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第1話

込童六弥(こみどうろくや)は、その日まで何と言うことのない、いわゆる順風満帆な生活を送っていた。  家は代々続く裕福な医師の家系で、上には姉が五人。込童は、その末っ子に産まれ皆に愛されて育った。  大学を出て医者になり、同じく医師だった今は亡き祖父の一軒家をもらい受け、そこにひとり暮らしをしている。  いわゆる上流の家の出だ。  院内での印象も悪くない。  ストレートの栗毛を眉のあたりでぱっつりと切り揃えたマッシュヘア。中肉中背。仕事はスマートで正確。そして、本人はいたって生真面目。  と言うのが、患者や看護士たちの主な所見だ。  けれど。  ――退屈だな。  毎日が家と病院の往復で、休日は家事をしてぼんやりと過ごす。  人にあまり興味がない込童は、進んで街中に出るタイプでもない。  学生時代は強制的に人の中にいたので、そんな込童でも人付き合いはあったし、恋人のような者も居た。ようなもの、というのは、あまり愛着もなく言われるままに付き合って、セックスして、面倒になって別れるの繰り返しで──込童の場合、言い寄ってくる相手は男も女も関係なく、自分の何がそんなに良いのだろうと首を捻ったものだった。  卒業して職場に入ってからは面倒ごとを避けるようになり、そう言った人間関係もなくなった。と言っても潔癖な彼はワンナイトの相手を求めることもなく、結果、本当に退屈な毎日を過ごしていた。  ──まったく、退屈だね。  そんなある日。  込童が勤務する病院へ現れたのは、同僚が急病で倒れた代理だと言って商談に来た、医療機器の営業マン──村上という男だった。  昼間は忙しく、とても営業を聞いている時間はない。夜七時頃なら、十五分ほど話を聞ける、と、いつもそんな感じで医局の隅にあるミーティングテーブルを借りて、営業担当者とは会っていた。  今夜も遅い時間だったが、込童がその時間を申し入れると、初対面にもかかわらず村上は愛想良くやって来た。 「今日はお時間を頂き誠にありがとうございました。すみません、本当に。込童先生にはご不便のないよう手配させていただきますので……」  そう言って村上は名刺を差し出す。  うだつのあがらなそうな長めのショートヘアは、無精で伸びたのかそれとも伸ばしているのかすらよく分からない。前髪も長い。 「営業二課の村上竜一と申します」  差し出された名刺には、手書きで新しく電話番号が書き添えられていた。 「これは?」 「いま業務用スマートフォンが故障しておりまして、そちらは私の私用スマートフォンですが、どうぞ遠慮なくお申しつけ下さい」 「そうですか。込童です」  込童が手帳に挟んでいた名刺を取り出して渡すと、村上は微笑んで、というよりも、にへりと笑って、どうも、と言った。  ──あ、八重歯。  込童は、口元に覗いた犬歯に思わず目がいく。 「ひと月ほどで元の担当が戻りますので、それまでご不便をおかけします。ええと、それでは、本日の新製品のご説明に入らせていただきますね」 「よろしくお願いします」  薄幸そうな男だな。と、込童は村上を眺めた。  村上は、カタログをめくりながら、時折、長い前髪を掻き上げる。めくる指も掻き上げる手も、細くて弱々しい。  顔色もあまり良くない。 「ちゃんと眠れてますか」  職業柄、込童は、思わずそう声を掛けてしまった。 「……えっ」  ワンテンポ遅れて村上が驚く。 「え、ええと……いや、そうですね、あまり眠れていないかもしれません」  そう言ってまた、にへりと笑い、村上は話を戻そうとした。  ──ふうん。存外、仕事熱心な……。  と思ったのも最初のうちで、実は単に村上が話し下手で、仕事以外の会話が続かない男であることに、そのうち込童も気がついた。  雑談をあきらめた込童は、説明を受けながら興味を持った製品について質問することにする。 「ではこのカテーテルについてですが……」  その時。  突然、村上の胸ポケットのスマートフォンが鳴動した。  村上はビクッと肩をすくめると、着信が誰からも確認せずに通話に出る。 「はい、村上です」  村上の通話音量は、最大にでもなっているのだろうか。  相手の声が、正面に座っている込童にも筒抜けだった。 『言ったろう! もう別れるって! 二度と人づてに伝言なんか寄越すな!!』 「あっ…あっ……でも……」 『迷惑だ! 金輪際、俺に関わるなよ!!』  怒鳴り声を最後に、通話は切れたようだ。 「す、すみません、し、私用でした」  取り落としそうになりながら、村上はスマートフォンを胸ポケットにしまおうとするが、上手く収まらない。わたわたともたついて、結局、床へと落としてしまった。 「そうみたいですね」  込童は、足下に滑り込んできた村上のスマートフォンを拾い上げ、手渡しながら言った。 「これからは眠れるんじゃないですか」 「はは……そうでしょうか」 「悩んでもしょうがないでしょう。結論が出た問題はもうタスク外に追い出して、次の問題を片付けた方が良くはないですか?」 「そうなんでしょうね、でも私は、ずっとその問題をいじくり回してしまう方で……ソファに転っているルービックキューブを時々、手慰みに弄くるみたいに、つい、終わった事を取り出しては弄くってしまうんです」 「その性格は、胃に穴が空きそうですね」 「ああ、確かに胃が弱くて」 「胃腸科に予約を入れましょうか?」 「い、いえそんな……」  ――雑談、できるじゃないか。 「これ、僕の私用電話です」  込童は手元のメモ用紙を一枚めくると、自分の電話番号を書いて、村上に渡した。 「え?」 「あなたの私用番号を教わったのに、こちらが仕事用──というのはなんだか申し訳ないですから」 「ええ?」  村上は少し驚いて、けれど「律儀な方ですね、先生は」と、笑って、メモ用紙を受け取る。 「それでは、このカテーテルについてですけれど……」  再び、先ほどの続きを始めようとした村上を込童はさえぎった。 「すみませんが、もう時間なんです」 「あ、失礼しました……」 「また来て下さい。今度は時間をちゃんと作ります。そのカテーテルについては是非導入を検討したいので」 「ありがとうございます」 「一ヶ月間、よろしくお願いしますね。日程はまた追って連絡します」 「わかりました。精一杯やらせて頂きます。それでは先生、失礼します」  村上は受け取ったメモ用紙を畳んで込童の名刺と共に名刺入れに仕舞う。  お辞儀をすると、それではまた、と八重歯を見せた笑顔を見せ、帰って行った。  ――そそくさと立ち上がって出て行ったあの男は、今夜、果たして眠れるのだろうか。  込童は考えた。  ――いっそ、いつまでも終わった事項を引き戻して処理する時間もないほど、新しいタスクを増やしてやるというのはどうだろう。  村上という男には、どうも嗜虐心をそそられる。  これを、一目惚れというのはどうかと込童も思ったのだが。  村上の長い髪を掻き上げてチラリと覗いた柔らかそうな耳たぶを思い出して、込童が性的な興奮を覚えたのは確かで。  ――いいな。悪くない。  先ほどの通話から察するに村上は、DV系の男に振り回される手合いの、気の弱い男なのだろう。失恋をいつまでも引きずり、自滅していくタイプだ。  ――可愛いじゃないか。  込童は、実は人が思っているほど生真面目な人間ではない。一見そうみえるだけの、いわゆる、性格が悪い、と人が言うような人種だ。 「楽しみだな」  込堂は渡された村上の名刺を引き寄せると、彼の私用番号をスマートフォンに、登録した。

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