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第8話

 車の中で馨は、今日も頼政(旦那様)が家に来ると言うことは…とまた昨夜のことを思い浮かべ、少々緊張してしていた。  そう言えば旦那様は、来ない日はいつもどこにいるのか。  あそこが家であるなら毎日帰ってきても良さそうなのだが、来ないと言うことは年齢的に、もしかしたら普通に家庭を持っているのか?などと思いを巡らせるが、子供の頭では家庭があるとしてなぜそんなことをするのか、どうして雪を…とかまで頭が回らない。  ただただ、昨夜の声が生々しく頭に残り、そう言ったことに目覚める年齢だと言うこともあって、それのみが興味の対象になってしまう。  実際のところ頼政は、研究と大学の講義が非常に忙しく、普段は研究室で寝泊まりしなければならないほどに忙殺されているのだ。  雪のいる家に来るのは大体週に3日程。日時を決めて帰るように努力をしてやって来ていた。    家に戻り、まだ少々夕食の時間にも早いと言うことから、先に話をしてしまおうと言うことになり、頼政、笹倉、雪、馨の4人はリビングダイニングに置かれた応接セットへ座り込んだ。  頼政も言っていたが笹倉を交えての話し合いは、馨のことだった。  身内がいるのならそこに話をしないといけないし、誘拐ではないけれど黙って子供を家に置くと言うのも気になるから、何らかの手続きは必要なのかと相談をしたのだ。  雪の時は両親が任せてくれたので、面倒臭い手続きはなかったから。 「正直昨日の今日では、調査も完全ではないが『芳崎』姓で調べたところ、まあ確かにお武家様にその名前はあったよ。『芳崎誠之助』ひいお爺さんはそんな名前だったかい?」  雪の隣に座って、藤代が買ってきた焼き菓子を摘んでいる馨に笹倉は問いかけた。 「ひいじいさんの名前まではわかりませんけど…じいちゃんは、周一郎だったと思います」  佐々倉は手元の薄い冊子へ目を落とし、 「なるほど、誠之助氏の嫡男は周一郎だ。そしてその嫡男がきみのお父さんの一朗氏だね」  馨は頷いて、皿に焼き菓子を置いた。  そんなことまで調べられてすごいな、と笹倉を見つめる。 「でも君の名前がないんだよ…もしかして役所に届けられてないかもしれないなぁ…そこは今度調べておくね。すまないね不安にさせちゃって。でも、お祖父様とお父様の名前を覚えているんだからきっと大丈夫だよ。ちなみにおばあさまは?」 「キヨ。母はさゆりです」  笹倉は紙を見ながらうなづいて、 「うん合ってる。じゃあ後は役所ではっきりしてからこの家にいる手続きだね」  この時代、寅親分のように掻っ攫(かっさら)って面倒見て泥棒させる、なんて言うのも黙ってやればまかり通ってしまうのだろうが、頼政の性格上きちんとしたかったのだろう。しかも頼政にはもっと深い考えもあったのだ。  しかし、こんな1日2日(いちにちふつか)曾祖父(ひいじいさん)さんの名前まで調べ、自分の家族の名前を全て把握している笹倉に、馨は少々興味を持った。  どうやったらここまでできるのか…笹倉の仕事に興味が湧き、弁護士が何をする人なのかなのも分かってはいないが、いつか詳しく話を聞いてみたいと思い始めていた。 「それじゃあ、そこがわからないと話しが進まないなら笹倉、一杯やろう」  大テーブルの部屋の、壁際に置いてあった背の高いキャビネットからグリーンの綺麗な瓶を出して、頼政は嬉しそうに笑う。 「おおいいね、それも舶来品かい?ここに来るとなかなかにいい酒が飲めるから嬉しいよ」  雪は立ちあがって台所へ向かうと、水を入れる透明なガラスの瓶と背の低いグラスを用意して、雪についてきた馨に、 「持って行ってくれる?」  と手渡した。  馨は受け取って部屋へ戻るとグラスを各々の前に置き、水の入った瓶だけお盆に乗せたまま2人の間に置いた。  そのグラスに、琥珀色の液体が注がれるのを眺めながら、笹倉が 「今日はスペシャルな酒の肴はないのかな…」  下がって行こうとする馨の背中を笑いながら見つめて、意地悪そうな声で言ってくる。  頼政もその背中をチラッと見据え 「昨日私がいただいてしまってね、今日手に入れるのは無理なんだ、すまない」  そう言う頼政の顔は、余計なこと言うなと笹倉を睨みつけていた。  馨は最初の笹倉の言葉の時点で、すでに台所に戻っていて頼政の言葉はきいていなかっただろう。 「何だ、先に楽しんでしまったのか。残念」  馨の姿が台所に消えたのを確認した頼政は 「笹倉お前な」  嫌そうな顔でグラスを一口口にする。笹倉は少し声を立てて笑った。 「で、雪さんの症状はどうなんだ?」  笹倉もグラスを傾ける。 「だいぶ良い方へ向かっているとは思うのだが…まだまだだなとも思う」 「結構根深いものなんだな」 「雪の心の中の事でもあるからな…白皮症の方は、症例が少な過ぎて中々難しい。あの病は短命だという記述もあったから、少々心配はしていたが雪ももう23だ。あの年齢まで元気にいるのだから、皮膚の癌さえ気をつけたらそこまで心配はしていないさ。毎日の血圧と検温はかかしてはいないしな」  笹倉は頼政の大学の同期で、学部こそ違えどお互いの事を包み隠さず言える仲だった。  雪は、特に母親に嫌われていた。  父親は、自分の子としてきちんと教育も施し衣食住を供していたが、母親は雪に対し言葉の暴力や物理的な暴力を与え、雪の精神を徐々に蝕んでいった。  しかし叩いた後にふと我に返り、抱き抱え謝る、と言うのを繰り返され、雪は殴られれば愛されると言う事を身体と頭で覚えこんでしまっているのだ。ある種の『トラウマ』だ。  雪を引き取った最初の晩に、心許ないだろうからと布団を並べて眠ろうとした時に、13歳の雪は『()たないのか』と聞いてきた。  優しくされて申し訳なくなったのか、寝る間際にそう言われ白皮症のことで引き取ってはきたが、精神的にも病片を感じその時は何とか宥めて寝かせたことは今でも忘れない。 「最も君が、嗜虐趣味と男色趣味があったことも、雪さん()の救いではあったね」  酒の肴を持って再び馨がやってきたので、最後の方は少し小声になった。 「ありがとう馨くん。ところで君は何歳なの?」  笹倉は興味津々で馨から皿を受け取り、問う。 「今は12歳です。3月に13歳になります」 「まだ幼気(いたいけ)な年齢なんだねえ。身体が大きいからもう少し上かと思っていたよ。12歳。覚えておくよ、ありがとう」  笹倉の笑みにほんの少し頭を下げて再び台所へ戻った馨を見送って 「それで君は、馨くんに何をさせようとしてる?」  持ってきてくれた干し肉を一片摘み、その皿を頼政に差し出して首を傾げる。  頼政は何やら思案顔で皿を受け取り、そして 「まあ…まだどうしたらいいのかは、まとまってはいないんだ」  と答え、 「干し肉はウヰスキーには合わないな…」  などといい、後ろの棚から板状のチョコレイトを取り出し、テーブルに置いた。

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