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第2話

 近代化の産声は、何に於いても西洋、西洋の一ツ覚えであった。  洋装に洋食、礼儀作法、文化芸術、建築物、政治、社会規範から生活様式に至るまでが眩惑(めまぐ)るしく西洋に侵食された。他方、法治国家として殖産興業に励み、軍人を育成し、公共事業や鉄道事業を整備し、社会の効率化を図り、生活の利便性を向上させた。世間(よのなか)では前者を文明開花と呼び、後者を富国強兵と呼ぶ。こうして帝国が苛烈なまでに近代化を推進した由は、(ひとえ)に列強への強大な劣等感(コンプレックス)と国家的危機感に依る焦慮であった。  ところが模倣の連続による近代化も、こと第二性に関しては旧態依然の伝統的価値観が連綿と続いていた。  東洋では第二性であるアルファを「天上」、オメガを「天下」と呼び、ベータを「持たざる者」と呼んだ。古来より自然信仰を基礎(いしずえ)とし、繁栄と豊穣を信仰してきたこの帝国は、夙に男性の天下(オメガ)を重宝した。東洋の天下(オメガ)は稀少価値が高く、就中(なかんずく)男性の天下(オメガ)は更なる稀少を極め、彼等の男性性に於いて絶対的な種子を持ちながら宿し、育み、産むという奇跡と倒錯──。男尊女卑の精神文化も相俟って男性の天下(オメガ)を神格化したのだと伝承される。  封建社会、家父長制度、男尊女卑、第二の性。これらが複雑に絡み合い、今日(こんにち)までこの帝国が在る。      ◇  大通りの裏路地を一目散に駆けて往く小さな姿がある。軽快な下駄の音が砂埃と共に舞い、粗末な家目掛けて飛び込んだ。 「兄ちゃん、ただいま!」 「おかえり、千洋(ちひろ)」  少年は手拭いで(さっ)と足を拭い、草臥(くたびれ)た風呂敷包を放り投げ、燐寸箱に手を伸ばした。小さな手は器用に小箱を組み立て、糊を付ける。街中で見慣れた姿が次々と積み上がっていく。小さな手が職人のような手捌きで箱を組み立てていくさまを、(かたわら)の兄が良しと思うには多少複雑過ぎた。兄が冷ややかに「勉強は」と問えば、弟は殊勝な顔で「後でやる」と応える。呑気なものである。呑気であれば()かったが、少年は家計を助ける()くしていることであって、元来少年というものは()く学び()く遊ぶ可き生き物であるという持論が、学の無いこの兄にも備わっていた。 「手伝いはいいから、勉強しなさい」  兄は二言目には「お前はおれと違って優秀なんだ。学校へ行って、うんと勉強しなくちゃ」と説くので、弟は辟易して兄を眺めた。兄は繕い物の内職が絶えると、夜のうちに家を忍び出て働きに行く。弟は仔細を知らない。ただ伯母の手伝いをしていると聞かされているだけで、仔細は知らぬくせに自らが知る可きところではないということはだけは端然(きちん)と心得ており、兄を困惑させぬことに苦心していた。 「兄ちゃんこそ、今夜も行くんだろ」  不貞腐れたような、簡素なその一言が兄の胸を抉ぐる。兄は取り繕った薄ら笑いを浮かべて詫びるが、この聡い弟の前では全てが明晰であるように思われた。(いっそ)詰られた方が幾らか気楽であった。長兄として、両親亡き今は家長として、弟を眼に見えぬ力で制圧することが出来るうちに。  併して弟の幼い唇から溢れる言葉は「家のことは心配するな」という訓戒めいた、潔癖なまでの信頼と誠実を併合したものであった。それを聞いた兄は目に湛えた涙を気取られぬよう、ぼそぼそと礼を云うに留めた。  兄弟は幼くして母親を喪い、七年前には父親を喪った。兄の千晴(ちはる)は十七歳、千洋(ちひろ)は僅か二歳であった。  父親は軍事工場で働く職工であった。金属を加工していると聞いたことあるから、鋳物を製作していたのではないかと思われる。当時は軍需に沸いた時期で、朝から晩まで休みなく働き詰めであった。生真面目な性格は職工としては重宝するが、工員としては到底続かないだろうと思われた。母親は病気がちで、肋膜炎を患ってからは臥すことが増えた。千晴は母親に教わりながら繕い物の内職を手伝い、彼の針仕事の手腕はそのまま母親の形見と成って了った。  千晴は生活のため、しばしば夜の仕事に出掛けた。伯母の手伝いで雑用をしているのだと弟を騙し、彼が寝入るのを見届けてから出掛ける。内職を掛け持ちする許りでは育ち盛りの弟を養うには到底足りず、又生活のために伯母から借金もしていた。彼の夜の仕事は、料亭帰りの酔客を狙い、春をひさぐことである。部屋は銘酒屋の伯母が貸し与え、身支度のこと等は店の娼妓たちのお下がりを拝借した。金が足りないときにだけ立つので、馴染みの客はいない。 「ごめんください」  千晴が伯母の銘酒屋を尋ねると、恰幅の好い婦人が厨から顔を覗かせる。甥の顔を見るなり破顔し、手招きをして食卓へ座らせた。彼女はこの甥をいっとう可愛がった。空腹では勤めに支障が出ると云って、先ずは軽く食事をさせるのである。朝になって千晴が帰るときには必ず「お前だけ食べさせたのでは千洋に悪い」と握り飯を持たせた。 「姐さんたち、みんな出ちゃったの」 「うん。今宵(こんや)は客が多くてね。有難いことだよ」  麦飯に漬物、夕餉の残りであろう汁物を有難く掻き込み、千晴は早々に身支度を始めた。伯母の家には風呂に似せた簡易の洗い場があり、伯母の手を借りて大きな盥で(さっ)と身を清めて了う。 「あんまり無理しないどくれよ。近頃はお巡りが煩いのなんのって」 「わかってるって。上手くやるよ」 「そういう油断が身の危険を招くんだよ。用心しなさい」  千晴は子供の時分と変わらぬ間の抜けた、幼稚な返事をした。年寄りの小言を躱し、匇卒(そそくさ)と支度を続ける。女装にも慣れたものだが、仕上げはまだ伯母に甘えていた。  千晴は客からの代金を伯母と整然(きっちり)折半することに固執した。伯母から寄越せとも、貸した金を返せとも云われない。ただ千晴が本望としてやっていることであって、そこに伯母の本懐が介入することを拒んだ。故に体を売ることも彼自身が希望し、得心して売るのであって、この商売を厭とは思わない。否、そういった類の思考は放擲しているのだが、彼自身がそれを認めない。髪を結い、帯を締め、化粧を施すあいだ、それら思考の一葉が幾重にも重なり、或るときは散り、或るときは堆積するのに淹悶(うんざり)した。  両親亡き後、伯母は千晴と千洋に何かと目を掛け、彼是(あれこれ)と世話を焼いて呉れたのだし、彼等の事情にも同情と理解を示して呉れた。伯母は貰い子の父とは血の繋がらない姉弟であったが、産婆として奔走する母親を手伝い、又母親の代わりに三人の弟妹(きょうだい)を世話しながら家を切り盛りしていたので、面倒見の良さというものが生来染み付いている。故に千晴は伯母の愛情深さを真似て自分の意志で惜しみなくこの肉体を使い、その対価を伯母に与え、弟に使うことに、何の躊躇も遠慮もない。  身支度の最後に紅を引く。この瞬間、千晴は千晴ではなくなる。鏡台に移る女に化けたは、千晴であって千晴ではない。夜に融けるには輝かしく、華やかならぬ儚さ、妙に大人びた相貌に若い肉体を隠し持つ、有り触れた娼婦であった。 「美人だよ。男が放っておかないね」  伯母は千晴の帯を気にしいしい、可愛い甥を送り出した。  千晴は成丈(なるたけ)身元が割れないよう女装をし、偽名を使う。狙うなら若い男が好い。年寄りは不可(いけ)ない。羽振りは良いが、馴染みに成ると妾に成れと口説いてくる。若い男であれば、部屋を暗くして着物のまま事に及んでも、経験が浅いか、或いは全くない所為(せい)で、運が良ければ女の儘でやり過ごせた。男であることが露呈したところで、千晴であれば手玉にとることが出来る。持たざる者には天下の匂いが判らない。千晴は発情期はあってもその匂いを発することがなかった。(いや)、実は一度あったのだ。ただ其限(それきり)、千晴の匂いを嗅げる天上人は現れなかった。  十七の時から幾度となく身を売った。恐怖も苦痛も飼い慣らし、獲得した経験(もの)が千晴にはある。弟のためを思えば、何も惨苦許りではない。

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