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第3話

 今宵(こんや)()の人が()()うだと当たりを着け、千晴は薄暗い路地の角から(そっ)と様子を伺っていた。併し青年の袖に引ッ付く芸妓が邪魔で仕方ない。これは万一(ひょっと)すると駄目かも知れない。そんな泣き言が千晴の(うち)を掠めたが、一度立つと()めたのだからと意地を張った。夜は長く、短い。彼女が離れたとき、それでも()の人が残っていたならば、御縁と思って待ってみることにした。  男が千晴に気付く。  目が合う。  火花が瞬いた気がした。肉体は緩やかに熱を帯び、拍動が胸を打ち、千春の小さな胸は偶発的な啓示に暴れ苦しみはじめた。呼吸は(せわ)しく成り、ねっとりと重い唾を嚥下する。朱い唇は震え、喉奥から掠れた声が漏れた。  ──不可(いけ)ない、()の人は不可ない。  残った理性が躍起に成って警告する。本能が彼の男を求めている。胎が疼き、呼吸が乱れる。肉体が彼の雄を欲している。餓えを満たす肉と渇きを潤す葡萄酒のような雄を。 「だめ……っ!」  男と一定の間合いを保持すべく發した言葉は、無惨にも踏み散らされた。彼の(いかめ)しい軍靴より生まれたる哀願の花の、一片(ひとひら)の屍体。次に踏みつけられるのは千晴であった。果たして軍靴の男は迫り来る。千晴の芳醇な甘い匂いを求め、獣のように交合することのみを望み、千晴の所有(もの)である筈の肉体を我が物とし、服従させ、種を植え付ける。僅少(わずか)先の未来の恐怖と絶望とが千晴を戦慄せしめた。震える体を抱きすくめ、(やっと)の思いで一歩後退する。脳裡は(しきり)に警告と警鐘を繰り返していた。は二度とあっては成らないのだ。 「──すみません、」  男が千晴に呼び掛ける。声色さえもが千晴を魅了し、背筋が甘く(ざわ)めく。  悉皆(すっかり)怯え切った千晴は弾かれたようにその場を駆け出した。(うなじ)を押さえ、狭い路地を巧みに駆け抜ける。立て掛けてあった箒を蹴飛ばし、残飯を漁る乞食を押し退ける。驚いた猫が威嚇の声を上げて逃げ去る。飲食店のものと思しき(ごみ)溜めに躊躇なく手を突っ込み、腐敗した汚物を髪や肌に塗り、着物を汚した。漆の草履の片方が失われたことにはまだ気付いていなかった。千晴は今、この窮地を回避する行為、思考にのみ生かされていた。  暁闇の中、這這(ほうぼう)(てい)で銘酒屋へ帰着することが叶った。異臭を放ち、着物は崩れ、振り乱した髪は何とも穢らしく、伯母は彼女が貧民の物乞いでなければ、訳有りの娘だろうと思った。併し能々(よくよく)眼を凝らしてみれば、その娘は彼女が送り出した可愛い甥の、変わり果てた姿であった。必定(てっきり)暴漢に襲われたのだと早合点した伯母は、様々な悪態や呪詛を吐きながら千晴の風呂の世話をし、彼を生まれたままの清らかな姿へ還した。着物は何の迷いもなく処分したが、失くした日傘だけは惜しがった。千晴の母の形見であったのだ。 「お母さんが守ってくれたと思って、新しいものを買えばいいさ。薬は飲んだかい」 「うん。ごめん、また迷惑掛けて……」 「何が迷惑なもんか」  伯母は千洋の世話を買って出て、寝付かれずぐずる子供にそうするように何も心配要らないと千晴の頭を撫でた。千晴の双眸からは感謝と自責とが溢れ、黙って首肯するしか出来ない。無言の愛情と真心が二つの善良な魂を包み込む。自然、母親の姿が重なる。  伯母は千晴の母親が臥せると、夫の目を盗んで看病に出向き、飯炊(めしたき)を手伝い、千晴が甘えれば存分に甘えさせ、又近所の子供を殴って泣かせたと聞けば真剣に叱責した。伯母は千晴のもう一人の母親に相違ないのである。 「全部、おばちゃんに任しときな」  熱の残る額を伯母の皺だらけの手が撫ぜる。その仄かなぬくもりは千晴の心の奥深くに根を張る記憶の一ツを呼び覚ました。決して忘却できぬ、あの瞬間、あの痛みと苦しみ、あの喜びと悲しみ。あの日も伯母は同様のことを云って千春の額を撫でた。苦労の滲む手である。その苦労は彼女の善良なる精神から他者への慈愛に変化する。    産婆であった伯母の母は、お産があると何処へでも駆け付けた。伯母は留守がちな母親に代わって妹や弟の世話をし、家事に奔走し、家を守った。長ずるにつれ、そのことが彼女を倦ませもし、強くもした。教師が「あの()は勉強が出来るから、学校へやって欲しい」と説きに訪ねて来ても、父親は女に学は不要であると聞く耳を持たなかった。二言目にはいずれ嫁にと云うが、彼女が嫁に行ったとして、誰が家のことをするのだろう。幼い妹弟はどうなるのだろう。腕の良い母は時には隣町まで駆け付ける。精魂尽き果てて帰宅し、漸と寝入った頃にまたお産で呼び付けられることも平素(しょっちゅう)あった。母を休ませることも、飯炊も洗濯も、妹弟の面倒も、すべては彼女の手に委ねられ、彼女の采配一ツで万事(すべて)が動くのだ。そう考えることは彼女を漲らせた。彼女は立派にもう一人の母親であった。父母が働きに出るのは仕事があることの証明であり、母親になることが彼女の仕事の証明であった。そして仕事を持つということは、一人前の大人に成るということである。伯母は子供でいることより、大人であることを選んだ。  伯母は千晴の瞼が固く閉ざされるのを見届け、(そっ)と出掛けて行った。  千晴はまだ寝就いてはおらなかった。精神が弱っているときいつもそうするように、仮定を空想した。千洋も伯母に預けて入れば、些か乱暴な性格も更生しただろうか。千洋は兄思いのやさしい子だが、それ以外を寄せ付けようとしない。学校が合わないか知れない。学友と上手くやっているのか、抑々(そもそも)そのような存在すら高望みだと云うのか。千洋からは学校の話を些少(ちっとも)聞かない。自分が学校に通ったことがないために、困り事を相談しても頭を悩ませるに決まっていると口を閉ざすのだろうか。小さな弟の失望と落胆が千晴には堪える。  弟のこと許り考え、千晴は(やが)て眠りに就いた。

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