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#010 Visitation

「……どうも、多賀です」  訪れたのは工業地帯の側にある公団住宅。どこかで工事をしているのか金属を打ち付けるような音や酷く重低音の轟音が絶えず鳴り響いていた。  あまり経済状況が良いとは思えない住まいだったが、訪れた早苗と建巳のふたりを迎えた観月はイケメンよりは美形に類する顔立ちをしていて、肩辺りまである伸びっ放しの髪も相成り酷く儚げに見えた。 「初めまして。ご連絡しました狭山と申します。こちらは――」 「あっあの、藤原……早苗、です」  早苗は建巳の後ろに隠れたまま建巳の服をずっと掴んでいたが、太郎の死には拒絶した自分にも責任の一端があると考え全てを任せきりにせず意を決して声を放つ。 「――ああ、あなたが《翡翠メイ》さんですね。存じてますよ」  観月はスチール製の重い扉を開いてふたりを招き入れる。表札には《多賀観月》と《工藤太郎》の名前が並んでおり、観月が太郎の親ではないらしいことは分かった。  室内はコンクリートむき出し状態の壁からそれとなく寒々しさを感じた。こういった場所は早苗よりも寧ろ建巳の方が物珍しさを感じており、これが住居として成り立っていることに驚きを隠せない様子で、観月の後に続きながらも小型のキッチンや何らかのシールのようなものが貼られている質感の床を観察するように眺めていた。  そして観月は襖の前で立ち止まると、引手に手を掛けて襖を開く。  窓から西日が射し込むその部屋には畳が敷かれており、西日を背面から受けながら小さな仏壇がそこにはあった。早苗が建巳の服を掴む力が強くなり、それに気付いた建巳は手を回して落ち着かせるように早苗の背中を撫でる。  仏壇の中央に掲げられていた写真は早苗と建巳の知る太郎そのものの姿であり、それが学生服を着用して正面を見ている写真であることから、学生時代の卒業アルバムか何かから引き伸ばされた写真であるということが分かった。  いつもまともに太郎の顔を見ることなど無かったが、写真を見てみると顔の右半面を大きな火傷のような痕が残っていた。どんな時でも顔を隠すように着用していた大きなマスクはこの痕を残す意味もあったのかと早苗は今になって理解する。  《翡翠メイ》の前に現れ付き纏い、早苗を怯えさせた太郎は間違いなく亡くなっているという事実がふたりの前に明確に突きつけられた現実だった。もしかしたら本当は太郎が生きていて早苗の命を狙っているのではないかという推測は打ち砕かれた。  建巳が手を合わせたいと観月に告げると、少し戻ったリビングで茶の用意をしていると言って観月は一度和室を後にする。観月が部屋を出るその瞬間早苗の顔は真っ青で小刻みに震えていた。  自分の拒絶が原因でひとりのファンを死に追いやったという事実は早苗の動揺を充分煽り、ふらりと倒れ掛かる早苗の身体を建巳は両肩を掴んで抱き留める。 「大丈夫か?」 「はい……」  早苗も咄嗟に建巳の腕を掴むが、お気に入りのジェルネイルもぼろぼろになったその指先は建巳の腕を掴みながらも未だに震えが止まらない様子だった。  早苗が責任を感じているであろうことは建巳から見ても明らかで、太郎の安らかな冥福を願うことを早苗にも強要することは出来なかった。元々連れてくるつもりはなく、それでも来ると言った早苗が振り絞った勇気だけでも充分だった。 「俺は少し手を合わせてから行くから、お前は多賀さんのところに行っときな」  自分にも太郎に手を合わせる義務はあるとして顔を上げる早苗だったが、視界の先にあった太郎の遺影が今も自分を睨みつけているように見えてしまい咄嗟に顔を反らしてしまう。  ここまでの頑張りを褒めてやりたいほど早苗はこれまでの自分から脱却する為に頑張っており、建巳はくるりと早苗の身体を反転させると和室から観月の待つリビングへ先に行けと背中を押す。  心残りはあったが、早苗が太郎の死を現実のこととして受け入れるにはまだ心の準備が必要で、背中を押されると少しよろけそうになりながらも襖に手を付きそろりと開ける。  光の射し込まないリビングは薄暗く、中央に置かれた木製テーブルの上で観月がサーバーからカップにコーヒーを注いでいるのが見えた。 「あ、あのぅ……」  早苗が呼びかける小さな声に気付いた観月は顔を上げ、力なくも優しげな笑みを浮かべると椅子が引かれている椅子への着席を促してきた。 「貴方は甘い物が好きだと太郎から聞いていたけれど買いに行く暇が無くてですね。こんなものですみませんが――」  観月は早苗の前にカップを置くとボウルに入れた個包装の煎餅を差し出す。 「いえ、お構いなく……」  確かに早苗は甘い物が大好きだったが、太郎が観月に《翡翠メイ》のことをどのように話していたのか分からず言い表せぬ不安が早苗を襲う。それでも農薬の混入から口に入れる物に対して極端に警戒心を抱いていた早苗にとっては透明な袋に個包装されている煎餅は何も異常がないということが目に見えて明らかであり、自分のせいで太郎を喪った観月の手前一枚でも手を出さない訳にはいかなかった。  そろりと手を出しながら煎餅を一枚取り、さり気なくその両面を見ながら封に異常がないことを確認する。まるで観月が何かをするかのような疑いをかけていることに気付いた早苗は探る手を止め、封を開けながら頭に浮かんだ疑問を口に出す。 「あの……」 「はい」 「多賀さん、は……太郎、さんのご親戚と聞いてますが。その……表札の苗字が違うみたいで……」 「ああ……」  早苗の向かい側へ座る不意に観月の表情が曇った気がした。その美貌も相まってその様子はさながら寡婦のようにも見えた。  観月は一度口元に手を置き何かを考えるように視線を横へ向けるが、やがて長い髪を掻き上げながらも視線はある一点の方向を見つめ続けていた。早苗にとっては観月と直接目を合わせないのは緊張もせず気が楽であったが、観月が視線を向け続けている先が気になり割った煎餅の欠片を口へ運びながら観月同様に視線をその方向へと向ける。その視線の先はリビングよりも更に薄暗くなっており、木製の扉があった。 「太郎――あの子は私の姉の子でして。私と姉、義兄も他に家族がいなくてですね、太郎が生まれた時は皆喜んだものです」  観月にとって姉は親代わりでもあり、その姉が義兄という生涯支え合える相手と出会えた時は心から嬉しかった。義兄は観月のことも家族の一員として迎えてくれて、太郎が生まれてからはこの世でたった四人だけの家族だった。 「あの子がまだ小さい頃…………私が居ない間に家が火事になって……」  気付いた時にはもう手遅れだった。奇跡的に助け出されたのは窓から放り投げられた幼い太郎だけで、姉と義兄は火事の鎮火後に焼死体で発見された。それでも姉と義兄は最後まで太郎だけは守ろうとしていたのだろうと思う。 「顔の火傷はその時に出来たものなのですよ。だけどその火傷のせいであの子は学校で随分虐められましてね」  かける言葉が見付からなかった。早苗も太郎の火傷痕には悍ましさを感じてしまったが、それは可愛いものが好きというだけで早苗が周りからからかわれてきたこと以上に苦痛を抱いたことだろう。  煎餅の欠片が乾いた喉元に張り付き、咄嗟に早苗はカップを手に取り淹れて貰ったコーヒーで流し込む。食べ物と同じく飲み物も甘い物を好む早苗にはコーヒーは少し苦く感じられたが、観月に対してミルクや砂糖を望むことは憚られた。 「私にとってはあの子がたったひとりの肉親でしたし、火傷なんか関係なかったんですがっ……あの子はどんどん内向的になっていって、次第に学校にも行かなくなり、部屋から出ることも少なくなりました」  先ほどから観月が視線を向けている先は太郎の部屋かもしれないと早苗は感じ始めていた。  建巳との出会いが早苗の人生を変えたが、建巳と出会えなければ早苗も太郎と同じようになっていたかもしれない。太郎の生い立ちを観月から聞き、知らなかった太郎のことを初めて知った早苗は自分が無闇に太郎を避け続けていたことが急に恥ずかしくなってきていた。 「そんなあの子が《翡翠メイ》さんの話を私にしてくれるようになって、昔みたいに楽しそうに話してくれるあの子の顔がっ……嬉しく、て……」  言葉の語尾は涙で震え、観月は指先で目元に浮かぶ涙を拭っていた。しかしそれでは堪えきれぬものが込み上がり、観月は一度目元を押さえて早苗から顔を背ける。  早苗は後悔に押し潰されそうだった。太郎の母親の弟ということは年齢から少なく見積もっても四十歳は越えているだろうが、親にも近い年齢の男性が肩を震わせ涙を堪える姿は早苗にこれまでにない罪悪感を植え付けた。  長い時間観月の啜り泣く声が聞こえ、緊張が頂点に達した早苗はどうすることも出来ず拳を両膝の上に置いて青くなっていた。 「――翡翠さん」 「はっはい」  突然名前を呼ばれ、早苗は慌てて顔を上げて返事をする。 「あの子がどれだけ貴方のことを好きだったか、あの子の部屋を一度見てやってくれませんか?」 「え、あ、……はい」  早苗の視線は自然と観月が見ていた扉へと向かう。

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