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5/5(完)

今でこそ混沌を孕んだその体に、病魔が棲みついたのは、まだ二人が幼い子供だった頃の話だ。 繁殖期にオスが自身の縄張りを主張する様を表わす、揚げ雲雀。その長閑な鳴き声が聞こえる春の日は、予定日より早かった。 未熟児として生まれたその子供は、新生児集中治療室に長く居た。保育器の中でゆっくり、ゆっくりと育つ姿に、いつかは男として天高く飛翔するようにとの願いを込めて名付けられたのが雲雀だ。 その名に反して、幾つになっても体が小さく、病気がちで、ほとんど家から出る事はなかった。 そんな幼馴染のため、隣家に住んでいた日出人は毎日のように、道端で摘んだ花や、拾った石、置かれていたガラス瓶、川で掬った魚や虫を持って来て見せた。そうして、共に過ごすのが当たり前だった。 雲雀の部屋はそうした"手土産"あるいは"戦利品"で彩られたが、何度か雲雀の両親に見つかっては、二人して窘められた事もある。外にある物は、体の弱い雲雀に悪い影響を与えてしまうから、触れさせられないのだと。 いつからか日出人は、玄関まで回り込むのもまどろっこしいと、子供部屋の東に開いた窓から顔を出すようになった。背が伸びる頃には、ついに窓をよじ登り、桟に腰掛けて話をした。手土産を渡す代わりに、学校や、町で起こった出来事を話して聞かせた。さながら高い塔に閉じ込められた囚われの姫と、それを助けに現れる旅人か狩人、もしくはその退屈を紛らわす吟遊詩人といったところだ。 しかし雲雀の家は城ではなく、裕福でもなかった。 小さな一人息子の体に大きな病気が見つかった後、雲雀の父親は行方を眩ませた。高額の医療費が必要になる事を知り、妻子を捨てて逃げたのだという。 繁殖期を過ぎればつがいでなくなるのは、ヒバリの生態だ。 雲雀の長期入院が決まると、弟のような幼馴染の喜ぶ顔が見たい一心で、日出人は小児病棟に通った。母親一人では大変だろうと、上月家すなわち日出人の両親も協力を申し出た。初めのうちは気丈に振る舞っていた雲雀の母親だったが、見舞いに来る度、夫への憎悪や愚痴をこぼすようになった。 雲雀が面会すら許されない特別室に移された際、ネームプレートから苗字が消された。気付けばもぬけの殻となっていた隣家の表札に掲げられていた苗字など、今となっては日出人も忘れてしまっている。 小さく、弱い雛鳥が巣から追い出され、淘汰されてゆくのもまた、自然の摂理だった。 自力では翼を広げる事すら叶わない鳥に、一生飢える心配の無い"安全な"籠を与えたのは、「パパ」だった。囚われの姫はこうして、飼われる鳥になった。 担当となった医師をはじめ、姿を消した父親と同世代の男性らに可愛がられ、持て囃され、弄ばれる生活が始まった。哀れな少年は、自身の人生と引き換えに、自身の人生にかかる費用を未熟な肉体ひとつで稼ぐようになったのである。 「ほとんどのパパたちは、ボクのパパなのと同時に、誰かのパパでもあるんだよ。」 取り替えた真新しいシーツの上に寝転がり、糊のきいた枕カバーに頭を乗せ、仰向けになった雲雀は天井を見上げたまま、おもむろに話し始めた。掠れた声に、時折咳払いを挟みながら。 「立派な会社やお店があって、そこで働く部下が居て、大切な家庭があって、かわいい子供が居る…」 決められた時間の中で触れ合い、色々な話をするうちに、家族が話題に上がるのは不自然ではない。 写真を見せてもらった事もあるよ、と笑みを浮かべる。 「だから、ボクにかまけてられる時間なんて、限られてるの。ちゃんと、守らなきゃいけないものがあるの。」 夜半の月を背にして雲雀が立っていた窓とは反対側の壁際に置かれた、黒革張りの一人用ソファー。そこへ腰掛けた日出人は、相変わらず黙ってその顔を見つめていた。 「こんな時間に、ボクのワガママで呼び付けるなんてできないの、分かるでしょ?」 今の雲雀は常に誰かから求められてはいるが、雲雀が誰かを求める事は許されない。ただここに居て、可愛らしく囀り、餌と、死を待つのみ。 籠の鳥のような生き方をせざるを得ない運命を皮肉るように、姿を消した親から与えられたその名は雲雀。古来より人々に親しまれ、生活に溶け込んできたヒバリ。そんな鳥から名前を取って付けられた雲雀も、多くの人間から親しまれ、愛されている。 しかしそれは商品としての価値に限った話に過ぎない。一見すれば大切に育てていると思われても、所詮は道楽なのだ。 だからこそ雲雀は、「パパ」に媚び、縋って、高価な医療をもってしてもそう長くはないだろう余生を過ごす。今度こそ、捨てられないように。 転落防止のための嵌め殺し窓も、その向こうに広い空と、何処までも続く景色を映しながら、そこへ小鳥を飛翔させる事を諦めさせていた。ここは格子のない籠であった。 薄い雲を含みつつも白み始めた外を見ながら、黒く蝕まれた体が寝返りを打つ。 「今日は、いっぱい話聞いてくれたね…」 初めて気付いたように、少なからず満足感を滲ませ、それでいて相手の顔色を窺いながら。 「パパたちの話すると、ヒデはいつも怒ってたじゃん…」 「今だって、気分の良いモンじゃねぇよ。」 日出人はやはりぶっきらぼうに言い返した。 今も昔も狭すぎる雲雀の世界には、男性客の存在以外、本当に何も無いのだ。ならば自ずと、それが話題に上がる事も避けられないに決まっている。 視線を落とし、裸足の爪先を睨みながら続ける。 「でもいい加減に、いつもみたいにヤらされて帰るだけじゃ癪だろうが…」 こんな夜は、初めてではない。 寝室の扉をくぐり、裸の雲雀を前にした時の、諦めとも呆れともつかない感情がまた湧き上がる。希望など持てる筈もないのに、今日も、何を期待していたのか。 日出人もまた、雲雀に買われる男娼なのだ。 雲雀は相手の興味をそそらない話を聞かせる、ただの退屈な男でしかない「パパ」たちと、日出人はそんな話を聞き続ける雲雀と同じだった。 鳶が鷹を生む、とはよく言ったもの。日出人は鳶になった頃から、街頭に立ち安価で色を売った「夜鷹」さながらに、望んでもいない形で雲雀の相手をするようになったのだった。 平凡な親から生まれた子が果たして本当に優れていたかは、後になってみなければ分からない。 知識も学歴も持たない雲雀が渡せる報酬は、値段など付けられない無償の愛と、日出人の住み込み先である建設業者の寮とタワーマンションの裏口を結ぶ、僅かばかりのタクシー代。クローゼットの中で腐っている宝に興味を示すほど、日出人は強欲でも物質主義でもない。 故事や歴史の裏に関する知識も、物事を深く考える力も持たない雲雀が知る由もなかった。 日出人という名を持ちながら、姓と同様、月の上っている時間にしか傍に居られない事実が、どれほど彼自身を苦しめているか。その名の通り月と日、すなわち陰と陽が交錯するような、一筋縄ではいかない感情がどれほどのものか。 ともすれば恋愛感情や劣情よりも複雑な、憐憫の情や、熱情とも呼べる情念の炎を抱いているなどとも。 面会さえできなくなって数年が経った頃、ようやく雲雀の身の上を知った日出人は、間近に控えていた進学を取り止めた。卒業と同時に親元を離れ、働き始めたのだ。 自身の人生と引き換えに、自身の人生で最も小さく、最も大きな存在の傍らに居るにようになった。呼ばれれば、たとえ夜中であっても飛ぶように駆け付ける。今度こそ、雲雀を失わないように。 自由を持たない雲雀が、自由にする事のできる唯一の存在。それが今の日出人だ。 共に過ごすのが当たり前だった時間を取り戻そうとするかのように、その笑顔が見たい一心で、雲雀の元へ通う。 鳶になろうと、夜鷹になろうと。ある時は高い所に吊り下げられた鳥籠を狙い、飛び掛かろうと腰を振る猫のように。あるいは大きな屋敷の裏口から忍び込み、暗がりを走る鼠のようにしながら。 答えなどいらない、同じ気持ちになってくれればいい、しかしそれが一番難しいだろうと嘆く雲雀と、同じ気持ちにはなれないが、求められるままに応じる日出人。 相手が同性である自分と同じ気持ちになる事はないと知ってから、しつこいほど一方的に自身の気持ちを伝えるばかりの雲雀は気付く機会も失ってしまった。 本人にも自覚のないうちに、とうの昔から日出人を繋ぎ止め、縛り付け、閉じ込めている。雲雀の存在自体が、日出人にとっての籠であった。 「ヒデもいつか、好きな人ができたらちゃんと教えてね。写真も見せて。」 身勝手なまでに大胆に想いを伝えこそすれ、自分と一緒に居る事は、日出人の重荷になってしまう。そうして縛り付けてしまう事は、自身の置かれた境遇と同じ。 ベッドに臥して、月が上るのを待つ事しかできない籠の鳥の気持ちは、身をもって理解している筈なのに。 「ヒデが誰かと結婚したら…子供が出来たら…その時は…」 三日月形ではなく柔らかな笑みを湛えて話すその目に、じわじわと涙が溢れ始める。声も震え、濁って、聞き取りづらくなる。 どんな形であれこの先も、一緒になる事はできないのだ。ずっと昔から、心を捧げてきたと言うのに。 結婚や子育てに理想を抱けない理由は、その生い立ちと、多くが既婚である男性客に春をひさぐ日々が何よりも物語る。 「それまでボクが生きていられるかも分からないけど、でも、ヒデが好きになる人を見てみたい…」 日出人がすぐに立ち上がり、ベッドに歩み寄る。腕を伸ばし、泣き始めてしまった雲雀の頭を撫でてやった。 「なに泣いてんだ。死ぬ時は一緒だろ?」 「だって…」 病気がちだった雲雀が、外の世界を教えてくれる日出人に対して憧れを抱いたのも無理はなかった。 ちょうど東に向いた場所にある窓から、まるで太陽を背負って現れたかのように、温かく、明るく、自分を照らしてくれる。日の出る場所から現れる人。それが、当時の雲雀にとっての日出人だったのだ。 「ホントに好きなんだもん…ヒデのこと…」 髪を金色に染められようと、目の色を変えられようと、全身に卑猥で歪曲した証を刻もうと、鼻の頭を真っ赤にして泣く癖は昔から変わらない。 日出人はやはり何も答えず、姿勢を下げてキスを落とした。 横たわった雲雀が細い腕を伸ばしてくる。 「今日は…会えて良かった。」 日出人は屈んだ体勢のまま、その小さな体をしっかりと抱き締める。まだ薄暗い部屋で交わされるそれは、別れの挨拶だった。 体を離すと、日出人は裸の雲雀に掛け布団を引き上げてやった。軽く、柔らかで温かい、上質な羽毛布団だ。 「これからしばらく、夜まで予約埋まってるんだ。そのうち検査もあるから、また入院しなきゃ…」 二人が次に会うのはいつになるか、それは誰にも分からない。いつ、会えなくなるかも分からない。 そんな不安は誰の胸にでもあるが、特に強いのは実のところ日出人の方だったかも知れない。 「オレも。当分は夜まで現場だ。」 同調すると、雲雀が少し悪戯っぽく笑ってみせる。 「寝なくて平気だった?」 「今日ここに来なきゃ寝てたさ。」 鳥頭が相手では、嫌味にもならない。二人が望んだ事であれば尚更だ。 「帰ってから、少し寝る。」 睡眠不足も、激しい運動による疲労も、高所での作業には当然ながら影響を及ぼす。はばたく事をほとんどしないトビは、空を滑るように落ちるだけだ。 日出人が住み込みで暮らす寮は、このマンションから車で1時間ほどの場所にある。この寝室ほどの広さも防音性も断熱性も持たない、日当たりの悪い一人部屋に暮らしている。 人の目に付かない場所に巣を作るのはトビの生態だ。 現場に顔を出す事などない建設会社の社長もまた、その末端が汗水を垂らして上げた利益で高級男娼を買う「パパ」であった事は、つい先日知った偶然だったが。 そこはほとんど寝るためだけに帰る場所。雲雀と抱き合う大きく柔らかなベッドに比べれば、畳の上に敷きっぱなしの布団の寝心地など語るまでもない。 次の連絡がくる夜は、いつになるか分からない。 薄い布団に臥(ふ)した籠の鳥もまた、月が上るのを待つのだ。 雲雀はひとつ頷き、羽毛布団を首元まで引き上げる。 「シャワー浴びてる間に、下にクルマ呼んどいてあげる。」 業務的とも取れる態度の裏に、名残惜しさを覗かせるところまでが商売というものだ。 浴室を出た日出人は、血と体液で汚れたシーツと枕カバーを廊下へ出し、エレベーターへ向かう。 裏口から出ると、待っていたタクシーに乗り込んだ。 日が上り始めた空には、まだ沈み切らない月が浮かんでいた。

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