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第4話
千晴は昼には銘酒屋から伯母の棲家へ移った。十数年前は小料理屋の後妻であった伯母が、夫と死別してから独居しているこぢんまりとした寂しい家である。夫の小料理屋は土地柄、私娼を幾つか抱えていた。先妻との間に成人した一人息子がいたが、後継を厭がったうえに相続に就いても他力本願で、結局伯母が遺産整理や相続手続きに奔走する羽目に成った。最後の最後まで伯母は夫に酷使され奉仕せねば成らぬ運命にあったのだが、唯一の僥倖はこの道楽息子が親族連中から彼女を擁護したことである。
息子曰く、うちは名家というでも無し、唯の庶民であるから、家のことは義母の好きにすればよい。我が父ながら好き放題に生きて、義母もどれだけ苦労させられたか知れない、と義母の不憫を嘆き、未亡人と成った行末を憂慮し、僅か許りの遺産のおこぼれに与ろうとする卑しい親族から彼女を遠去けた。大した苦労もせず育ち、父親の血を継いで放蕩生活であったが、物事の分別は了解していたらしかった。
伯母は息子の承諾を得て小料理屋を畳み、下町に移って銘酒屋を開業した。小料理屋を去る娼妓もあれば頼る娼妓もあり、乏しい資金から伝手を頼って出来たのがこの銘酒屋「ペタル」、花弁 の意である。彩色硝子 の小さな飾り窓が店の目印 で、店名は息子が命名した。
伯母はペタルで頭角を現していった。嘗ての産婆の手腕と知識、生来の面倒見の良さが彼女を助け、近隣の娼妓から頼られるようになると、店は肥えた。お陰で息子は毎月十分な仕送りを貰い、月に一二度飄然 と訪れては遊んで帰る。然し乍ら店の女たちはお母さんの息子の相手は流石に厭がるので、精々酌をしてお喋りに興じるか呑み歩くのに付き合う程度で、遊びは他でやる。千晴が伯母との同居や援助を拒む背景には、この一人息子への遠慮があった。
「あの子、三つも平らげたんだよ。そりゃあんたも苦労するね」
伯母は半ば呆れたように今朝の千洋の大飯食らいを笑った。伯母が学校へと追い立てなければいつまでも握り飯を所望したか知れない。
「近頃お米なんて食べさせてやれなかったもん」
粥を平らげた千晴は伯母が差し出す薬を嚥下した。伯母が母親の代から懇意にしている薬問屋のもので、ここのものがいっとうよく効くのだと常備しているのだった。他には堕胎薬だの性病に効く薬だの、女性や天下 に欠かせない薬から解熱剤や催眠剤、滋養剤まで揃え、近隣に融通してやっていた。無論、表向きは銘酒屋であるから、伯母も住民も皆心得ている。
「千洋には、学校が終わったら真っ直ぐ家 へ来るよう云ってあるからね。夕餉 はここで食べればいい。栄養付けていかんとね」
伯母が千晴の好物の魚の煮しめたものを作ると云うと、千晴は子供の時分と変わらぬ幼い顔をして満面の笑みを向けた。伯母がこの手で取り上げたときから変わらぬ愛らしく懐っこい相貌 である。伯母の方が懐かしくなって、買い出しに出掛ける間際、千晴の頭を撫ぜた。母親譲りの整った顔立ちに、髪は父親に似て色が薄い。髪を伸ばしたと思ったら何の相談もなしに春をひさぎ始め、立ちんぼをさせるくらいならと部屋を貸した。夫がもう少し早く死んでいれば兄弟を引き取ることが出来ただろうに、彼女は今でもそのことを悔やみ、怨んでいる。後妻と云っても老男の世話をし、店の切り盛りに酷使させられるだけの存在だった。娘時代の使命感や正義感に燃えることもなく、彼女もある点に於いては搾取に疲弊した女性であった。
むずがる幼児を寝かし付けることは彼女の得意であった。千晴の呼吸と彼女の掌のやわらかい誘 いが静かに同調してゆく。懐かしい午睡 が完成する。
溌溂とした男児の声が鼓膜を擽った。千晴は快い微睡の中を引き摺り出され、大義そうに瞬きを二三して、瞭然 と覚醒した。千洋は玄関口から懸命に留守を問い、返事がないのを訝しがって勝手に上がって来ていたのだった。
「あのう。ごめんください」
「千洋、こっち。おかえり」
僅かに身を起こし、弟を呼び寄せる。
軽やかな足音が迫り、勢いよく襖が開かれた。
「兄ちゃん! ただいま」
千洋は嬉々として兄に飛びつき、珍しく甘え縋った。
「体は? 大丈夫?」
「うん。もう熱は下がった。心配かけてごめんな」
まだ柔らかさの残る小さな体を抱き締め、愛おしくて堪らないと云った具合に頬を擦り寄せる。千洋は擽ったさと照れ臭さに笑い声を高く放った。
千晴はこの一瞬 を至福としている。些少 な幸福が永劫続けばよいと平生 願っていた。
千洋の汗に滲む幼い黒髪を撫でると、手には僅かに泥が付着した。能 く見れば小さくか細い腕や足には染みのような青痣が貼り付いている。
「千洋……。これ、どうしたの」
「これ? 今日、川に行って、転んだ」
「川遊びか? 危ないことしてないだろうな?」
「してねえよ。なんだよ、自分は熱でぶっ倒れて、一晩帰って来なかったくせにさ」
そう非難されれば胸の奥が痛む。千晴はただ小さくなって詫びることしか出来ない。謝罪の抱擁を素直に受け入れてくれる弟に安堵しつつ、大人びた言葉には寂寞を感じる。両腕にすっぽり収まった筈の赤子が少しずつ大きくなる。無事に育ったことはたいへん喜ばしく、これからの成長が楽しみであるというのに、彼のこういった類の老成した発言や振る舞いが、彼が急いて大人になろうとしているのではあるまいかと疑義を持って了 う。疑義は彼の親心と寂しさから生まれたに過ぎぬ。
「兄ちゃん、苦しいよ」
千洋は腕を突っ張った。もう子供じゃねえんだからな、と笑った。
そのうち伯母が帰宅した。羊羹を切って遣ろうと云われ、千洋は歓声と共に狭い居間を走り回る。それを千晴が諌め、見兼ねた伯母が声を張った。
「千洋! 兄ちゃんに大きな声出させるんじゃないよ! 千晴は熱が下がるまで寝てなさい! 千洋は勉強!」
不承不承、二人は揃って返事をする。伯母に掛かれば二人は子供同然であった。千洋は齢九つの正真正銘の子供だが、もう二十歳 を過ぎた千晴は弟と一緒に叱責されるのは些か罰が悪い。
千晴は大人しく横に成り、和綴の古びた本を読む千洋を眺めた。
「何の本?」
「御伽噺だよ。作文を書くんだって」
「そう。えらいね」
「別に偉かないよ」
つまんねえもん、という言葉を千洋は飲み込んだ。
真実、彼は退屈していた。勉強なぞせずとも学業には不足なく、寧ろ周囲の生徒の不出来の方が彼には難解であった。彼等の中には算術はおろか、平仮名や漢字の書き取りすら危うい者もいる。千洋を貧乏の子だの親なし子だのと云って突っかかる者もあり、教室では平常 孤立していた。そのことは一向に構わぬが、理不尽な暴力や干渉は小さな彼の裡 に漠然と広がる立派な矜持が許さぬのであった。
それでも辛抱して通うのは、兄のためである。沢山 勉強し、一等優良の学校へ入学し、稼ぎのよい立派な仕事を見つける。そうすれば兄に楽をさせてやれるのだ。
そう頭では判っていても、今このときを苦労している兄を見ると、千洋は遣瀬ない気持ちに成った。
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