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第1話 プロローグ

 その日。  獅堂孝司(しどうこうじ)は、とても急いでいた。   電車で渋谷の某社での商談を目指していたのだが、車両故障で遅延してしまったのだ。  硬い黒髪の癖毛をなびかせて構内を走る。体格は良い方なので、人混みをすり抜けるのにも一苦労だ。  なんとか渋谷駅の改札を出て、目はタクシーを探す。  ──いた。  幸いなことに空車のタクシーをすぐに見つけ、獅堂は交差点で右手を挙げた。 「「タクシー!」」  声が重なった。  振り返れば金髪の──顔の左半分が前髪で隠れているが、かなりの美青年──が右手を挙げている。  思わずふたり目が合ったところへ、黒いタクシーが一台、滑り込んで来た。 「Nスタジオまで」 「K日本支社へ行ってくれ!」  またもや声が重なる。  すると、今度は青年が丁寧に頭を下げて獅堂に願い出た。表情は乏しいが派手な見かけからは想像も出来ないような礼儀正しさだ。 「大変申し訳ないが、この車を譲って頂けないでしょうか」 「あー、いつもなら全然かまわねえんだけどよ、俺も今日ばっかりは急いでてな……」  獅堂はボリボリと頭を掻いた。 「お客さん達、どっちも方向一緒なんで、いっそ乗り合いにしたらどうです?」  タクシーの運転手に、窓から声をかけられ、ふたりは顔を見合わせると、またもや声が重なる。 「「お願いします」」  車内にふたり、並んで後部シートにおさまると、タクシーは走り始めた。 「いや、助かった。どうしても逃せない案件だったんで、礼を言うよ、お兄さん」 「こちらこそ、危うく仕事に遅れるところでした。日路礼一郎(ひじれいいちろう)と申します。ありがとうございました」  日路が礼儀正しく名乗ったので、獅堂はわたわたと胸ポケットを探る。 「えっ、あ、ご丁寧にえと……獅堂孝司です。……」  名刺入れから一枚取り出すと、そう言って日路に名刺を渡した。 「これはこれはどうも」  日路は恭しく受け取ると、名刺を財布へとしまう。どうにも今時の若者にしては、仕草が古臭い。だが、変わっているのはそれだけではなく、獅堂はしげしげと日路を見つめた。  ──こんな綺麗な人間が、この世にはいるもんなんだなあ。  視線を感じて、日路が振り向いた。 「何か?」 「あ、いや……綺麗だなと……」 「は?」 「いやいやいや、なんでもねぇ……」  と、獅堂が口ごもった時。  タクシーが停車した。 「お客さん、K日本支社ですよ」 「いくらだ」 「1300円だね」  開いたドアから、長い足を片方すでに乗り出して、獅堂は精算をはじめる。 「えっと、運転手さん、細かいの無かったから、小さいの二枚置いてくわ。このお兄さんの分に乗せといて、じゃな、えっと……」 「日路」 「そう、日路さんだった」 「ええ、日路です。この顔と名前、覚えておいて欲しいですね」 「んん? よく分かんねえけど、わかった、ありがとな! 日路さんよ!」 「はい、ありがとうございます、獅堂さん」  騒がしい獅堂は、慌ただしくタクシーを降りていった。  静かになった車内で、日路がふと苦笑する。 「私もまだまだだな」  その声を聞きつけた運転手がバックミラー越しに日路の顔を覗き込んだ。 「私は知ってましたよ、お客さん、アイドルの日路さんでしょ? 確かグループ名はクリティカル……」 「なんと、光栄です」 「いやあ、綺麗な人だとは思っていたけど、本当に綺麗ですねえ」 「とんでもない。ありがとうございます」 「さっきのお客さん、全然気づいてなかったなあ。疎そうな人だったから、気にしない方が良いよ」 「ははは」 「はい、Nスタつきました。400円だから、さっきのお客さんのお預かり金が余るなあ、日路さん、釣り銭、受け取っておいて」 「そうですか、ではお預かりしましょう」  日路はそう言うと運転手から、釣り銭を受け取り、タクシーを降りた。

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