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第9話
千晴が肌に伝わる汗と息の詰まる苦しさにはっと目を覚ますと、見知らぬ老婆が額に濡れた手拭いを与えていた。乾涸びた皮膚の、甲斐甲斐しい手付きに驚愕と不快感とが千晴の発声を奪った。金縛りに遭ったように身動 ぐことさえ出来なかったが、老婆は皺を深めて和 かに微笑をくれる。然りとて憶えのない顔である。
老婆は床に手を付き、整然と結われた白髪頭を深々と下げた。
「檜原 と申します。坊っちゃまの命で、半月ほど前から、こちらでご奉公させていただいております」
枯れた声に深みのあるさまが、生来の品を匂わせる。檜原は薄化粧を施し、紅を引いていた。齢六十は超えているものと思われる。老いて尚、身綺麗であることが使命かのように、着物も結髪も古風ながら乱れなく、すべてが質素で、端然 としていた。ただ年相応とは云えぬ紅だけが彼女の唯一の女らしさ、贅沢の象徴であるように思われた。
檜原は水差しから清らかな水を、千晴の色の失った唇へ与えようとしたが、嚥下されることなく、なだらかに溢れ落ちてゆく。役目を果たした水差しは大人しく朱塗りの盆へ帰っていった。
「もう暫く致しましたら、千洋様がお帰りになりましょう。千洋様は、千晴様のご心配ばかりなさって、私 が来た当初は、膳に手を付けることもなさらず、それはそれはお痛わしゅうございました」
檜原の噛み含めるような、諭すような語り口は、凡そ半月ぶりに覚醒した千晴の脳髄に染みのように拡がった。半月もの間、自分は昏昏と眠り続けていたというのか。半月もの間、千洋をひとりぼっちにしていたというのか。
「……ち、ちひ、ろ…………」
「ええ。さあ、千洋様がお帰りになる前に、お体を清めてしまいましょう」
千晴はされるがままに身を起こすと、頭痛に顔を顰めた。能面のように張り付いた相貌にひび割れが走るような、不愉快な感覚であった。唇は乾き、肉体は衰え、制御し難く、檜原の白粉と香の匂いに自身の体臭が混じる。その臭いに反応できるほど、彼の表情には余力がなかった。
檜原は年の割に剛力と見え、千晴の身体を支えつつ、手際よく清拭していく。この半月のことを予め用意してあったかの如く、淡々と語り始めた。
「私 は坊っちゃまがお小さいときから身の回りのお世話をさせていただいておりました。今は隠居いたしまして、坊っちゃまがお小さい頃お住まいだった別宅を夫婦で管理させていただいております。先日、夜分に坊っちゃまがお見えになりまして……こういったことはこれ迄一度もございませんでしたから、夫と二人、これは只事ではないと思い、お話を伺って、すぐに此方へ馳せ参じたのでございます。檜原はこうしてまたお坊っちゃまにお仕えできて嬉しゅうございますよ」
檜原の黄色く濁った目は清らかな涙に潤んでいた。
「はじめ、千洋様はわたしくを警戒なさって、家に上げていただけませんでした。けれど夜も深く、雨は降り続いておりましたから、御慈悲を頂いて、招いて頂いたのです。飯炊きをいたしましてもお手を付けていただけませんでしたが、お兄様を想うお気持ちがあるなら、少しでも召し上がって、どうかお兄様のために丈夫であって頂きたいとお願いいたしましたら、ようやっと召し上がってくださいました。千洋様はほんとうにおやさしい、忠に篤い方でございます。坊っちゃまのお小さいころを思い出して、なんだかまたあの頃の坊ちゃまにお逢いできた気がして、き ぬ は果報者でございます……。さ、千晴様、どうぞお召し替えくださいませ」
千晴は糊の効いた上等な浴衣をされるがままに身に付けさせられた。自ら望まず、ただ抵抗する気力もなく、老婆の語る寝物語のようなこれまでの経緯 に頭を働かせる一方で、散り散りになっていた思考は徐々に形となっていく。
「伯母様も何度かお見舞いに来てくださいました。人払いを致しまして、私と二人で千晴様の御髪やお体を清めましてございます。伯母様は、何やら坊っちゃまとお話なさったようでございますが、ご面会は外でなさったものですから、あいにく私は存じ上げません……。ご安心くださいませ。檜原はこうしておしゃべりが過ぎますけれども、秘事は決して漏らしません。坊っちゃまは口の堅い、忠義者に信を置かれますゆえ、私どもも、夫と二人、それはそれは大切にお誓い申し上げてまいりました。坊っちゃまが秘匿なさることは隠し通しますし、千晴様が秘匿なさることもまた、どなた様にも申し伝えることはございません。喩えそれが、坊っちゃまであっても……。それが私の──私ども夫妻の、今世最後の務めにございます」
千晴は黙って燭台の薄明かりを眺めた。眩しかった小さな灯火も次第に馴れ、変わり果てた我が家の姿が浮かび上がる。辺りを見回しても、慎ましい貧乏暮らしの生活は幾らか消え失せてしまった。鍋ひとつ、椀ひとつにも愛着あるものはなく、清掃は行き届き、修繕され、寝具も寝巻きも上等なものになっている。衣桁に掛けられた着物も見知らぬもので、それがただ千晴の寝所を仕切るためだけに飾られていることに甚だ不愉快を覚えた。そもそもこの家にあった衣桁は、母の死後に泣く泣く売って了ったのだった。したがって今千晴の目前にある立派な衣桁は全くの他人であり、図々しいほど冷淡に鎮座していた。
檜原は召し替えの用意を片付けると、今度は新しい寝具にする積もりらしく、その用意を始めつつ、飯炊きを忘れなかった。釜戸の鍋を火に掛け、粥を作ろうとするのである。
「御気分でなくとも、ほんのひと匙でもお召し上がりくださいませ」
鍋が煮える間、千晴の長い髪は丁寧に櫛が入れられ、寝具は取り替えられ、粥が出来た。身の回りが整えられても、千晴の心は遥か遠い彼方へ押しやられている。ここが懐かしい我が家であるとは俄かに信じ難く、千晴の居場所は何処にも見当たらない。せめて、千洋が居さえすれば──。
「ただいま」
懐かしい声が千晴の鼓膜を震わせた。反射的に声の方に顔が向き、逢いたくて堪らない存在を視界に捉えようとする。衣桁の存在が二人を分ち、朧げな影絵に焦燥が募る。檜原が慇懃に礼をし、何かを預かる。千晴はそれが上等な革の鞄だとは知らない。半月ぶりに目覚めた千晴の声は潤いを失い、最愛を呼ぶ声すら薄闇に消えた。上等な布団の上で、千晴は思うさま動けず、漸く半身を起こすに留まる。
「──兄ちゃん!」
歓喜に輝く声が千晴を呼んだ。もう千年も逢っていないような待ち遠しい声に、千晴の瞳は熱を帯び、潤んでいく。
衣桁の着物の隙間から顔を出した千洋は上等な襯衣 を身に付けている。潔白の襯衣 は幼い彼を大人に見せ、それでも懐っこい笑顔は変わらない。兄が起きているのを見るなり破顔して飛び付く癖も、何もかもが嘗ての千洋で、ただ身形 だけは千洋ではなかった。
「よかった、目が覚めたんだな!」
「うん……」
「今日、兄ちゃんとおれの家、見に行って来たんだぜ。二階があってさ、部屋がいっぱいあって……」
「家……?」
「そう。おれ、新しい学校行くんだ。引っ越して、新しい学校に行って、兄ちゃんのことはおれが面倒見るんだ」
千晴はまだ夢の中にいるのではないかと思った。
千洋は、千洋ではなくなっていた。
千洋の容れ物のなかに何か別のものが入っているような気がして、千晴は無感動にその頬を叩いた。病み上がりの身体では大した威力もなく、右へ、左へと丸い頬を打ち、身を揺すぶり、中のものを出そうと躍起になった。
「千晴様、おやめくださいませ!」
老婆が皺がれた手で割って入っても止まぬ柔らかい暴力を、千洋は目を丸くして受けていた。
より優等な学校へ行き、兄を苦労から解放し、今度は自分が兄を養うために、あの男を利用する。それの何が不可 ないというのか。
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