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#005 Stalker

「……え、早苗っ!」 「ッ!!」  自らの名前を呼ぶ声に早苗は息を呑んで目を覚ます。気付けば電気の灯された配信部屋のベッドの上に早苗は横になっていた。 「……た、けみ、さ……?」  傍らには早苗を心配するように寄り添う建巳の姿があり、早苗が名前を呼ぼうとすると酷く掠れている状態であることが分かった。  いまいち状況を理解しきれていない早苗だったが、建巳が来ているのに寝たままでいる訳にもいかず肘をついて身を起こそうとする。 「無理しないでまだ横になってろ」  身を起こそうとした早苗の肩を押し返し建巳は再び早苗をベッドへ寝かせる。躊躇いがちに早苗が送る視線に気付いた建巳は枕に頭を預けた早苗の額に手を乗せる。 「吐き気はないか?」  建巳からの問い掛けに答えようとする早苗だったが、喉の奥にちりつくような痛みがあり視線を泳がせた後こくりとひとつ頷く。  少し間をおいて徐々に目を覚ます前のことを思い出した早苗は途方も無く孤独だった記憶が蘇る。じわりと涙が双眸に浮かび、額に乗せられた建巳の手を両手で握りしめる。  建巳ははたとして早苗へ視線を向けると、ぼろぼろと涙を流す様子に少しだけぎょっとするが片手でぽりぽりと頬を掻く。 「あー、予定切り上げてこっち来たらさ、お前が泡吹いて倒れてたから」  両手で掴まれたまま、その指先で建巳は早苗の目元に浮かぶ涙を拭う。 「うちの主治医に連絡して見て貰ったんだけど」  途端に建巳は押し黙る。早苗から視線を反らし話すべきかを少し悩んだ挙げ句、ちらりと早苗に視線を戻しその不安げな眼差しを見て眉を落とす。 「食べかけのバーガー、変な匂いするなってそれも……調べて貰ったんだけどさ、」  建巳はそっと早苗から手を離す。早苗もそれ以上建巳の手を終えずただその手の行く先を視線で追うことしか出来なかった。 「……農薬がさ、入ってたんだって」  その事実を聞いた早苗の心臓がどくんと大きく高鳴る。最後に口にしたバーガーはフードデリバリーアプリで注文したもので、写真の存在に気を取られて意識散漫な状態ではあったが確かにバーガーを咀嚼した覚えがあった。  早苗は伸ばした手で縋るように建巳の服を掴む。喉にはまだ焼けるような痛みと酷く辛く苦々しい味があったが、それを押すように無理やり言葉を絞り出す。 「たけ、みさんっ……」 「お前、まだ無理に喋るな――」 「アイツ、……あの、男、がっ……」  早苗が言おうとしていた言葉の意味を建巳は既に理解していた。呼んだ主治医が現れるまでの間、直前まで見ていたであろう早苗のスマートフォンを建巳は確認した。だから早苗が必死に言葉を絞り出そうとしなくとも意図を汲み取った建巳は早苗を抱き寄せる。 「――分かってる。早苗、大丈夫だから」  両腕で建巳にしがみつき、ぼろぼろと涙を零す。  それは早苗にとっては忘れたくとも忘れられないまだ新しい記憶で、建巳が《翡翠メイ》の為にこの完全セキュリティ完備の配信部屋を用意する要因にもなった事件だった。  その男の名前は太郎といい、早苗が《翡翠メイ》として活動を始めた頃からの古株のファンだった。しかし当時から太郎の《翡翠メイ》に対する執着は異様なものがあり、男の娘であることが分かっていながらもまるで女性に対する好意のように周りの目も顧みず配信、投稿問わず熱烈なアプローチを続けていた。  それだけならばまだ少し困ったガチ恋ファンということで建巳も重視しなかったが、太郎の行動は留まることを知らずエスカレートしていった。  《翡翠メイ》の投稿写真の映り込みから生活範囲を探し出し、ある夜突然早苗の前に太郎は現れた。  太郎は《翡翠メイ》の全てを知っているが、早苗は初めて目にした太郎の姿にそれが太郎であると気付かず、距離を詰められ手を取られ、愛の告白をされたことでそれが太郎であると認識をした。その時は驚きのあまり手を振り払って逃げ出した早苗だったが、次の日早苗は自宅アパートの玄関前に太郎が直接置いたと考えられるプレゼントを見つけて恐れ慄いた。  その時点でパニックに陥った早苗は自宅から出ることが出来ず、震えが止まらない手で建巳に連絡をした。  ただ怖くて、建巳が居なければアパートから出ることもままならなくなり、ノイローゼ気味になりながらもそれでも自宅からの定期的な生配信は続けていた。  早苗が完全に耐えきれなくなったのはその際の配信中に突然玄関のドアノブを激しく回す音が聞こえた時だった。  それすらもまだ序の口であり、繰り返される熱烈なストーキング行為に後少し建巳の対応が遅ければ早苗は完全に壊れていた。実家がある程度の権力を持っている建巳が警察にかけあったのか、早苗がこの配信部屋に移る頃には太郎の姿は無くなっていた。  太郎の姿が見えなくなったとはいえ、早苗の心奥深くに植え付けられた恐怖心が簡単に拭える訳もなく、今でも外に出ることは怖かった。ここまでしてくれた建巳に報いる為にもようやく以前同様の調子を取り戻した矢先だった。 「建巳さん、あの男……まだ近くに……」  《カエサル》が明度を上げた写真に写っていた黒い影、それは明らかに太郎の顔だった。ようやく太郎のことを思い出さないようになってきたのに、実はまだ太郎に付き纏われていたという事実を知った早苗は到底平常心ではいられなかった。 「早苗、大丈夫だから。あれはあの男なんかじゃない」 「だけどっ……」  建巳は言い聞かせるようにゆっくりと優しい口調で早苗に伝えるが、腕の中の早苗は震え続ける。恐らく早苗の頭の中ではバーガーに農薬を仕込んだのが太郎であると考えているのだろう。何か物を贈ること、それは太郎の常套手段だった。手作りの食べ物や盗聴器の仕込まれたぬいぐるみなどはまだ可愛いもので、それ以上の露骨な贈り物を建巳は何度も見てきていた。  最近はようやく調子を取り戻してきていたと思っていたところだったが、《翡翠メイ》のことを考えるのなら早苗に今はこれ以上無理をさせることは出来ない。早苗にはきっと心と身体を休める時間が必要で、連絡を受けたマンホールの件に引き続き、写真に太郎らしき影が写っていると言われればそのショックは相当なものだろう。 「大丈夫なんだ早苗、あの男がお前を苦しめることはもう無いんだから」  本当は追い詰められた早苗が自ら農薬を煽ったのではないかと建巳はほんの少しだけ疑っていた。しかしすぐにフードデリバリーアプリの注文履歴からバーガーは早苗自身が注文したものであるということも分かった。  守りきれなかったことがただ悔やまれて、気に病みやすいからこそダイレクトメッセージやSNSの通知などは早苗の代わりに全て確認していた。  子供を寝かしつけるときのように一定間隔でゆっくり早苗の背中を撫でる。まだ本調子でもなくパニック状態にも近い中、精神状態が不安定ではどんなことでも悪い方面に考えてしまう。だからこそ今は充分な休息が必要で、建巳は腕の中で震える早苗の身体が少しずつ落ち着きを取り戻すまで背中を優しく叩き続ける。 「大丈夫だから、早苗。今はゆっくり休め――俺がいるから、何も心配しなくていいんだ」  やがて腕の中から小さな寝息が聞こえてくると建巳はゆっくりと早苗をベッドに寝かせて毛布を掛ける。

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