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第1話
写眞の中には一組の新郎新婦の姿がある。
ぎこちなく寄り添う二人は何方 も昏い相貌をしており、白無垢の新婦は何かを凝 っと堪 え、傍らに立つ軍服の新郎には確實 な覚悟が窺える。幸福の象徴たるべき初々しい夫妻の姿が不吉に滲むさまは、一葉の写眞に封じ込められた彼等の面持ちが、多少の陰鬱を伴って、ひどく他人行儀に見えるからであって、将来の行く末を暗示しているものではない。
さて、その写眞に就いて注釈して置かねばならぬことがある。前述した「新婦」は男性であり、彼等は運命の番 い──世間 で最も尊く、麗しく、名誉ある者たちである。
互いに望んだ婚姻ではなかったと云う。新婦にとっては歳の離れた弟のために承諾したことであり、新郎にとっては家名のためであった。如何なる事情であれ、彼等が運命であったことに相違ない。
自身よりも優秀な弟が、より善い環境で暮らすこと。
後継を求め、没落を免れ、栄華を望むこと。
新婦は弟の幸福のみを希求し、新郎は家名を希求した。
彼等の共通項は自己犠牲にある。その絆だけが仮初の婚姻を繋ぐ一条の光であり、運命に翻弄されてもなお、彼等は夫々 の幸福のために、夫々 の選択をした。その合致が婚姻という結果であった丈 のことである。
肉体的に幾らか成熟したに過ぎぬ歳若い彼等が、番いという運命の桎梏 に従順であるのは、本能それ許 りでなく、精神の裡 は未熟たる証左ではなかろうか。このほろ苦い青臭さ、神秘的な危うさの、なんたる美しく、愚かたるや──。
彼等は望むと望まざるとに関わらず、唯一の運命であり、無二の番 いなのであった。
一
ある夏の夜のことである。
昼は茹だるほどの暑気だというのに、夜になると虫の音も物哀しく、夜風には微かな秋の気配が漂う。それでもほんのり汗ばむほどには蒸している。そんな暮夜 であった。
男は煙草に火を付けた。少し酔いを醒まそうと料亭から表へ出て来たのである。この時期の湿気た煙草ほど不味いものはない。街灯を囲む蛾の翅音も、夜闇に薄く伸びる紫煙も、夏の夜を反復する都会の情景である。
ふと背筋に慄然 とした悪寒が走った。射るような眼差し、それでいて蛇の腹が皮膚を這うようなじっとりとした眼差しは、気味が悪いとも、不可思議とも云える。
視線を感じた先へ目を向ける。女が立っていた。夜更けだというのに白い日傘を差し、派手な着物ではないが、小綺麗にしていて、薄い白粉 でも深紅の口紅で娼婦だとわかる。それに、とびきりの美人だとも。
男は灯りに群がる蛾のように、蹌踉 と女の方へ吸い寄せられて行った──。
「──そして、一年と経たぬうちに出世したと」
部屋の中に哄 と笑い声が満ちた。怪談を装った与太話である。
芸妓の一人が男にぴったりと寄り添い、酒を注ぎながら尋ねた。
「なアに、それじゃ、その女の幽霊と懇 ろになって了 えば、出世なさるというの」
「そういうことだ」
「幽霊に閨事が務まるのか知ら」
煌びやかな芸妓たちの笑い声は鈴鳴りのようにさざめき、男たちも機嫌よく笑う。
部下の一人が黒い瞳を爛々と輝かせ、期待を込めてこう尋ねた。
「その女、今も居るのでありますか」
「さあ。私はお目に掛かったことがないのだ。なんでも、幽霊の方は若い男が好みらしい」
「まア。私なら、女の扱いに長けた、大人の殿方が好 いわア」
芸妓が態 と甘えて撓 垂れる。再び笑いが起き、男はいっそう上機嫌で酒を呷 った。
高官に諂 う部下と芸妓たち。日頃の鬱憤を晴らすように酒を浴び、女に興じ、豪快に遊ぶ。それが彼らの夜の顔である。
「ああ、君、君。車を呼び給 え」
「かしこまりました」
男が、部屋の隅で寂然 と控えていた年若い部下にそう命じ、その夜はお開きになる。そのまま宿泊する者もあれば、自宅なり妾宅なりへ帰る者、カフェー等で呑み直そうとする者、後で芸妓と逢引する者、三々五々と散りゆく。
若い将校は最後の一人を車まで見送ると、密 と息を吐いた。解放感に満足して伸びを一つ。夜の生ぬるい空気を吸い込み、小さく吐く。静かに、細く、長く。
「貴方、未だお呑みに成る?」
背後からの声に愕然 として振り向けば、先ほどの芸妓である。絽の帯に柄は桔梗、色合いは涼やかだが、品の良い艶かしさを感じさせるお仕立てである。
女は赤い口紅から白い歯を覗かせ、婉然と微笑んで見せた。
「お偉いさんの前で石みたいに動かないんだもの。呑み足りないでしょう?」
「否 、職務でありますから……」
「まア、ご立派だこと。でも、どうせ貴方も早晩 偉くなって、屹度 今夜みたいなことになるんですよ。あるふぁさまはみんなそう。貴方も、此の世の一切 がご自分の所有 だと思ってるんじゃなくて?」
「そのようなことは……」
「妾 のこともどうにかなさりたいなら、部屋へいらっしゃい。お偉いさんには黙っておいてあげる」
彼女は一寸 揶揄う積もりでそう云った。自分が懸命にその場を盛り上げて遣 って居るというのに、彼は沈黙 して酒にも料理にも些少 手を付けない。高官がいる宴席で陰気臭いのはお断りだ。そう思って、彼の懐に密 と名刺を滑り込ませた。
「妾 は持たざる者ですから、ご安心なさるといいわ」
男の指先に彼女のそれが触れる。女は指先の煙草を奪い、妖艶な微笑とやわらかな香の匂いを残し、優雅に去って行った。
勝気なところも彼女の魅力のひとつであるが、舞踊も話術も見事なもので、芸妓として生まれついたのだと云っても差し支えない。心根には芯があり、淑やかさも艶やかさも内包する、男が理想とする芸妓、男が理想とする女の具象、それが彼 の芸妓──ゆめ菊であった。彼女から直々にお声が掛かろうものなら、男として乗らぬは恥である。
然し、男にはこれを恥と思うだけの意気地がなかった。彼はいつまでも運命を夢想していた。有体に云って了 えば、喩え格上の上玉でも食指が動かぬのである。
何かが小さく爆ぜる音と共に街灯が瞬く。一匹の蛾が無惨にも落下した、かと思えば持ち直し、四枚の重い翅を再びばたつかせ、塵のような鱗粉を無闇に振り撒きながら空 を彷徨った。
若者は再び煙草を取り出し、火を付けた。その幽かな蛍火が暗闇に寂然 と浮かぶ。
礑 と視線に気が付いた。その先には女がいる。幻影のような、白く茫洋とした女である。そして、この匂い──。
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