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第1話

 雪が降ってきた。  毎年初雪の頃に思い出す人がいる。  雪のような白い肌と白い髪を持ち、その白く降ってくる物の名前をいただく人。 優しい声で話してくれた人。自分の心の中で絶対に消えない人。  今どこで何をしているのか。  雪を見るとあの濃密だった約2年が蘇り、胸が締め付けられる。  やっと触れられたのに、あの震災が何もかも変えてしまった。  手を出して雪を受け止め、瞬時に溶けた雪を見つめる。  あれから5年。  元号も『昭和』へと変わり、この変貌した時代を、あの薄い桃色にも見える薄灰色の目で見ているかな… 22歳になった自分は、出会った時のあなたに追いつきそうだよ。と、雪が溶けた手を握りしめて、馨は『会いたいな…』と、涙を目に滲ませたまま歩き出した。 〜大正10年冬 11月〜  降りしきる雪が歩道を白く染めてゆく。  雪雲の空を鑑みて、点消夫(てんしょうふ)が急いで瓦斯灯(がすとう)に火を灯して歩く、午後4時半。 ー点消夫になりたかったな…ー  捨介(すてすけ)は痛む腹を抑えながら、一生懸命に瓦斯灯を灯しに歩いている人物を道端に座って見つめていた。  銀座の通りは瓦斯灯のおかげで明るく灯され、道行く人々は女性は洋風のレエスの施された傘、男性は黒くて紙ではない傘をさしてにこやかに歩いている。 「大体、掏摸(もさ)で一晩30円稼げなんて無理なんだよ、クソジジイめ。おもクソ殴りやがって」 (1円が約2,790円の相場で、国家公務員・大卒。総合職の給料が70円(現在で195,300)程。30円(¥83,000)) 「自分は動きもしねえくせに。銀次親分に倣いてえんだろうけど、銀次親分はご本人が超一流だったってんだよな」  『仕立て屋銀次』明治の掏摸(すり)の大親分で、手下250人を従えて大邸宅に住み弁護士団まで抱えていた人物だ。  捨介はその話を、この世界に入ってから仲間にいっぱい聞かされてきた。確かに憧れる人物ではあるだろう。この世界の人間ならば。  しかしさほど自分に掏摸(すり)の才能がないことがわかっている捨介には、瓦斯灯をつけて回るだけで給金が貰える仕事のほうが憧れだ。この時代、点消夫は人気の職業であった。 「洋装が増えて、()るのも大変になってんだよ。女は口の閉まる鞄に財布入れるし、男はインバネスとか言う上っ張り…あれは難儀なんだよな…」  この時代の紳士達が着るコートの一種で、肩に短いマント状の肩掛けのような物がついているものだ。  コートなどを着るのだから、財布はその中の服のポケットということになり、掏摸(すり)を生業とするものにはいささか嫌な時代になっている。  少し匂うようなツンツルテンの着物の下に股引き(ももひき)を履いただけの格好は、この雪の中異常に寒い。 「ううう、病んじまうよ。少し動くか」  立ち上がって獲物を探すが、さっき殴られた腹は今日に限ってひどく痛む。 「痛ててっ…なんだよ…歩くのも億劫だな…」  捨介は腹を庇いながら歩き、一本裏の路地へ向かった。  そこには(ひさし)のある店があり、壁に張り付いていると幾分か暖かい。 「少しそこであっためれば治るかな」  ヨロヨロと歩きながらその店へ向かっていると、表よりは人通りが段違いに少ない路地に、一際白く輝いている…わけではないのだろうけど、そう見える物が立っていた。 「ん?なんだ?」  目を擦ってじっと見ると、どうやら人らしい。が、人には見えないほど真っ白だ。  髪の毛から着物まで白く、ましてその白い髪は腰のあたりまで伸びていて、その異常性をより際立たせていた。 「雪の幽霊(ばけもの)か?」  小さい頃、それでもまだ両親が揃っていた頃、父親が職場で聞いた怖い話として聞かせてくれたのを思い出した。 「なんだよ…おっかねえよ…俺はあったまりてえだけなんだけど、あんな妖怪がいたんじゃ…」  恐ろしくなって後退りをしていると、その白い雪の幽霊が振り向いた。 「ヒイッ」  捨介は間抜けな声を出して尻餅をつき、そのまま半妖から目を離さずに後へと尻を滑らせてゆく。  捨介には、振り向いたその顔の目が白く見え、唇だけが紅く笑ったように見えたのだ。  だが、尻を地面に擦って足を踏ん張った瞬間に腹の痛みが急激に強くなる。 「痛ってえ…いたたっいたたた」  腹を抱えてもんどり打っている捨介に、半妖じみた白い人は静々と近寄ってきて、 「どこか怪我でもしているのか?」  低いが、澄んだ声だった。 「しゃべっ…喋った!あんた人か??しかも男!?」  振り向いた顔が、あまりにも白く、唇も赤かったから女だと無意識に思っていた。  捨介は痛がりながら怖がって、青い顔をますます青くするような感じで、転がりながら遠ざかろうとするが、痛みはますます強くなる。 「痛え…痛えよ…あんた妖術とか使えんなら治してくれよ…」  この寒い中冷や汗までかいて、捨介は白い人に懇願までする始末。 「私は人だよ。人だから妖術は使えないけど…取り敢えず(うち)においで」  よ…妖怪屋敷…にっ! 「いやっ…いい…いいったらいい…妖怪屋敷はごめんだ…」 「雪さん、この様な小僧は捨て置いて帰りましょう。お身体が冷えます」  白い人にばかり気を取られて気づかなかったが、側に6尺はあろう体躯の男が雪さんと呼んだ男に傘を差しかけていた。  袴を履いて、短髪のいかにも武道をやっているといった体つきの巨漢が、濃紺の着物を纏っている。 「どこか悪いみたいだから、一応先生に診てもらいましょう。捨て置くのはそれからでもいいし。大丈夫、妖怪屋敷じゃなくて普通の家だよ。取り敢えずお医者に診てもらおう?こんな所じゃ凍えてしまう」  雪さんと呼ばれた白い男は、そう言って捨介を抱き上げようとしたが背が大して変わらないから、抱っこしても捨介の足が引きずられてしまう。  細いのに意外と力持ちだな…などと地面に引き摺った足を着こうとした時 「では私が」  と、袴の男が軽々と捨介を肩に担ぎあげた。 「いってーーーーーっ」  と、腹を下に肩に担がれた瞬間、捨介が声を上げ 「ああ、そうかすまない」  と大男は理解して、姫抱っこのように腕の中に抱きかかえ直してくれた。  今の痛みで気は失いはしなかったが、些かぐったりした捨介はおとなしく袴の男の腕に納まっている。 「すみません、藤代さん。お願いします」  よく見たら、雪という男は青色の着物を着ていて白い毛織りの羽織物を羽織っていたために白く見えたらしかった。  しかし、髪の色も肌の色も確かに白く、降る雪が雪の前を通る時見落とすほどだ。  捨介は藤代の腕の中でじっと雪を観察した。 「まつ毛まで白い…眉毛も…」  揺られてズンズンと痛む腹に手を当てたが、次第に眠気が増してきた。  寝られるなら平気だよな…なんて思いながら捨介はウトウトとし始め、寒さと藤代の体温の温かさでスウっと眠りに入っていく。

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