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第2話 ( 手帳 )
午前中に一通りの運動メニューをこなし、黒崎が手帳を買いにきたのは銀座にある文房具店で、探しているのはいつもと同じノートタイプのB5サイズ。年間と月間、そして週間が記入できるものだ。プライベートは、ほとんど予定がないので、仕事にスケジュールを絞ったこの手帳一冊で黒崎には事足りる。
以前システム手帳も試してはみたのだが、中央のリングが引っかかるので黒崎はどうも苦手だった。
長年使い継いできた大きめのその手帳は某メーカーの老舗商品で、黒崎は大学を出てからこの黒い合皮が表紙の手帳を毎年買い継ぎ、かれこれ三〇年間使い続けていることになる。
自宅の書棚には、この手帳がずらっと並んでいて、最早日記のような存在となっていた。
「……?」
その手帳が。
「おかしいな?」
今年に限って、どこにも見当たらないのだ。
いつもなら売り場の大判手帳のコーナーに置いてあるのだが、そのコーナーすら見当たらない。
──ということは、大判手帳自体の売り場が移動している可能性もあるな。
自力で探すことを諦めた黒崎が、店員を呼びとめようとした時。
ポケットの中でスマートフォンが鳴動。
黒崎にかかってくる電話など、実家の母か、仕事かのどちらかだ。
「まいったな。まだ手帳も見つけてないのに……」
てっきり、仕事の電話だと思って取り出したスマートフォンのロック画面には。
『着信 一ノ瀬本』と、表示されていた。
「一ノ瀬?!」
黒崎はスマートフォンに飛びつく。
電話の向こうは、大学時代と変わらぬ陽気な声だった。
『あは、黒崎。お久しぶり、僕の番号消してなかったんだ。嬉しいなあ』
「お前だって学生時代からずっと同じ番号じゃないか」
就職活動に必要だからと買った携帯。貧乏で苦学生だった黒崎にとってそれはたいした出費だったけれども、ホストをやっている一ノ瀬が先に携帯を手に入れ、授業中に携帯番号をポストイットに書いて寄越したので……黒崎は自分も買う決意を固めたのだった。
『黒崎だってそうじゃない』
クスクスと笑う一ノ瀬の笑い声も、あのころと変わらない。
「ああ、まあ……面倒だったからな、そのまま機種変更を続けてきただけだ……」
『僕もだよ、ところで黒崎』
「なんだ?」
『弁護士合格おめでとう。風の便りに受かったって聞いてる』
「三〇年前だぞ」
『ふふ。それでね黒崎、君を弁護士に指名したいんだけど』
「ああ?」
『僕、今、警察署』
「はあああ?」
思わず出た大声に、黒崎はフロア中の注目を浴びてしまい、慌ててエスカレーターを探す。こんなところで話など出来ない。特に、こんな内容の話は。
『釈放してね、期待してる』
「一ノ瀬、ちょっと待て」
エスカレータを駆け下りて店の外に出た黒崎は、銀座の歩行者天国をすり抜ける。
人通りの少ない路地へ出て、ビル陰に身を寄せた。
「それで? 一ノ瀬、お前、何した?」
『僕がって言うか、どっから話せば良いのかな。あのね、こないだの週末ちょっと寂しくてワンナイトの相手を探しに二丁目に行ったら、十六歳の男の子が自分を売りに来て……』
「は?」
黒崎は情報の濃さについて行けない。
──ちょっと寂しくて?
──ワンナイトの相手を探しに??
──二丁目に行って???
──パパ活中の未成年を拾った????
目眩がしそうだ。
──こんな電話ってあるか。
とても三〇年ぶりにかかってきた大学時代の友人、と言う内容ではない。
そして今、一番に自分が聞くべきなのは。
「一ノ瀬、お前、ゲイだったのか」
と言うことについてだった。
『え? うん、そうだけど?』
一ノ瀬はこともなげに答える。
「だってお前、何人も女性と懇ろになってたじゃないか」
『ん? そりゃあ、それが仕事だったし』
黒崎は天を仰いで思わずボソリと呟いた。
「……ワンチャンあったのか……」
黒崎静雅は、一ノ瀬本への恋に蓋をしたまま、もう三〇年もの月日が流れていた。
『黒崎?』
「いや、何でもない」
『ええ?』
「なんでもないんだ」
黒崎は深呼吸をすると、それで? と、一ノ瀬に話の先を促した。
「一ノ瀬は何にもしてないんだろうな?」
『しないよう、僕子供に興味ないもの』
「じゃあなんだ? お前は買春はやってないんだろう? 子供の方だって、たとえ売春したところで補導はされるだろうが犯罪は成立しないぞ?」
『知ってるよ。売春防止法はまだ覚えてるし、それに僕の今の仕事、風俗店の元締めだもん』
──だから、情報量の多さ……
黒崎は痛み始めたこめかみに、思わず溜息をつく。
『黒崎ぃ……』
「分かったから、話せ」
促すと、一ノ瀬はええっとね、と言って、経緯を話し始めた。
◉
その夜、一ノ瀬はオフだったので、例によって二丁目にある行きつけのバーへと向かうことにした。
ここのところ忙しかったため、夜の方も随分とご無沙汰だ。せっかく空いた今夜を一緒に楽しむ誰か良い相手はいないかと、漁りに出るのがメインの予定だった。
少しだけ白いものが混じりはじめたオールバックを撫でつけ前髪を数本垂らす。自慢の口髭に櫛を入れて濃紺のワイシャツに白のネクタイを締めた。ちょっと派手だったかなと思いながら、右手にリングをはめる。
ピアスのかわりにターコイズのイヤーカフも左につけた。それは一ノ瀬が、〝抱く〟側の人間であることを意味している。
「よし」
一ノ瀬は、着替えを済ませるとマンションを後にした。
お酒を飲むつもりなのでタクシーを捕まえて移動する。二丁目の入口で下ろして貰った一ノ瀬が向かったのは、雑居ビルの地下にあるバー〝青猫〟だ。
木製の派手な彫刻が施された店のドアは、真っ青に塗装されている。
初めてこのバーに来た時、一ノ瀬は萩原朔太郎が好きなの? と、店のママに訊ねた。
昔の男がね、とその時ママに微笑まれたのを今でも覚えている。
ここは出会いの場としても良い店で、若者向け、というよりはバーの落ち着いた雰囲気が気に入り、以来、一ノ瀬は常連客となっていた。
「ママ、もういい?」
一ノ瀬がカランとドアベルを鳴らして店の中へ顔を出すと、ちょうど用事で店を出ようとしていたママと鉢合わせる。
「あらァん、ハジメちゃん。まだ早いわよぉ」
「うん、でもママがもういると思って」
バー〝青猫〟のママは、派手な女装家のゲイで、中肉中背、ストレートの黒髪をショートボブにして、店では弓子と名乗っていた。
「いるけどいないの。今からちょっと銀行に行ってくるから……ああ、ハジメちゃん留守番しててくれるンなら別にいても良いわよ」
ママは手っ取り早くトレイに水割りセットと、まだ温まりきっていない生ぬるいおしぼりを乗せて、一ノ瀬に押しつける。
「もうすぐ若い子達が来るから、すぐ戻るって伝えてね」
それだけ言うと、ママは一ノ瀬を置いて、バタバタと出て行ってしまったのだった。
「ひどいよね。せっかくお洒落して呑みに来たのに。そりゃ、オープン前に押しかけた僕が悪いけどさ」
がらんとしたバーの中で一ノ瀬はひとり寂しくぼやきながら、手慣れた仕草で水割りを作る。大学時代から十年ホストをやっていたのだから手慣れているのも当然だ。マドラーを使う指先も美しい。一ノ瀬はこの指先で、三十路に入る頃にホストクラブのご贔屓さんだったヤクザの情婦に引き抜かれ、風俗店の店長となったのだ。
四〇代をがむしゃらに働いて、関東近県にまで風俗の系列店を拡げて。
気がつけば、一ノ瀬は五十路の声を聞いていた。
一杯目を飲み干してしまった一ノ瀬がぼやく。
「誰か早く来ないかなあ」
と言ってもオープンはまだ先だ。
来るとしたらばバーテンダーの鮫島か、ホステスのディーダかサソリぐらいだろう。
ホステス──と言っても、二人もやはり、女装家のゲイだが。
その時。
カランとドアベルが鳴った。
一ノ瀬がそちらを見れば、おずおずと入ってくる一人の青年……いや、少年か? と、一ノ瀬は読んだ。
「すみません、あの、ここのお客さんですか?」
水色のパーカーにジーンズ姿。
「そうだけど、君は?」
彼は質問には答えずに一ノ瀬の様子を伺いながら、言った。
「あの、よかったら、一晩、オレのこと買いませんか」
「うーん」
一ノ瀬はグラスをカウンターに置く。
「君幾つ?」
「に、二一です」
「じゃあ干支は?」
「え? 干支?? ……」
「ああ、もういい。わかった」
答えられないことを見て取ると、一ノ瀬は手招きして店の中へと呼び寄せた。
「じゃ、身体見せてもらえる?」
「え、良いですけど……」
返事を聞くなり、一ノ瀬は、その自称青年のパーカーの袖をたくし上げ、二の腕をあらわにさせる。
──自傷癖はない。が……。
一ノ瀬の顔が曇った。
「あの、体ってそこでいいんです……?」
「うん。じゃあおいで。僕が一晩付き合ってあげる」
「ホントですか? ホテル代別で、さ、三万でイイです」
「はいはい、じゃあ行くよ」
そこへ。
「ああ、ハジメさん、いらっしゃい。弓子ママは?」
「ちょうど良かった。鮫島さん。ママはすぐ戻るって銀行に行ってる。僕もう行くね。ここツケといて」
一ノ瀬はそう言うと、掴んでいた腕のパーカーの袖を引き下ろし、飛び込み客を連れてそそくさとバーを出て行ってしまう。
「ありがとうございました?」
鮫島の挨拶に応えたのは、カランカランと揺れるドアベルの音だけだった。
一方、一ノ瀬が腕を引いて自称青年──どう見てもまだ少年──を連れ込んだ先は。
「……て、ここ、ファミレスじゃないですか!」
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「うんそうだけど、四人席にしてくれる?」
「はい、承知いたしました」
一ノ瀬は店員に希望を述べると、自称青年の背中を叩いた。
「いいじゃない。好きなもの食べてよ。あ、君の事はなんて呼べば良いの?」
「……からかってるんならここまでです!」
「からかってなんかいないよ。三万だっけ? はい」
一ノ瀬は席へ着くと、先に財布から万札を出してテーブルに並べた。
「あ、ありがとうございま……」
「お金がいるの? 何に使うの?」
「あなたには関係ないでしょう?」
「そうだね」
店内のタブレットをタッチしてメニューを選びながら一ノ瀬は答えた。
「でもこれから関係するんでしょ? 僕たち。だからあきらめて。それに僕の質問に答えてくれたら、そのお金にあと二枚足して上げるよ? 答えはイエスかノーか、パスで答えてくれればいいから」
「……わかった」
不審げな顔のまま、それでも一ノ瀬の好条件を自称青年は飲んで、向かいのソファへと腰を下ろした。
「売りは初めて?」
「ノー」
「未成年でしょ、ホントは十六くらいかな?」
「パス」
「セックスが好きなの?」
「イエス」
自称青年はクスクスと笑う。
そこへ料理が届いた。
サーロインステーキにハンバーグ、ドリアにカレー、オムライス、スープにサラダ……メインメニューだけでもそれだけあるのに、更にサイドメニューもほぼ全種類。おまけにデザートのパフェにサンデーまである。
「さあ、好きなの食べて」
「おじさん……こんなに頼んでどうするんですか」
「だって、君が何を好きか分からなかったから。ああ、頼みすぎだって? 食べ残しを気にするなんて君は案外良い子だね、大丈夫、君の残りは全部、僕が食べるから」
「嘘でしょう?」
「ホント。じゃあ食べながら続けるよ?」
「う、うん……」
空腹だったのだろうか、自称青年は手元に置かれたオムライスの皿を引き寄せる。
「オムライス好きなの?」
「……イエス」
「学校は行ってる?」
「パス」
「お母さんは嫌い?」
「イエス」
「お父さんも嫌い?」
「イエス……ねえ、おじさんなんでそんなことを聞くの?」
一ノ瀬はそれには答えずに質問を続ける。
「売りはやらされてるの?」
自称青年は、そこで険しい眼差しになって一ノ瀬を睨んだ。
「……ノー」
「その腕の内側の絆創膏の下は覚醒剤の注射の痕?」
「ノー」
「じゃあ大麻?」
「ノー!」
だん、と自称青年はテーブルを叩きつける。
周囲の客が迷惑そうにこちらを覗った。
一ノ瀬はすみません、どうも、と、周囲に頭を下げる。
「オレ、帰ります。金はいりませ……」
立ち上がった自称青年の腕を一ノ瀬が捕まえて、なおも訊ねた。
「君は今、助けがいるの?」
自称青年の──どう見ても少年は、狼狽え切った顔を一之瀬に向けると……なかなか言葉が出てこない。
ノーと言うのは簡単だ。
だがそれが言えないと言うことは、喉まで出かかっている〝イエス〟の一言がどうしても出せないのだろう。
「喋れなかったら、頷くのでもいいよ」
一ノ瀬は優しく微笑んだ。
言われて。
「ぅ……」
自称青年は目元に涙をためると、小さく頷いたのだった。
◉
『自首させるつもりはなかったんだけど、本人がするってきかなくて……真面目な子でね。一週間ほどウチで保護してたんだけど、やっぱり自首したいって言うから警察署につきそって来てる。大麻所持は未成年でも処罰の対象だから、なんとか釈放にしてくれない? 表沙汰になってしまったら、もう僕の専門外だよ』
「親御さんは?」
『離婚してる。母親と暮らしてたらしいんだけど、もう連絡がつかなくなったみたい』
「捨てられたのか」
『そう、それで生活に困ってるところを悪いのに声を掛けられて……危うくシャブ漬けにされて使い潰される所だったよ……なんとか更正させたい、ね。頼むよ』
「わかった。今から行く、何処の警察署だ?」
黒崎は通話を切るとリュックから大きな手帳を出してメモを取った。
──そうだ、まだ新しい手帳を買えていない。
三月で終わっている手帳のページは、なんとも心許ないものだ。
──この週末で手帳を買ってしまいたかったんだがな。
週末、と考えた当たりで、一ノ瀬の声がよみがえる。
『こないだの週末ちょっと寂しくてワンナイトの相手を探しに二丁目に行ったら、十六歳の男の子が自分を売りに来て……』
情報過多だった一ノ瀬の発言は同時に。
一ノ瀬がいま独り身で。
誰とでも気軽に寝るタイプのゲイであることも、意味していた。
──そうだ、絶対に手帳を買わなくては。
警察署へ向かう前に、黒崎はまた、文房具屋へと立ち戻る。
今度は最初から店員に声を掛けた。
すると、大判の手帳コーナーは人気が出始め、一番上のフロアの特設会場にあると案内される。
──あった。
黒崎はいそいそと手帳を購入すると、地下鉄へと乗り込んだ。
幸いなことに警察署に向かう車両は空いており、黒崎は買った手帳をさっそく引っ張り出す。
ペラリ。
めくったのは。
前からではなく、後ろからだ。
黒崎が手帳の一番後ろをひろげると、そこはフリーの罫欄になっている。黒崎はいつもやりたいこと、叶えたいことをこの最後の方のページから書き連ねることにしていた。
ペンの先を出すと、黒崎は最後のページの最初の行に、こう書き加える。
一ノ瀬本を恋人にすること。
書いてしまってから黒崎は、ポリポリとペンでこめかみを掻いて──しかし、満足そうに手帳を閉じたのだった。
◉
黒崎は警察署で名刺を出すと、テキパキと仕事をこなした。売春歴有りの大麻所持とあって元自称青年の──少年は、その場での釈放はさすがに難しく、家庭裁判所へ送られるまで拘留される事となった。
そこで黒崎は裁判所送致後の審判不開始での釈放を狙うことにする。
「今日は来てくれてありがとう、黒崎。家まで送るから、乗って?」
警察署を出ると、一ノ瀬はそういって駐車場に黒崎を連れて行く。
向かった先に駐めてあったのは黒の4DW車だ。黒崎は大人しく車に乗り込むと、シートベルトを締め、言った。
「髭、生やしたのか」
唐突な指摘に、一ノ瀬は笑った。
「え? うん。僕ほら、女顔でしょ? 元締めやるのに、どうにも貫禄がつかなくて生やしてみたんだけど、どうかな? 似合う?」
一ノ瀬はエンジンを掛けると、パーキングからバックにギアを入れて、黒崎のヘッドレストへ片腕を回し車を駐車場から出す。
一ノ瀬に腕を回された時、ふわりと煙草が香った。
そういえば一ノ瀬は、昔ショートホープを吸っていたな、などと思い出し、美青年だった面影を残す一ノ瀬の横顔に、黒崎はにべもなく答えた。
「似合わない」
「酷いなあ。そこはお世辞でも『良いね』って言うものなんじゃないの?」
一ノ瀬は苦笑しながらウィンカーを出して車道へ出る。
時刻は午後四時。夕食にはまだ早い微妙な時間だったが、一ノ瀬はたずねた。
「黒崎、お腹すいてる?」
──三〇年。
と、黒崎は頭の中で数えた。
それが、ふたり、音沙汰なかった時間だ。
長い。
けれど一ノ瀬は、まるで昨日学校で分かれたばかりのような口調で黒崎に話す。
「一ノ瀬」
「なに?」
赤信号に、一ノ瀬は薄く車の窓を開けると、電子煙草をくわえた。
車内に煙草の甘い匂いが漂う。
黒崎は運転席の一ノ瀬を見て、言った。
「好きだ。付き合ってくれ」
「は?」
一ノ瀬は吃驚して思わず黒崎の顔を見返す。
信号が変わった。
発車しない一ノ瀬の車に後続車両がクラクションを鳴らし、慌てて車を出す。
「あ? 好き? え? 付き合うって、どういう……」
「そう言う意味でだ」
「え、何言ってるの、黒崎……君、結婚してないの?」
「してない。恋人もいない」
「えー……」
一ノ瀬は小声で、まいったな、と呟く。
それを拾った黒崎がたずねた。
「迷惑か?」
「え。うーん」
一ノ瀬はスパスパと煙草をふかす。
「一ノ瀬……」
「ちょっとまって、今考えてる」
「ずっと好きだった」
「って、学生の頃から?」
「ああ」
「僕、全然気がつかなかった……」
「そりゃそうだろう。隠してたからな」
「なんで」
「そりゃあ、お前はノーマルだと思っていたから」
「そうか、まあ、そうだよね……僕ホストだったし……」
「ワンナイトの相手を探すくらいなら俺でいいだろう?」
「何言ってるの?」
一ノ瀬は再びウィンカーを出すと、ハザードをつけて路肩に車を寄せた。
安全な場所に停車させると一ノ瀬は、思わず黒崎にくってかかる。
「それとこれとは別でしょ?」
「別とは?」
「セックスはセックス! 楽しむものであって、恋愛とは別物!」
「俺はそうじゃない」
はぁ。と、一ノ瀬が大きな溜息をついた。
「なんでこうなっちゃったかな」
「やっぱり迷惑か?」
「迷惑って言うか……混乱してるよ」
二本目のスティックを取り出して、一ノ瀬は電子煙草を差し替える。
「黒崎は、僕と寝たいの? 恋人になりたいの?」
「両方」
「ああ。そう……」
一ノ瀬は電子煙草を吸い付けた。
いつもならばすぐにすーっと海の底に溶け込むような感覚がやってくるのに、今日はなかなかそうならない。
「一ノ瀬は、セフレがいれば良いのか? 恋人は? 作らない主義なのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「今まで恋人、いたのか?」
「うん」
その答えに、予想はしていたけれども、黒崎は少し胸が痛んだ。
「いたけどね、僕、すぐ仕事で飛び出しちゃうし、街で子供とか拾って来ちゃうから、しまいには俺とどっちが大事なんだって、最後にはいつも捨てられちゃって……はは」
「俺は捨てない」
黒崎はシートベルトを外して、一ノ瀬へと向き直る。
「お前が、子供達を救うんだって水商売の世界に入っていって、その後ぱったり連絡が来なくなって……でも、本当のところ、俺はずっと、お前から連絡が来るのを待っていた」
自分を真っ直ぐ見つめる黒崎に一ノ瀬は言った。
「うん、僕も。君に、必要になったら助けて貰おうと思って、ずっと電話番号は消さなかったよ」
ふふ、と一ノ瀬が笑う。
「でも僕、自分でも思いのほか立ち回りが上手くて、裁判沙汰になる前に何とかなって来ちゃったんだよね」
「お前の言う、闇の力か」
「うん。子ども達の将来のために経歴はなるべく汚させたくないから」
「犯罪少年達の更正をはかるのは法だって同じ目的だ」
「わかるけど、やっぱりね。保護観察中だったり、少年院出ってなると、なかなか、世間は辛いよ」
「一ノ瀬」
「そっかぁ、もう三〇年なんだよね」
ハンドルにもたれ掛かると、一ノ瀬は、黒崎を見上げる。
「僕の何処がいいの?」
「お前のそう言う、人の事を放っておけないところ」
「あとは??」
「後は……」
促されて黒崎は、少し照れたようにうつむいて、ひと息に答えた。
「全部だ」
「ふはっ」
一ノ瀬が笑う。
「何それ、メロメロじゃない」
「悪いか」
一ノ瀬はちょいちょいと、黒崎を指先で招いた。
「なんだ?」
何事かと身を寄せた黒崎に一ノ瀬は「いいよ」と囁き──それから、黒崎の頭を片腕で抱え込むと煙草の味がするキスを与える。
ちゅ……
軽く唇を合わせた。
ちゅく……っ
一ノ瀬の舌が割って入ってきたので、黒崎はそれに舌で応える。
「ん……ふ……っ ンん……っ」
しかけたのは自分だったのに、黒崎に無心になってキスを貪られ、一ノ瀬は思わずお呼び腰になった。
そっと身を反らせ、逃れようとしたのだが、黒崎がそれを許さない。
逆に頭を抱え込まれ一ノ瀬は深く口の中を舌で蹂躙された。
「んっ……んんっ」
長いキスにしばらく付き合ってから一ノ瀬は黒崎の頬をぺちぺちと叩くと、ようやく正気を取り戻させることに成功する。
黒崎は一ノ瀬を放すと……口もとに垂れた涎もそのままに、一ノ瀬に謝った。
「すまない。夢中になった……」
「こんなとこで本気出さないでよ、黒崎」
一ノ瀬は、はぁはぁと息をついで、赤い顔で困ったように黒崎をなじった。
「バカだね。その気になったって、こんな所じゃ何にも出来ないよ?」
「一ノ瀬……」
一ノ瀬は、黙ってエンジンを掛けると、ウィンカーを出して再び車を出した。
「いいよ、って、どういう意味だ」
「いいよ、は、いいよ、でしょ。他に意味なんてあるの?」
「俺が言いたいのは……」
「まずはしてみよっか? それから考える」
ポツポツと雨が降り出した。
フロントガラスを雨だれが叩き始めたので、一ノ瀬はワイパーをつける。
左右に揺れるワイパーを見つめながら黒崎は一ノ瀬の提案に、うん、と答えたのだった
◉
「だから! 僕はボトムじゃないんだってば!」
二時間後。執拗に抱きにかかってくる黒崎の顎を下から押し上げて、一ノ瀬は必死に抵抗していた。
場所はリビング。
一ノ瀬の自宅だ。
黒崎は一ノ瀬の家に転がり込み、夕食にお取り寄せの蕎麦を作って貰った。一ノ瀬はテーブルに日本酒を一緒に並べる。黒崎は下戸なので酒は飲まない。一ノ瀬もそれは覚えていたので、黒崎の前に盃は置かなかった。
酒も、煙草も、一ノ瀬は断りもせずに勝手に始める。そう言う男だ。けれどあまりにそれが自然なので、とがめる者は学生時代からひとりもいなかった。が、子どもや赤ん坊がいる席で、一ノ瀬が同じ事をしている姿は見たことがないのもまた事実だ。
「僕、ご飯作るからよかったら食べてってよ」
ついさっきまで。
一ノ瀬は美味そうな蕎麦の乗ったせいろを居間のローテーブルに並べていた。一ノ瀬の家の居間は十二畳ほどで、片側にソファ、ローテーブルを挟んだ反対側は壁で、そこにはテレビが置かれいる。
ふたりは蕎麦と一緒に横に並んで座り、生山葵を擦りおろすと胡麻を挽いて食べ始めた。
「すごいな、こんなものがさらっと出てくるのか、お前の家の冷蔵庫は」
「ん? そう? 料理は嫌いじゃないし、食べたい物が入ってるだけだよ僕んちの冷蔵庫は」
黒崎は、朝に食べたヨーグルトを思いだし、空になってしまった冷蔵庫をどうにかしなければ、と反省する。
そもそも黒崎は食に興味がない。食べて動ければ良い、食事とはガソリン補給みたいな物だと思っていた。まあ、甘い物は別だが。
けれどこの蕎麦はそんな黒崎にも分かるほどに美味いものだった。
「蕎麦も美味い」
「ふふ、ありがとう」
外は雨。
食事が終わり、テレビを見ながら珈琲を飲んでいたふたりはすることもなくなって、一ノ瀬が、聞いた。
「する?」
と。
そうして現在に至る。
体格も腕力も黒崎の方が格段に上だ、一ノ瀬はソファの上で劣勢に追い込まれていた。
「一ノ瀬、お前、俺を抱くつもりだったのか」
「あたりまえでしょ、僕に抱かれる趣味はないよ!」
「やってみなければ分からないだろう」
しばらくふたりは睨み合って、一ノ瀬がとりあえずの仕切り直しを提案する。
「黒崎、キスしても良いかな」
「もちろんだが?」
しばらくベッドに座ってディープキス。
「ん……っんん……っ」
やがて黒崎が申告した。
「……勃った」
「え? これで勃つの? 君、顔だけじゃなくて、下も随分若いね?」
「仕方ないだろ、三〇年間、ずっと……」
「驚異的だよね君のその執念みたいな愛」
「お前がホストになって、退学して……てっきりノーマルだと思っていたから、全てを……全力で諦めてたのに…こんな、今更目の前に差し出されて」
「もう遅かった?」
「我慢できるか! って話だ!!」
ふーふーと息を吐いて自制する黒崎は本当に辛そうだ。
「つらそーだね?」
一ノ瀬が組み敷かれたまま心配して声をかけた途端、思い切り黒崎に睨まれる。
「お前のその〝可哀想だ〟でなんでもかんでも事にあたるのはやめてもらおうか」
「そんなつもりは……」
「無いってわけないだろ?」
なじられ、一ノ瀬が答える。
「そりゃ〝可哀想〟で、人を抱いたことは何度もあるけど……全部覚えてるし、忘れないよ? 蔑ろにするつもりもない」
「お前のそこは嫌いだ」
「だけどね。僕は〝可哀想〟で抱かれた覚えは、一度もないよ?」
一ノ瀬は黒崎の頬に手を添える。
「……一ノ瀬?」
困惑顔の黒崎に呼ばれて、一ノ瀬はにっこりと笑顔を見せた。
「黒崎。ホントに僕がいいの?」
「ああ」
黒崎はその手を掴むと、一ノ瀬のてのひらにくちづける。
懇願のキスだ。
一ノ瀬はくすぐったそうに笑った。
「ふふ。仕方ないね」
「一ノ瀬、正直、俺は初めてだが、精一杯優しく……」
そこで、一ノ瀬が固まった。
「え、待って」
「お、おう?」
「初めて? え、黒崎、ヤッてないの?」
「ずっとAVで抜いてた。実地はない。女は興味ないし、ずっとお前がよかった」
「嘘でしょ? ノーテクパターンだコレ」
「悪いな」
「ねえ、やっぱり僕がするんじゃダメなの?」
「駄目」
黒崎は答えて、それから、つけ加えた。
「って言うか笑わないのか、お前」
一ノ瀬は深い溜息をつく。
「何言ってんの、僕の責任みたいなもんでしょ……それにこう言うのは個人差だし」
「五三歳だぞ」
「なんかもう君の口から出る数字のデカさに驚きの連続だよ」
「呆れたか」
一ノ瀬はふいに真剣な眼差しになって、黒崎に言った。
「僕も全力で君から逃げてたって、言ったら怒る?」
言われたことに。
黒崎はまったく理解が追いつかなかった。一ノ瀬の発言が意外すぎたので。
「あ?」
「君のそのズバ抜けて生真面目で七面倒臭いところが昔から好きだった……っていったら、怒る?」
「一ノ瀬……」
みるみる。
黒崎の胸に熱いものが広がっていった。
「黒崎のこの顔の傷も、黒崎がずっとひとりでしかしてないのも、全部、僕のせい」
一ノ瀬は親指の腹で黒崎の左頬の傷をなぞる。
黒崎は一ノ瀬になぞられるままになりながら答えた。
「俺が好きでしてきたことだ」
「バカだなあ、黒崎」
「その馬鹿に抱かれてろ、この馬鹿」
黒崎はそう言うと、一ノ瀬の頭を抱え込んで、再び深く、くちづけた。
「んっ……」
しばらく甘やかなキスが続けていると。
「ふっ……んっ……」
黒崎は無意識に腰を一ノ瀬へと擦り付け、苦笑される。
ぐいと一ノ瀬に胸を押し返され、黒崎は不満そうに見下ろした。
「待っててベッドで。僕、準備するから」
そう言って寝室に黒崎を案内すると一ノ瀬はバスルームへと消え──十五分もしないうちに、バスローブを羽織っただけの姿で出て来る。
「黒崎、お手柔らかにね」
そう言って、一ノ瀬はベッドに座っていた黒崎の隣に横たわった。
「わかった」
ぎしり、と、黒崎がベッドの上に乗って一ノ瀬に覆い被さると、黒崎の陰の中に収まって一ノ瀬は柄にもなく少し、緊張しているようだ。
黒崎の大きな手がバスローブの胸元を割り一ノ瀬の胸板を辿る。身体を優しく撫でられながら、一ノ瀬は瞼に、頬に、唇にキスを受けて、ふたりはそのまま深くくちづけた。
「んっ……」
一ノ瀬が艶めかしい声を上げたので、黒崎のくちづけはもっとその声を聞きたいと、幾度も首筋にキスを落とす。
「一ノ瀬、ここ、好きか?」
キスしながら一ノ瀬の胸を撫で回していた黒崎の指が、ほつりと立ち上がった乳首を弄った。
「ぁ……黒崎っ……」
一ノ瀬が、気持ちよさそうに身を捩ったので、黒崎はそこへ吸いつくと乳首を口の中で舌先を使って舐め回す。空いた手は、バスローブの裾を割った。一ノ瀬は下に何も着けていないようだ。
黒崎がゆる、と、一ノ瀬の陰茎に指を絡ませる。
熱い。脈打っている。
いつもはここで、一ノ瀬は他の男を抱くのだろう。そう思うとまた、ずきりと黒崎の胸の奥が痛んだ。
「……っん、前、してくれるの?」
黒崎は答えずに無言で陰茎を擦る。
「黒崎……ぁ……っ」
その指先が、ふと、一ノ瀬の尻の奥へと触れた。
なにやらぬるりとした物が垂れ落ちている。
そのぬめりを辿れば、奥には呼吸のたびにひくつく一ノ瀬のアナルがあった。
ぬるぬるの襞の感触に、黒崎の中にどっと興奮が押し寄せる。
「一ノ瀬、これ……」
はぁ、と、一ノ瀬が息をついて言った。
「準備して来るって言ったでしょ?」
黒崎は無遠慮に中指で一ノ瀬のアナルを探る。
「でもこれ……」
「入るようにしてきたから、もう、挿れて良いよ、黒崎」
「しかし」
「ずっと待たされて辛かったでしょ?」
すり、と、一ノ瀬に頬の傷を撫でられる。
黒崎は、ああ、確かに、と口の中で呟いて、一ノ瀬の腰を引き寄せた。すると、一ノ瀬ははくるりと黒崎に背を向ける。
目の前の一ノ瀬の首の後ろが、耳まで赤くなっていた。恥ずかしいのだろう。
「多分バックからのが楽だと思うから」
そう言う一ノ瀬の、ぬらぬらと光るローズ色のアナルに、黒崎は言われるまま昂ぶっていた陰茎の先端を押し当てた。
「んぁっ……」
アナルに感じた熱に、一ノ瀬がびくりと肩を跳ね上げる。黒崎は一ノ瀬の肩のバスローブを咥えて脱がせると、露わになった背筋に何度もキスを落とした。
「一ノ瀬……好きだ」
ぐっと、腰を掴まれ、一ノ瀬は、身体の中へ黒崎が入り込んでくるのを感じる。
「黒崎、そんな、最初から奥まで突かないで……」
「ああ? まだ全部挿入ってないぞ」
「嘘でしょ」
「これでぜん……ぶ」
ずぷん。と、根元まで収められて。
「ぁあっ、待っ……っ」
一ノ瀬がはかない声を上げた。
黒崎はと言えば、一ノ瀬の中に感激し、ゆるゆると腰を擦りつけている。
「はぁ、一ノ瀬の中……挿入ってる…俺…のが…」
「……奥、ぐりぐりしないでっ……黒崎っ」
「一ノ瀬の中……気持ちいい……」
押しとどめる一ノ瀬の声も届かない。黒崎は本能で腰を振り始めた。
「黒崎、聞いて……ぁあっ あぁあっ まだ動いちゃダメ……っ」
「すごい、中、吸い付いて、なんだここ、人間にこんな所があるのか」
「バカっ多分そこっ…はっ……ぁあっ」
文字通り長めの黒崎の陰茎は、一ノ瀬が用意しておいたアナルの中のローションによって、ジュッパジュッパと音を立てて貫く。
おそらく、届いたのは一ノ瀬の最奥、結腸だ。そこを容赦なく責められて、一ノ瀬は必死に枕へと縋り付く。
「ぁっ……あ……っあ……つ」
──蕩けそうに気持ちが良い。
黒崎は一ノ瀬のアナルを犯しながら、不思議な感覚にとらわれた。
「ゃ……ぁ、ダメ、だめ、そこぃやぁ……っ」
何処かで聞いたことのある、一ノ瀬の悩ましい嬌声。
──なんだか、この感覚に覚えが。
「くろさきぃっ、もっ、早くイケっ……おかしくなっちゃ……ぁあっっ!」
──ああ、この声は聞いたことがある。
「ぁ、や……僕だめになっちゃう……っ」
黒崎が執拗に貫いていた一ノ瀬の、その奥が更に開いた。
「いちの……せ……っ」
──そうだあれは夏の夜だった。
黒崎は確信を持って一ノ瀬を後ろから抱きしめると、びゅくびゅくといつかの夜のように、その最奥へと果てる。
「は……ぁ……」
ふたり、ひとつに重なったまま動かない。
しばらくして黒崎が、ぽつりと言った。
「俺、抱いてたな。お前のこと」
「……思い出しちゃったか」
一ノ瀬は、うつ伏せのまま、ベッドサイドを探ると、電子煙草を取り出して吸い始める。
「なんでお前、言わなかったんだよ」
「だって君、酔ってたし」
「う」
「酔ってヤッてる最中の『好き』なんて信用ならないし、そもそも君、一言も僕のこと好きって言わなかったんだよね、あの時」
「そ、そうだったか?」
「そうだよ」
不機嫌そうな声に黒崎は、はっとした。
「まさか、お前それでずっと怒って連絡寄越さなかったのか」
「怒ってないし。言ったでしょ、必要なかっただけだよ。君は弁護士になるって言ってたから、僕なんかと付き合ってちゃダメだって思ったの。それに黒崎こそ全然、連絡寄越さなかったじゃない」
「それは、だから、全力でお前を諦めようと……」
三〇年間。
お互いにすれ違って。
結局、辿り着いたのは。
「一ノ瀬、あらためて申し込む。俺とつきあってくれ」
黒崎は一ノ瀬に後ろから抱きついて、耳元に懇願した。
煙草を吸い付けて、一ノ瀬は唸る。
「うーん」
「な、なんでだ。お前も俺のこと好きだったんだろう? 何がいけない?」
「黒崎、ホントに僕のこと捨てない?」
「あたりまえだ!」
「皆そう言うんだけどさあ」
「お前、いままでどれだけ振られてきたんだよ……」
「そんなでもないよ、片手で余るくらい」
「意外に少ないな」
「あのね、いくらなんでも僕だって恋人は選ぶよ」
「そうか」
「分かれればしばらくは辛いし、この年になって今から恋人ってのもね……」
「一ノ瀬」
「恋人が良いの? 黒崎」
「お前が、他の男を抱くとか、もう想像もしたくない」
「うーん。でもねえ、僕、この年だけど結構旺盛で」
「つきあう。体力は自信がある」
「だって君、抱かせてくれないじゃない」
「一ノ瀬が抱かれて満足するようになるよう努力する」
「えー。宗旨変えは僕の沽券に関わるんだけどなぁ……」
一ノ瀬はなかなか首を縦に振らない。
吸い終えた電子煙草のスティックを引き抜いて、一ノ瀬は言った。
「まあ、また連絡ちょうだい。着替えたら送るよ、君まだあの団地に住んでるの?」
「一ノ瀬……」
「そんな顔しないの」
一ノ瀬は黒崎の鼻先をつついて笑う。
「僕はもう君から逃げないことにしたから」
シャワー浴びてくる、と立ち上がると、黒崎つぎ入ってね、と言い残して一ノ瀬はベッドを抜け出していった。
──これは、手帳の「一ノ瀬を恋人にすること」の項目にDoneのチェックをつけて良いものなのだろうか。
一人取り残された黒崎は、そんなことを考えながら、ベッドへと再び倒れ込んだ。
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