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#007 Someone

 建巳には無理をせず暫く配信も休めと言われていた早苗だったが、未だにインターネット上では《翡翠メイ》が男の霊に取り憑かれているなどと話題になっており、その噂を払拭する為にも週一回の頻度で行っているインターネット生配信の断行を決めた。  妥協案としてカメラには映り込まない画角で配信部屋に控える予定の建巳だったが、配信を始める数分前に何かしらの連絡がスマートフォンに入ったらしく、早苗の様子を気にしながらも部屋を出ていった。  出来ることならば何かあった時すぐ駆け付けられる状態にしておきたかったが、カメラの直線上に部屋の扉があり、配信を開始したら途中から部屋に入ることも扉を開けておくことも難しい状況だった。《翡翠メイ》のブランドイメージを大切にしているのは建巳も変わらず、通話中の声が配信に乗らないよう建巳はリビングへと向かう。 「みんなー、おつメイ~!」  時間となりウェブカメラに対して両手を振る。室内の薄暗さが早苗の顔色の悪さすらも隠し、レンズ越しに目一杯の笑顔を早苗は浮かべる。  予め告知されていた時刻から開始されたインターネット生配信には多くのファンがリアルタイムに集い、合言葉のような挨拶をコメントが次々に流れる。  たくさんの人に見られているという自覚はあったが、それらは全て文字やハンドルネームであり、直接向けられる視線ではないことは早苗を安心させていた。 〔顔色悪いね、やっぱり例の件?〕  視聴者の皆に元気と安心を与えようとする早苗の気持ちを汲まず投稿されたコメントの主は《カエサル》。《カエサル》のコメントに端を発したように事件をしっているユーザは口々に《翡翠メイ》を心配する言葉や、呪われているからお祓いをしろなどの不安を煽るコメントを羅列していく。 「え、えっと……」  建巳からは太郎については知らぬ存ぜぬを突き通せと言われており、あの明度を上げた太郎の睨みつける顔の写り込みすら《カエサル》の作った合成写真である可能性があると聞いていた。 「ああ顔色が悪いって? ちょっと食あたりでお腹壊しちゃってね。もお数日何も食べられなくてゲッソリだよ~」  それでも写真に写り込んだ黒い影についての見解を述べよと追求するコメントは止まらず、嫌でも目に入ってしまいそのコメントに早苗は僅かに下唇を噛み締める。  すぐにそんな険しい顔は《翡翠メイ》らしくないと思い直した早苗は気を取り直し、写真の話題に便乗して投稿した実店舗で購入した限定フレーバーの話題に切り替えようとする。 「あっそうあの写真ねぇ、実店舗限定のフレーバーって聞いて飲んでみたくなっちゃってさ~あれ飲んだ人いる? めーっちゃくちゃ甘いんだけどナッツの香りがふわ~っとしてさ……え、なに」  早苗はコメント欄へ視線を向ける。〔え〕や〔あ〕などの単語のみが流れ始め、一瞬早苗は荒らしか何かではないかと疑った。 〔誰かいるの?〕  居るか居ないかで問われれば今日は建巳が居る。普段配信中には極力配信部屋に来ることはなく、終わる時間を狙ってやってくることが殆どだった。しかし今回は心配だからという理由で配信を開始する前から待機しており、直前に部屋を出ていってしまったが今もリビング辺りにいるはずだった。 「誰か、って……ええと……」  《翡翠メイ》の活動をサポートする建巳という存在がいることは古くからの視聴者なら誰でも知っているが、彼氏だなんだと太郎のように騒ぎ出す者がいるかもしれないと考えると早苗は今この場で建巳の存在を口に出すことは憚られた。  それでもまさか建巳が配信中に背後の扉を開けて入ってくるはずがなく、何故今このタイミングで視聴者が誰かの存在を示唆するのか、早苗は戸惑った。早苗の知る限り建巳がたてたであろう物音などは聞こえず何が切っ掛けだったのか理解できない早苗の目にひとつのコメントが飛び込んできた。 〔だれか、はいってきた〕 「……ッ!?」  咄嗟に早苗は背後を振り返る。しかし誰かが居る訳もなくそこには薄暗い部屋が広がっているだけだった。扉も勿論閉まったままであり、もし物音をたてずに建巳が入ってきたとしても廊下から射し込むライトの光は背中を向けている早苗にも確実に分かるものだった。 〔え、だれ?〕  呼べば、今すぐにでも建巳が駆け付けてくれるだろうことは分かっていた。しかし配信中に頼ってはいけないと心に決めた思いもあった。何より建巳の登場で視聴者に動揺を与えてはいけなかった。胸元の服を強く掴み、小さく気合を入れ直すように息を吸う。そして即座に気を取り直してカメラに向かう。 「やっだな~誰も居ないじゃん。驚かせないでよ。えぇと、何の話だっけ?」  臭いものに蓋をしているでも、都合の悪いものには答えないとでも何と言われても構わない。《翡翠メイ》という存在は視聴者の望む可愛らしさや癒やしを届ける存在であり、恐怖に怯える姿など誰からも望まれてはいないのだ。  ――そう、求められているのは、注目されているのは《早苗》ではなく《翡翠メイ》であり、建巳でさえ《翡翠メイ》の価値に傷がつくことを恐れていることを早苗は内心気付いていた。  だからこそ早苗は《翡翠メイ》という理想像を壊さぬよう、《早苗》に何があっても《翡翠メイ》にはそれを投影せず、常に笑顔だけを届けることを決めていた。 「――――」 「ッ!?」  何かが聞こえた気がして、早苗は息を呑む。建巳が何か物音を立てたとしたらそれは少なくとも扉を隔てた先から聞こえるはずのもので、そうではなく閉ざされたこの空間内でその音は聞こえた気がした。  映り込まない画角にベッドがある程度で、配信用のパソコンとディスプレイ、ウェブカメラ以外他に何もないこの部屋では何か物音がたつ可能性もなく、〝音〟というより〝声〟に近いものであることを早苗は理解してきた。  突然ビクつき、周囲を見渡す《翡翠メイ》の姿はリアルタイムにその様子を見ているカメラの向こうの視聴者も異変を覚え、〔何があったのか〕という趣旨のコメントが散見し始める。  インターネットブラウザでは配信画面しか開いておらず、何か別の音が漏れるという可能性もない。スマートフォンはデスクの隅に置いてあるが、マナーモードにしてあるし、仮に通知が来たとしてもそれは〝声〟とは大きくかけ離れた〝音〟であるはずだった。  ――〔誰かが入ってきた〕。  誰かのコメントを今更ながらに早苗は思い出す。何か喋らなければ、普段通りの会話をしなければならないと頭では分かっているのに目線はただコメント欄を追うばかりで言葉が何も出てこない。  そんな早苗の目にあるコメントが止まる。 〔後ろ!!〕 〔後ろ見ろ!〕 「――メイ」  今度は誰かが確かに名前を呼ぶ声に早苗は息を呑んだ。建巳ならば《早苗》と呼ぶはずで、今この家の中に早苗を《メイ》と呼ぶ人物が居るはずなかった。  耳元で直接囁かれた言葉。低い男性の掠れた声、早苗は確かにその声を過去に聞いたことがあった。  建巳がそんな悪戯を配信中に仕掛けるはずが無い。ただ確かに背後に誰かの気配があった。頭の中が真っ白になり、何ひとつ声を出せない代わりに薄暗闇の中、感覚だけは鋭敏になっていた。  誰かの吐息、間近に感じる体温。そこに誰かがいるのは明らかだった。しかしそれが建巳ではないことも早苗には分かっていた。  流れるコメントも何ひとつ文字が認識出来ない。ただ顔だけはカメラへ向けたままの状態で、早苗は視線のみを背後をゆっくりと移す。  ――目が、合った。  ただ真っ黒な影のようなその形の中、ニタリと笑う目の動きだけは明確に把握することが出来た。 「ひゃあぁぁああッ!!」  早苗の悲痛な叫び声と唯一の明かりであるルームライトが消え室内が真っ暗になったのはほぼ同時だった。

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