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#011 Marriage

 特に拒否する理由も無かったので、早苗は観月に促されるまま太郎の部屋へ向かう為椅子から立ち上がる。本当は建巳にも一緒に来て欲しかったが、まだ太郎に対して手を合わせているのかちらりと振り返っても和室の襖は閉まったままだった。  少なくとも同じ家の中にいるのだからそこまで過剰に不安になる必要はないと高鳴る心臓の鼓動を落ち着けながら先を歩く観月の後を着いていく。  観月が向かった先はやはり先程からずっと視線を向けていた奥まった廊下の先にある扉で、建巳が和室から出てきてすぐには死角になる場所だった。一歩進むごとに周囲が暗くなっていく気がして、その陰鬱さはまるで初めて早苗の前に姿を現した太郎の印象にも似ていた。  むき出しで無機質なコンクリート壁とは多少一線を画した重厚な扉、それは和室の襖から考えても多少異質なものに見えた。  扉が開かれたその部屋の内部は四畳半程度といったところか、仏壇のあった和室とほぼ同じ広さのように見えた。しかしほぼ真っ暗という表現がぴったりで薄ぼんやりと机や本棚の形は見えるのだが本の文字までは殆ど見えないというようなものだった。その薄暗さからかそこはかとなく眠気に襲われそうになった。 「暗くてすみません。カーテンを開けますのでどうぞ中へ」  観月に勧められて早苗は室内に足を踏み入れる。かさりと足元に紙のような質感があり、早苗は誤って書類か何かを踏んでしまったかと焦る。  カチャリと音がした後観月は暗闇の中足元の紙を踏みしめながら部屋の奥へと向かう。早苗は何故か言い表せぬ不安に襲われていた。やはり太郎の部屋を見ることに同意などしなければ良かったかもしれない。くらくらと頭がふらつき始め早苗はその場に膝から崩れ落ちる。 「さあご覧なさい、あの子の貴方への想いを」  その言葉と同時に観月は暗幕のように遮光率の高いカーテンを一気に開ける。西日が一気に射し込み思わず目が眩みそうだったが、いっそ目が眩んでしまって何も見えなければ少しはマシだったのかもしれない。  光が射し込むその部屋の中には写真、写真、写真、一面に写真があった。 「なっ……」  大きさは一般的な写真のサイズから少し大きなポスターサイズのものまで。床に散っていた紙だと思っていたものはB5サイズの紙に印刷された写真だった。  カーテン以外の全ての壁に写真が画鋲やテープで貼られており、天井を見上げても写真が貼り付けられていた。  そしてそのどれもが《翡翠メイ》の写真であった。  見覚えのあるSNSに載せた自撮り写真や生配信のスクリーンショット、ただその中には早苗には身に覚えのない写真もあった。しかしそれらも早苗であることは間違いなく、それがプライベートの早苗を盗撮したものであると気付いた時早苗からサアッと血の気が引いた。 「え、あの……多賀さん、これ……は?」  視界が徐々に不明瞭になっていく。明らかに常軌を逸した状況であるにも関わらずすぐに逃げ出す行動を早苗は起こせなかった。頭に白い靄が掛かっていくように意識を上手く保てず、早苗はその場に倒れ込む。 「あの子は貴方のことを何よりも愛してた。私もあの子が嬉しそうに貴方の話をしてくれるのを聞くのが嬉しかった」  観月の言葉ははっきり聞こえているのに、身体だけが上手く動かせない。早苗は一瞬睡眠薬か何かを盛られたことを考えたが、農薬を盛られたことから口にするものには細心の注意を払っていた。勧められた煎餅も食べる前には開封の形跡がないかを確認した上で食べたので、煎餅に何かが混入されたとは考え辛かった。  早苗は観月に肩を掴まれ転がされ仰向けになって天を見上げる。観月は目を細めながら早苗を見下ろし、両手をゆっくりと早苗の首へ伸ばす。その手はゾッとするほど冷たかった。 「ああ、貴方は本当に……可愛らしい。あの子が貴方を嫁に望む訳だ……」  首に伸ばされた手が徐々に早苗を締め上げていく。息を吸うことも吐くことも出来なくなっていき、抵抗しようと観月の服を掴むが掴むだけで力も碌に入らなかった。 「……たが、っさん」  苦しげに囁く早苗の頬にぽたりと水滴が落ちる。白い靄の掛かったぼやける視界を向けると、それは観月が零した涙だった。 「貴方の花嫁姿を見たかった。だけど、だけどあの子は死んでしまった――」  苦悶の表情を浮かべる早苗は酸欠状態に苦しみながら、それでもこのまま殺されてなるものかと出来る限りの力で観月を引き剥がそうと服を引く。 「だからもう、貴方をあの子の元へ送ってやるしか……ないんですよっ!」  観月の悲痛な声が反響する。  その瞬間、早苗は観月の肩越しの背後に――黒い影を見た。 「いッやぁぁぁあああッ!!」  火事場の馬鹿力とは正にこの事か、これまでにない力を振り絞った早苗は自分よりも体格の良い観月を払い除ける。 「ぐあっ……!」  早苗のような見るからにか弱い存在であっても男は男、振り払われた観月はそのまま本棚へ叩き付けられ、中に収められていた大量の本が雪崩のように観月へ降り注ぐ。  まだ頭のふらつきは残っていたが、早苗は喉元を押さえひとつ咳をすると少しでも早くこの部屋から出ようと紙に足を取られながらも扉へ向かう。これで漸く早苗は自らが抱えていた疑問に答えを出すことが出来た。  マンホールの件も、赤い封筒の件も、農薬が混入したバーガーの件も、そのどれもが観月による《翡翠メイ》を太郎の元へ送るための行為であったことを早苗は今漸く理解した。 「建巳さんっ……!」  和室にいるはずの建巳に声をかけながら扉のノブに手を掛ける。しかし何度ノブを回しても扉が開くことはなく、早苗は何故開かないのかと焦りを見せる。この部屋へ入った直後にカチャリと鍵か何かが掛けられる音がしたことを思い出した瞬間、早苗の身体は背後へ引き飛んだ。  何か太い紐のようなものが背後から首に巻き付けられ、早苗の頸動脈を絞め上げる。それを防ごうにも紐と喉の間に爪を割り込ませることも出来ず、ただ表面を爪先で引っ掻くことしか出来なかった。 「大丈夫、大丈夫だから……苦しいのは一瞬だから……」  観月はそう言いながら背後から紐を絞め上げる。もう声を出せるような余裕もなく、藻掻く足もただ足元の印刷された写真を蹴るばかりだった。  こんなことで終わるということが早苗には無念でならなかった。ようやく人の目を気にすることもなく生配信で自分を認めてくれる人と交流することが出来るようになってきたのに。可愛いものが好きでも何も恥じることはないと建巳やファンの皆が教えてくれたのに。 「……た、……み、さっ……」  自分がまだ上手く人と話せなかったから。突然現れた太郎にもちゃんと迷惑であることを伝えられなかったし、だからこそ太郎のストーキング行為を増長させてしまい、太郎を犯罪者にしてしまい死へと追いやってしまった。  建巳に初めて声を掛けられた時には驚いたけれど嬉しかった。最初は声が大きく派手な先輩だと思っていたけれど、少しずつ話してみれば自分が小さな頃に可愛いものが好きということを理由にからかわれたことも真剣に聞いてくれて、人の目を気にしなくてもいいということ、可愛いものを好きでも構わないという道を示してくれた。  少しずつ今から昔へ楽しかった記憶、辛かった記憶が蘇ってくる。これが走馬灯であるのだと早苗は気付く暇もなく、やがて必死に紐を解こうとしていた腕も力なくだらりと垂れ下がる。

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