上げた。 「ホストやっててさ、法律じゃ手に余る部分がまざまざと見えてきて……法の光が全てじゃないんだ。子供達を救うのに、闇の中から押し上げないとダメな時もある」  困惑する黒崎に、一ノ瀬はきっぱりと言った。 「黒崎、僕はそれをやる」  真っ直ぐな瞳に覗き込まれて。  黒崎は大きく溜息を吐いた。 「……わかった。そう言う事なら、もう引き留めたりはしない」  掴んだままだった一ノ瀬の肩を黒崎はようやく放す。 「ふふ。僕が困ったら黒崎、君を弁護士に指名するから、早く司法試験に受かってね?」 「一ノ瀬……」  ピピピッ…ピピピッ…ピピピッ……  アラームの音。  そこで黒崎は目が覚めた。 「またか……」  黒崎は溜息をついて身体を起こす。  もう何遍見たかしれない。  大学時代の懐かしい夢だ。  ──あれは確か、大学四年の初夏のことだ。  一ノ瀬とはそれきり一度も会っていない。  ──未だに、あの夜の歓楽街の喧噪が耳に残っている。  黒崎は目覚ましを止めると、敷き布団を抜け出した。裸足で踏む畳が冷たい。  桜のつぼみもまだ固い三月頭。  弁護士になってから、三十路を過ぎ、不惑を過ぎ、今年……黒崎は五十三歳になる。  忙しく日々が過ぎ、本当にあっという間の三〇年間だった。  ──指名するも何も、俺の事務所も知らないくせに……。  黒崎はぺたぺたと歩いて、洗面所の鏡を覗き込む。  まず目につくのは、学生時代に事故でついた左頬の傷だ。口元から頬にかけて一直線に裂け、未だケロイドとなってそこに残っている。頭髪には白髪が一本もないが、それは別に染めている訳ではない。後ろ髪は短く刈り上げ、前は片側を下ろしていた。背は、高い方だろう。一八〇を越えている。休日には走りこむので、身体もまだまだ学生時代と変わらぬ体型だ。肌はよく日に焼けていた。  黒崎の年齢が五十代と聞いて、驚く者は少なくはない。  法律事務所に、ぜひベテランの弁護士を、とやってくるクライアントは、オフィスで黒崎を紹介されると、一見三十代前半……下手をすれば二十代後半に見えるその姿にがっかりし──法廷で見直す事になるのだ。 「さて、と……」  黒崎は水道を捻り、顔を洗う。  面倒なので朝はいつも水で洗顔し、電動シェーバーで髭を剃る程度だ。  今日は休日。  黒崎は今日のスケジュールを頭の中で組み立てる。  そろそろ次の年度の手帳を買いに行こうと、黒崎は、この日をあけていた。予定では朝食を取ったら土手を走って、公園でストレッチをして。午後は銀座で昼食にして、そのあと文房具屋に向かうつもりだった。  外はあいにくの曇り。  天気予報では、午後は雨となっていた。 「傘がいるな」  黒崎は顔を拭いたタオルを洗濯機に放り込むと、一週間分の洗濯物を一気に洗濯に掛ける。こうしておけば、帰って来る頃には、乾燥まで終わっていることだろう。  Yシャツはクリーニングに出すことにしているのでアイロンの必要はない。それは、生来貧乏だったゆえに倹約家となった黒崎の、唯一の贅沢のようなものだった。  キッチンに向かうと、冷蔵庫を開ける。  中にはいつだかに買ったヨーグルトがワンパック入っていた。賞味期限は二日前だったが、それは賞味に値するというだけの話だ。  黒崎はかまわずにつかみ出して、それを朝食にする。栄養はランチでしっかり取れば良いいだろう。  食べ終えたヨーグルトのカップを軽く洗ってゴミに出すと、黒崎はランニングウェアに着替えて、もう何十年も住み続けている古い団地を後にした。

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