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第3話
旦那様が来ると言う日、腹の痛みもだいぶ良くなった馨は、トキの指導で掃除を教わった。
トキさんは、髪を全部上にあげて頭のてっぺんに鏡餅を一個乗せたような髪型をしている、歳のころは40歳くらいの人だった。
太ってはいないが、女性にしてはしっかりとした身体つきをしている。
ハキハキと話し元気な感じで、急にここに住むことになった馨にも、嫌な顔ひとつせずに普通に接してくれた。
畳の部屋ははたきをかけてから箒で掃き、障子の棧なども乾いた雑巾で拭う。そして廊下は濡れた雑巾で拭き、珍しい廊下の窓の「ガラス」を磨くことも教わった。
「この家は、元々大名様の武家屋敷だったんだよ。旦那様が大層気に入られて買われたと聞いてるよ。だいぶ古いけれど、それこそ大名普請でしっかりしてるからぐらついてるところなんかないんだよね」
窓を拭きながら、トキがそう言う話も教えてくれた。
「立派なお屋敷ですよね」
拭きながら中庭を眺め、その向こうに見える部屋にいる雪も気にかける。
今いる廊下は、馨が使わせてもらっている部屋の前の廊下だ。最初に連れてこられた部屋。
中庭を挟んで真正面にある雪の部屋は、旦那様が来るとそこに泊まることになっていると聞いた。
何の気なしにそうなんだ、と思うだけだったが暫くすると旦那様が『雪の部屋に泊まる』と言う意味がわかる出来事を目にすることとなるのだが、今はまだそれには気づかない。
「冬は水が冷たいから掃除は大変だけど、2人でやれば早く終わるから助かるよ、ありがとうね」
トキさんは通いで来てると聞いているが、朝まだ明けないうちから台所で働いてるし、馨が寝る頃も、まだ翌日の準備だと台所にいる。
ーいつか聞いてみよ、トキさんのこともー
そんなことを考えながら、窓を拭き終わった雑巾を桶で濯いだ。
その日夕飯が終わって、片付けを手伝っていると雪がやってきて
「車の音がしたからお帰りみたい。馨くんおいで」
と馨を玄関まで連れ出した。
玄関をあがって一段上がった所に2人で並んで正座をして、旦那様が現れるのを待っている。
玄関のガラス障子が開くと同時に雪がお辞儀をし、それに倣って薫も頭を下げた
「おかえりなさいませ」
「うん、何事もないか?と言うわけでもなさそうだな」
馨に目を配って、主人 はそう言って立ち上がってそばに立った雪に鞄を渡し、雪はそこに足首から先を立てた正座をして座った。
主人の後にいた藤代が、インバネスを脱ぐのを手伝う。
藤代は馨をこの家まで抱きかかえてきたあの大男だ。
「その子は?」
インバネスを脱ぎながら雪へ問う。
「馨と申します。事後承諾になって申し訳ございませんが、先日腹痛で街に寝ていたのを屋敷に連れて参りました。今はだいぶ様子もいいようなのですが…旦那様…あの…」
雪の言葉尻を捉えて、馨はその場で再び深く頭を下げ、
「旦那様!か、馨と申します!どうかここに置いてやってください!」
大きな声だった。
そこにいた3人だけではなく、挨拶に出て台所に戻った直後のトキまで飛び跳ねるほどの声。
「そんな大きな声が出せるなら、腹痛ももう大丈夫だろう。それで、ここに居たいと?」
上がりがまちに腰掛け、革靴の紐をほどく藤代を待ちながら便宜上背を向けてはいるが旦那様と呼ばれた主人 の口元は口角があがっていた。
「掏摸を行っていたようなのですが…何やら不器用らしく、腹痛も元締めに殴られたと聞きました…。話を聞けば元々武家の家の子のようで、教えたら何でもできそうなので…その…」
主人の脇に正座をしながら、あんなに大きな声で自分を鼓舞した馨に応えようと、雪も懸命に主人に説明をする。
「ほう、武家の子か…まあ色々あって掏摸などに身をやつしていたんだろうが…雪が連れて来たのならいいだろう。きちんと面倒を見るんだぞ」
雪の顔がほっとしたように綻んだ。靴も脱ぎ終わり玄関を上がった旦那様は、馨の頭を上げさせて
「藤堂頼政 だ。家のこともトキを手伝ってやってくれ」
「ありがとうございます!」
馨はもう一度頭を下げて礼を言うと、頼政は
「晩飯がまだなんだ。馨、準備してくれるか?」
「もちろんです!」
馨は立ち上がって、走るように台所へ向かっていった。
玄関には藤代の姿は消え、雪が立ち上がって後に控えている。
「いい子そうじゃないか。よかったな、話し相手ができて」
雪を脇に引き寄せ、鞄を受け取ると
「今日は大丈夫か?」
と耳元で囁いた。
その言葉に雪の頬が薄く染まり、小さな声でーはい…ーと答え、その返事を聞いて頼政は食事をする部屋へ向かっていった。
旦那様は、お医者で研究をする人だと聞いてはいたが、藤代よりは小柄だがそこそこの体格をしている。
ーお医者って細いイメージだったけど、色んな人がいるものだなー
などと思いながら味噌汁をよそっていると
「さ、お味噌汁をのせてこれを持って行ってくださいな」
トキがお盆を馨へ渡してきて、それにお味噌汁を乗せて大きなテーブルとみんなが呼んでいる机まで運んで行った。
晩酌の用意をして相手をしていた雪が、立ち上がって盆を受け取り、旦那様へ給仕をする。
馨はそれをみて、
ーあぶなっ、俺お盆ごと置こうとしてた…一個一個並べるんだな…よし覚えたー
食事は雪が世話をしながら進み、馨は台所に控えてトキの仕事を手伝った。その時に、トキさんが馨に
「今日は早く寝るといいよ。ここはもういいから部屋で寝てなさい」
身体のことを思って言ってくれているのだと思い
「大丈夫だよ。最後まで手伝えるから」
そう言って布巾で皿や茶碗の水を拭き取るが
「馨さん、これからのことだけど、旦那様がいらした日は馨さんは早く休むこと。これは雪さんからも言いつかってる事だから」
ーなんで?ーという疑問は湧く。
「いいですね、寝てくださいよ」
トキさんがあまりに強く言うものだから、これはこの家の決め事で、寝ないでいて追い出されるのも堪らないので言うことを聞くことにした。
「じゃあ、お先に失礼します。おやすみなさい」
「お二人にもご挨拶して行ってくださいね」
それもそうか、ともう一度大きなテーブルの部屋の入り口に立ち
「それではおれ…僕は今日は休ませていただきます。おやすみなさい」
そう言ってぺこりと頭を下げると、頼政が笑って
「俺でもいいぞ、あまり気負うな。おやすみ」
「いつもの馨くんでいいからね、おやすみなさい」
2人がそう言ってくれて、また少し気が楽になり、もう一度頭を下げて自室へと辞した。
「旦那様いい人だな。優しそうだし、よかった」
部屋までの道すがら、廊下の冷たさに身をすくませたが、それでも嬉しそうに口元が緩む。
ーしかし、旦那様が来たときは早く寝ろとは…ーそこだけが解せないでいた。
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