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第18話
夏休みも終わり、残暑の残る中学校が始まった。
その日は、九州地方へと忍び寄る台風のせいで、東京も少々風が強く曇天に見舞われていた。
新聞でしか情報がわからないために、いつ東京に来るなど予測も立たず、市民は怯えながらできるだけのことをするしかなく、先読み先読みで動くしかない。(ラジオ放送は大正14年から)
馨は学校の窓から薄曇りの外を見て、台風がこちら方面へ来る可能性もあるならば、今夜辺りから少しずつ家の補強をしなければだなとぼんやりと考えていた。
雪とトキも、台風で停電などになったら台所仕事も大変になるだろうと午前中早くから2人でおにぎりを握ったりおかずを作って、今夜から明日以降に備えようとバタバタしている。
「まだまだ東京にはこないだろうけど、風が吹いてきた。九州も何事もなく済めばいいね」
雪も窓の外を眺めてそんなことを呟いていた。
皆が皆台風に備えて動き回り、ようやく昼を迎えようと女性たちは再び台所に、男性たちはもう少し色々やっておこうと昼休憩前のほんの一瞬をついた時間だった。
ちょうど12時に昼食になるわけでもない馨のいる学校は、その時間まだ授業を行なっていて教師が黒板に書き連ねた文字を生徒は懸命に写している。
午前11時58分
生徒たちは自分たちがノートを置いた机がカタカタと揺れ始めたのに気づいた。
「え?」
「地震?」
などと言う声がザワザワと広がる間も与えずに、教室は巨人に揺らされるような衝撃で揺れ始めた。
悲鳴が上がり、教師は机の下に!と叫び、自分も教壇の下へと入り込むが、揺れはそんなことを許さない勢いで揺れ続け、机ごと教室の端から端振り回されるような中、全員が机にしがみつき足をふんばって永遠に続くんじゃないかと思える揺れに耐えた。
体感では10分も揺れていたように感じたが、数十秒であっただろうか。
まだ揺れはあったが、だいぶ大きな波を超えたと思われた頃に、教師は外へ出るよう生徒に指示し、走らないようにと声を上げながら廊下に出る。
他の教室から出てきた教師と話し合い、とりあえず狭いが校庭に全員を出すことを決め、ゆっくりでいいから校庭へ!と叫んで生徒を引き連れ表へ向かった。
逃げる合間に何度か揺れがきたが、ガラスなどが割れて危ないからと廊下の真ん中に列で固まりしゃがんで耐え、また外へ向かうことを繰り返す。
馨は雪とトキしかいない屋敷でどんな事になっているのか、そればかりが気がかりだ。
外に出て、点呼をとった後に校長が出てきて
「それぞれ家が心配だと思う。近いものも遠いものも、気をつけて家に戻るように。女性しかいない家も多いだろうから、早く帰って力になりましょう」
と告げ、一挙放課となった。
揺れが始まった瞬間に、雪とトキは咄嗟に頑丈な大きなテーブル の下に入り足にしがみついた。
傍の応接セットが床を行ったり来たりしたり、奥のキャビネットがテーブルに倒れてきたりするのに声を上げ、手を握り合い揺れに耐える。
次第に収まった揺れを、少しの間テーブルの下で確認して恐る恐るそこから這い出ると、足がすくんで立ちあがろうにも立ち上がれない2人は、床に座り込んだまままたしばらくぼんやりした。
「なんだったんだろう今の地震。すごく大きかったし長かったね…こわかった…」
「本当に。私も初めてですよ、こんな地震は。でも家が潰れなくてよかったですね」
馨がきた時にも、大名普請で丈夫だとトキが言っていたのを証明する家だ。
「2人とも無事…か…よかった…」
「旦那様!」
頼政が玄関から慌ててダイニングへ入ってきて、2人の無事を確認すると安堵の表情を浮かべる。
「ちょっと忘れ物を取りにここに向かっている途中で地震にあった。よかった居合わせられて。どこも怪我していないか?」
床に座り込んでいる2人に目線を合わせるようにしゃがみ込んで、様子を見る。
「大丈夫です。少し腰が抜けてしまっているだけで」
トキも笑ってうなずいてーそろそろ平気かしら?ー と立ちあがろうとした時に、余震が来た。
さっきと同じような揺れがきて、雪は咄嗟に大きなテーブル の縁を片手で掴んでしまった。
その時に揺れに合わせてテーブルが移動してしまい、テーブルに斜めに寄りかかっていたキャビネットが床に落ち、扉についていたガラスが飛散する。
「わっ」
その散ったガラス片やガラス粉 が、座り込んでいた雪に降りかかった。
「雪!大丈夫か」
見ていた限り、大きなガラス片も飛んでいたように思え、頼政が雪に近づくと両腕で顔をガードしていたものの、雪の額や頬に傷がついていてそこからじわりと血が滲み始めていた。
「血が出てるじゃないか。トキ、消毒とガーゼを」
仮にも医者の家なので、救急セットは用意されており、トキは台所の棚から箱を持ってきた。
傷の手当てをしながら
「他にないか?痛みがあったら言いなさい」
消毒が染みて顔を歪める雪だが、
「大丈夫です。痛いところはないですから。もう、早く立っておけばよかった」
笑いながらそう言って、無意識に目を痒いときのように擦った。その時に
「いたっ!」
擦っていた手を目に当てて、俯く。
「どうした?」
「目が痛…目が痛いです」
「目?見せてみろ」
雪の顔を顎を持ってあげさせたが雪は目を開こうとしない。
「開けないと見られないぞ、どっちの目だ?」
「今、左目を擦ってしまいましたが…右目も痛くて…開けられないです」
頼政の顔が深刻になった。
「トキ、桶に水が汲めるか?綺麗なものがいいのだが…」
「あ…ええと水道は止まっているようですが…先ほど料理しようとして鍋に沸かしたお湯が冷めてますけれど…」
「ああ、それでいい…ちょっと持ってきてくれないか。あと大きめな匙があれば。それと手拭いを」
トキはパタパタと走り回って、言われたものを順々に頼政の元へ運び、最後にお風呂場においてある洗った手拭いを持ってきた。
「いいか雪。今から俺が目を開くから、顔を動かさないでくれ」
「わ…わかりました」
雪も神妙になり、顔をもう少し上向きにされて下瞼を引っ張られた。頼政はそこに匙で掬った水を流しては手拭いで受け止める、と言うことを何度か繰り返し、反対側の目も同じことを繰り返した。
そして雪に、桶に顔をつけて目をぱちぱちとするように言って桶を手渡す。
「旦那様いったい私は…」
「さっきガラスを浴びた時に、細かいガラスが目に入ったのかもしれない。今流したのでは不十分なこともあるから、言われた通りにやりなさい」
雪は桶を手にして、顔をつけると水の中で目をぱちぱちとさせて見た。
少しチクっとしたが、何度かやっているうちにそれもなくなり顔を上げた時には両目が開けられた。
「目は開いたようだな、よかった。ちょっとみせてくれ」
頼政は雪の目を覗くように顔を近づけたが、一応傷らしきものは見えない。しかし肉眼では限界があって、眼科に見せないとな…とは思っていた。
「目は見えるのか?」
「はい…ちょっと左目がぼやけますけど、見えるには見えます」
そのぼやけるがちょっと気になる。
しかしこの状況では、医者も治療どころではないのではないか…
その時玄関で、誰かが呼ぶ声がした。
「どなたかご在宅でしょうか!」
頼政は仕方なく玄関へ赴く。
「なんでしょう」
尋ねてきたのは消防の服をきた2名で、4軒先で火災が発生したと告げてきた。
頼政は嫌な予感がした。
「なので、この家も行政の指導で取り壊しと言うことになりました。ご協力をお願いいたします」
申し訳なさそうに頭を下げる消防の2名には罪はない。
こう言う事態だからこそ、市民は協力し合わねばならないのだが…雪が怪我をしたかもしれない今、ゆっくり休める場が欲しいのも事実だ…が。
「わかりました、どのくらい待てますか」
「風が強いのでできるだけ早くとしか…」
再び申し訳なさそうに言う消防に
「ではできるだけ早く準備いたします。貴重品等を集める時間だけください」
「わかりました。我々はお隣にも声をかけていますので、ご準備できましたらお声がけください」
何度も頭を下げて2人は去っていった。
「さて…」
ふうっとため息をついて、頼政はトキを呼ぶ。
「家を壊すという行政指導が出た」
「え!この家をですか?まだ住めますよこの家は」
「火災が出てな…類焼を防ぐにはこれしかないんだそうだ…なので急いでトキと雪の準備を簡単でいいのでやってくれないか。俺は金庫の中身を全部出してくる」
トキは長年勤めたこの家がなくなるのが本当に嫌だった。
壊されるなんて辛かったが、今は個人の感情より火事の広がりを抑えることなのだ。
雪のそばにいってそれを説明し、雪も愕然とした。
「雪さんはそこを動かずに、と言いますか、お座敷の方へいてください。ここはまた地震が起こった時に落ちてくるものが多すぎます」
と雪の腕を持って立たせると、台所正面のパーティーをした広い部屋へ連れてゆき、真ん中へ座らせた。
「今準備して参ります。雪さんはここにいてくださいね。絶対に持ってゆきたいものはありますか?」
「では、机の引き出しに入っている、旦那様から頂いた紅 の入った箱を…お願いします」
わかりましたとトキは部屋へ向かった。
20歳になった時に、綺麗な白い肌に赤が似合うといって頼政がくれた口紅だ。それから何度か買い替えてもらっている大事なものである。
しかし家が壊される…。そんな思い出も全て消えてしまう…。ずっとここに住めると思っていたのに…みんなで楽しくなってきたところなのに…涙が滲んできたが、その涙が目に沁みた。
「私の目は…どうなってしまうんだろう…」
そんな不安も抱えなければいけなくて、とりあえず瞑った目を上から優しく撫でる。
ー大丈夫。目は大丈夫ー
言い聞かせるように、おまじないのように目に触れながら呟いていると、頼政がやってきた。
「目は触ってはいけないよ。角膜というものが傷ついてしまったかもしれない。眼科に診せられたらいいのだが、いまはなんともな…それに馨も心配だ。戻ったら家がないでは可哀想だが、連絡の取りようがない…」
「表の松の木に、どこへ向かったと書いた紙を貼るのはいかがですか。馨くんは絶対にここへ戻るはずですから」
風が強いこととこれから壊した屋敷に水をかけるはずだから…と考えはするが、紙をロープでぐるぐる巻きにすれば可能性は…と思い、取り敢えず墨で『〇〇町の避難所へ向かう』と書いて、ロープを用意した。
トキが、一応雪の着物一式を2枚ずつと自分のもついでに置いてあったのを一枚風呂敷に入れ背負い、その他のものは手持ちのカバンに入れ戻ってきた。
そして雪に薄手の布をかけて抱き抱えるように立ち上がらせると、3人は玄関を出た。
頼政が松の木に馨への伝言を結えている間に、雪は細く目を開けて屋敷を見上げ涙している。
雪にとっては、頼政に引き取られてから12年ほどこの家で暮らした。
自分のことに色々気づけたのもここだ…。涙が溢れるが、泣くと目に沁みる。
頼政が戻ってきて雪の頭を胸に抱き抱え
「雪…気持ちはよくわかる。だが涙は目に沁みるだろう…だから…」
こんな時に泣かせてあげられない不甲斐なさに歯噛みした。
「もう大丈夫でしょうか」
先ほどの消防の2名がやってきて確認をとってくる。
「ええ、もう…。よろしくお願いします」
頼政は軽く会釈の後2人を連れて、取り敢えずの避難所へと向かった。
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