1 / 14
第1話 たそがれ
【僕らは性欲が一致しない】
メゾネットの2K、バス・トイレ別で敷金礼金込で12万は結構安い方だと思う。
鉄筋だから寒くないし、防音もよくされている。築年数は10年でまだまだ綺麗だ。
一番近い駅までバスではあるが、急いでない日は二十分強歩けばいいし、駐輪場もあるから自転車だって使える。
都内ではないが、地下鉄に5駅乗れば東京都だ。だから利便性も悪くない。
「やっぱり二人で住んで正解だなー」
一人で7万5000円の木造アパートに住んでた頃を思い出しながらぼやく。
大学が性に合わなくて両親と揉めに揉めた末に退学して実家を飛び出しフリーターに転じたのが数年前。
都内で生活するにはバカ高くて狭い部屋に住まなくてはならなかった。
しかし東京を一歩離れると時給がダダ下がるし、何かと不便なので都内にとどまり続けた。
ボロボロのアパートや事故物件に住む手もあったのだが、生活水準を落とす覚悟のなかった俺はとりあえずやれるだけやってダメだったら次の手を考えようとその日その日をギリギリに生きていたのだ。
「おー、鶏肉89円か…」
俺はスーパーの肉売り場で広告の品を見つけて心をときめかせた。根菜がそろそろしなびてくる頃合いだから一気に使ってカレーにでもするか。と思いながら鶏肉のパックを掴んだ。
今の俺といえば、ほとんどパートの主婦だ。この生活になってから半年くらいが過ぎた。俺は今の生活が楽しすぎてたまらない。
だって、家に帰れば、ドアを開ければ、
「夕ーーーーーー!!」
俺は玄関を開けて、靴も揃えず(いつものことだが)脱ぎ散らかして家の中に飛び込んだ。
玄関を開けるとすぐにキッチンになっていて、夕は冷蔵庫からお茶を出そうとしていた。
俺は嬉しくて夕に抱きつこうとした。
「ストップ」
が、夕が麦茶ボトル(中身は麦茶ではなくルイボスティーなのだが)を盾のように突き出して俺を制した。
「手洗い、うがい」
夕は短く告げると、早く行けとばかりにあごをしゃくった。
「わかってるよ、もーーー」
俺はスーパーのレジ袋をガサっと床に置くと、すごすご階段を降りた。
このマンションはメゾネットタイプになっていて、洗面所兼風呂場は階下にある。ついでに夕の部屋も下にある。台所仕事は主に俺の仕事なので、俺の部屋兼ご飯を食べる部屋は上階にある。
きちんと石鹸で手首まで30秒目安に洗う。夕は若干潔癖症なきらいがあるのでズボラな俺もどんどん夕ナイズされていった。
おかげで夕と暮らして半年以上経つが、風邪気味にさえなっていない。
「ふふ」
俺は手を洗いながらご機嫌だった。大学生の夕は朝があまり得意でない。だから一限や二限の授業をほとんど取らない。わざと夜間の授業を取ることもある。しかもバイトでほとんど夕方に家にいることはない。今日のように16時頃に家にいるのは珍しかった。
一緒にご飯とか作ったりとかできるかな?夕はあまり料理ができないので自炊担当は専ら俺だったが、家にいる時は何も言わなくても手伝ってくれた。
俺は夕のそういうところが好きだった。食べたらちゃんと食器を運んでくれるし、食器洗いも手伝ってくれるし、そういうところを褒めたら「はあ?普通だろ?」と返ってきたのでますます好きになった。
特に若い男の子(といっても俺も25はいってないが)が進んで家事をしてくれるということはあまりない。ゲイだからといって家事能力が高い奴が多いかと言えば全然そんなことない。こっちが献身的になると何もやらなくなる奴のなんて多い事か!!典型的なダメ男製造機である俺はそうやって男と破綻を繰り返してきたのだった。
階段を上がると夕が買ってきた肉やら牛乳やらを冷蔵庫に詰めてくれていた。
「あ、ありがとうー!」
「うん」
夕は淡白に返事をした。これこれこれ!気づいたら色々やっておいてくれる上に恩着せがましくない。
「はぁ、夕すき…」
俺は冷蔵庫に物を詰める夕の背中に抱き着いた。夕の部屋着のTシャツからは柔軟剤と夕の匂いが混ざった良い匂いがした。夕と俺だと俺の方が背が高い。俺は首筋に吸い付くように夕の肩口に顔を埋めた。夕は冷蔵庫をパタンと閉めると左手で俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。
冷蔵庫からヴーンという静かな機械音が聞こえる。俺が顔を上げると俺と目が合った。黒い冷蔵庫が俺の顔と夕の体と夕の体に巻き付いている俺の腕を鏡のように映していた。
「ゆう…」
9月も終わりに近くて16時を過ぎると室内は薄暗い。夜がじんわりと迫る2Kのマンションの一室で夕と二人きりになれることが今も嬉しくて、興奮する。
「っ…」
夕が小さく息を飲む声が聞こえた。俺が耐えかねて夕のシャツの裾から手を差し入れたからだ。
俺は夕のへこんだ薄いお腹から肋骨にかけて触るのが好きだった。
俺の手が夕の上半身を撫でまわしてるのが冷蔵庫に映ってる。ぼんやりとしたその鏡像は曖昧にぼけていて余計にそそられてしまった。
「はぁ…」
夕が恥ずかしそうに俯きながら短く息を吐いた。その声音のせいで俺は完全にスイッチが入ってしまった。大丈夫、カレーだったらまだ作らなくても全然間に合うし、ご飯も早炊きすれば大丈夫、とか現実的なことを頭の片隅で思いながら俺は夕の手を引っ張った。
俺の部屋に連れてくると敷きっぱなしのシングルのマットレスに夕を押し倒した。
「ちょ、っと…ハル…」
困ったような声を出す夕の口を塞ぐ。
「ん、う…」
舌を入れて夕の舌に絡める。受け止めきれなかった唾液が夕の口の端からこぼれる。
夕が好きだった。
夕の黒い髪も生意気そうで神経質そうな目も、淡白だけど親切な性格も、しなやかで俺より背が高い体も夕の全部が好きで全部俺のものにしたくて、俺だけのものにしたくて繋がりたくて探りたくて暴きたくて、そして愛し合いたい。といつだって思っていた。
でも俺はこの行為がどう終わるかもう知っている。知っているのに俺は。
「夕…」
俺は夕の耳に唇を落としながら、ズボンの中に手を突っ込んだ。部屋着のゆるいウエストゴムのスウェットはあっさり俺の手の侵入を許した。
「や、やだ…」
下着の上から夕のものを優しく撫でるように触れると夕は逃れるように身を捩らせた。そのままズボンごと下着を脱がしてしまおうと手をかけると、
「いやだってば!」
俺は夕に肩口を強く押されて押し退けられてしまった。
「うわ!」
バランスを崩した俺はゴロンとマットレスから転がり落ちてフローリングに落ちた。冷たくてちょっと痛い。そこでようやく酔いが覚めるかのように我に返った。
「あ、ごめん」
夕が申し訳なさそうに謝る。東向きの部屋の窓からはもう光がほとんど差してこない。
電気をつけない部屋はぼんやりとした暗さに包まれていた。
早く電気をつけたいなあ、と思った。ついでに夕方のニュースもつけたいなあと。
「ごめんね。もうカレー作ろっかな…今日鶏肉がすっげー安くてさ」
俺は何事もなかったかのように、いや何事もなかったんだと自分に言い聞かせるように明るい声を出した。
恥ずかしかった。良い雰囲気かも、なんて思って調子に乗ってごめんなさい。と何かに謝った。
「俺も手伝うよ」
と夕が俺の手を握ってきた。ほっとしたような夕の顔を見て、俺もほっとした。夕の指先は冷たかった。
夕が好きだった。
夕もきっと俺が好きだと思う。俺たちは喧嘩もほとんどしないで上手く生活していた。性格も価値観も合うし、趣味も合う。お互いのことを尊重しているし大事にしているし、されていた。
だけど。
俺たちは性欲だけが一致しなかった。
ともだちにシェアしよう!