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第8話※

※性暴力描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。  発情期とは動物の生殖本能のひとつである。その本能に翻弄されるふたつの人間と、本能の枷杭から逃れた人間、いずれが幸福であるか。天下(オメガ)の千晴には、どれも醜い獣であることには変わりないと思われた。  天下が神格化されたのは悠久のことで、より優秀な子孫を獲得し、一族の価値を高からしめ、或いはそのための有用価値的手段として、天下を求めたに過ぎぬ。そのために天下は自身の肉体を犠牲にし、新たな生命を誕生させる道具でしかなく、そのために畜生よりも重宝されたに過ぎぬ。自らの生命を犠牲にして種袋としての役割を果たすことが、いつしか天下の評価価値そのものになった。  十四歳の千晴は、自らが天下であることなど夢にも思わず、平穏に暮らしていた。心配事といえば父は働き詰めで、母は病気がちであるということだけで、父母が健在であったころ、少なくとも食うには困らず、清貧に暮らしていた。  このところ臥せがちの母親に代わり、千晴は仕立て直した着物を伯母のいる小料理屋へ届けに行った。着物は店の女給のものである。港に程近い小料理屋の帰り途には、洋装洗張(クリーニング)店への御用聞きも忘れない。店からの補修の下請けも一家の大事な収入源のひとつであった。  小料理屋は水兵に溢れ、女給たちが忙しなく膳を運んでいく。今日は戦艦が帰港した日であるらしい。声を掛けるのも憚られ、戸惑いを露わにして裏の勝手口に佇立する千晴に、伯母はいち早く気が付いた。 「千晴じゃないか。どうしたの」 「あの……。これ……」 「ああ、正枝さんのお着物かい。ありがとうねえ」  伯母は前掛けで手を拭うと、風呂敷を預かるのと同時に、素早く小遣いを握らせた。受け取る千晴も馴れっこで、二人の息の合ったやり取りは熟練の職人を思わせる。直後には決まって互いに罰が悪そうに微笑み合う。千晴は小遣いよりも、この瞬間の連帯感を好み、伯母は千晴の遠慮がちな、気恥ずかしさと素直に喜べないやさしいはにかみを好んだ。 「今日も洗張に顔出すのかい」 「うん。繕い物の仕事がないか、聞いてくる」 「そう。無理せんとね」 「おばちゃんもね」  その後、千晴は洗張店に顔を出したが仕事は貰えず、しょぼくれて通りを歩いていた。母親に何か珍しいものでも買って帰ろうと思ったが、大通りは平生より人で溢れていて、祭りほどの熱狂的な混雑でないにしろ、千晴を怖がらせるには十分な仕上がりであった。人集りはそれだけで彼を疲弊させて(しま)う。人々の騒めき、行き交う匂い、息の詰まる肉の漂流。それが千春の人混みへの素直な感想であった。ただそのまま帰宅するのでは退屈だったので、河口の方へ回って、ぶらぶら橋を渡って帰ろうか知らんと子供らしい発想で進路を変えた。  河口の長屋沿いには主に流れ者を相手にする女郎屋が点在している。人は疎らで、活気があるとは云えない下町だが、女郎屋には着物がある。千晴は(もし)自分に一段知恵があれば、内職の何か良い妙案が浮かぶのだろうにと考え、眉根を寄せて顔を顰めた。考えても考えても、惨めな気持ちになるだけで、妙案の一粒は些少(すこし)も降って来ない。千晴は読み書きもろくに出来ないのである。  抜けるような青空を見上げては、水底の見えぬ平坦な河を見下ろす。沈黙(むっつり)とした潔白な雲の碧い陰影と、流水のお喋りに煌く水面の反射に目を細めた。何処かで蝉が鳴いている。近くに止まり木はない。すると民家の壁か、電柱の木にいるのだろう。日輪は自らの存在を主張し、生命を誇張するかのように、千晴の頭頂を灼き、苛烈な熱で辺り一面を等しく照らした。内側から徐々に火照る肉体に玉のような汗が顳顬(こめかみ)を流れ、足は重く地面に溶けていく。  そこで(ようや)く自らの体調の変化を自覚した千晴は、温順(おとな)しく帰えればよかったと落胆した。後悔しいしい、少しでも涼を求め、河の傍を歩こうと、ふらつく足でようやっと土手へ降りて行った。余程(よっぽど)悪ければ橋の下で(やす)んだって良いと思ったが、むしろ寝んで帰った方が良さそうだ。橋の下を根城にしていた乞食の老爺は何年も前に亡くなって、係留されている木船も昼間は漁で出払っている。この長屋沿いは、昼は静かだ。寝むには丁度良い。  潮の混じった河の醜く爽やかな匂いに密やかな甘い香りが入り混じる。はじめ、千晴はこれを不快に思った。厭わしいのに、嗅いでしまう。肺一杯満ちる磯の湿った香りと、清涼な河の香りと、甘く満たされる香り──。 「きみ──……」  橋の下にいたのは、白い軍服の青年であった。制服の上着を脱ぎ、無造作に寝転がり、彼もまた寝んでいた。匂いはこの男から発せられていた。立っていられなくなった千晴は膝を折り、暗く冷えた地面に蹲った。この甘やかな香りを際限なく嗅ぎ続けていたい気持ちと、無意識の呼吸とが拮抗し、忙しなく息を乱した。手足は弛緩し、胎は熱く、小さいながらも勃然と屹立した自身の男根を不思議に思った。死んでしまうのか知らん、そんなことが頭を過ぎる。ここで死にたくない。父と母に逢いたい。酩酊する千晴の掠れた声は(いとけな)く、白い軍人に向かって助けを乞うた。 「たすっ、たすけ……」  千晴は初めて恐怖というものを味わった。見ず知らずの他人に突然襲われるという、これまで経験したことのない恐怖が千晴の弛緩した肉体を今度は強張らせ、言葉を奪い、呆然とさせる。青年の腕力に依って無理やり押さえ付けられ、獣のような熱い呼気が肌を滑った。生温かい(ぬめ)りを帯びた舌が皮膚をなぞり、胸の小さな蕾をきつく吸い上げる。ちりりとした熱い痛みに呻き、ようやっと青年を撥ねつけようと身を捩らせ抵抗する。青年の肉体はびくともせず、千晴の生白い痩せた肌に点々と鬱血痕を散らしていった。  唇を重ねられたとき、息もできず、驚きと苦しみに何度も顔を背けたが、無理やり顎を掴まれ、固定された。声は出ない。呼吸をするのが漸とのことで、肉体を蹂躙され、支配される恐怖、死を身近に感じる恐怖が、千晴を冒していく。  小さな体に青年がのし掛かる。男の肉体は重く熱を帯びて、その熱で千晴の肉体もまた燃えるように熱くなるのだと思った。乱暴に口腔へ押し入る舌に驚いて、青年の舌を噛んだ。血の味を感じる間もなく、頬を打たれた。逃げようと、地面を引っ掻いて這いつくばろうとする。頬の次は尻を打たれた。 「あう……っ!」  千晴の鳴き声混じりの悲鳴を悦んだのか、男は幾度も丸い尻を叩いた。反射的に千晴は詫び、許しを乞う。そんな自分が情けなく、一刻も早くこの暴力から逃れたいのに叶わず、涙はしとどに溢れる。 「ごめ……っ、ひっく、ごめんなさい……、ごめんなさい……!」  丸出しの双丘に重量のある何かがのし掛かる。それは熱く、固く、千春の尻たぶに鎮座する。 「ひっ……!」  腰を掴まれ、引き寄せられたかと思うと、怒張した男根の先が千晴の固く窄まった菊門を貫いた。男の獣の吐息が間断なく降り注ぐ。男は小さく呻き、短い悪態を吐き、呪詛のように繰り返し呟いた。 「頸はだめだ、頸は、頸……頸だけは……ッ」  彼もまた本能に抗い、闘っていたのだが、結局は敗けた。その結果がこれだ。本能に敗北し、肉欲に敗北し、自己に敗北した。敗北は男の矜持を存分に傷付け、自責は自棄に成った。か弱い獲物を嬲り、種付けることのみが、今彼が呼吸する理由のすべてであった。目前の、庇護するべきはずの少年の涙が、泣きべそが、泣き声だけが、男を慰撫してくれる。  千晴は嫌々を繰り返し、詫びれば辞めて貰えるとでも思っているのか、半狂乱になって謝罪の言葉を反復する。男の暴力は止まない。幾度となく柔かい胎内へ捩じ込み、内蔵ごと引き摺り出すような抽送を繰り返す。(むご)い暴力に耐えるちいさな肉体は、あろうことか快楽を見出し始めた。男根から飛び出す白濁した汁を掛けられる悦び、胎の奥に熱い飛沫が放たれる悦び、明滅する意識のなか、千晴は全身を震わせ、弓形になって悦んだ。肉体は悦んでも、彼の精神はありとあらゆる嫌悪で男を呪い、憎んだ。まだ精通のなかった千晴の小さな雄は青年の手で痛いほど扱かれ、初めて吐精した。射精を知らぬ千晴はこの男によって肉体を作り替えられ、破壊されたと思った。男も千晴も互いに獣のような声を押し殺し、噛み付き合った。  途方もない暴力と快楽の狭間で、千晴はただ生きることのみを考えた。いつ終わるとも知れぬ地獄に耐え、父と母──伯母に再び逢うために。  明くる年、千晴は男児を産んだ。約束通り伯母がお産を手伝い、産んですぐするはずが、千晴が泣き喚いて離さないので、一家のとして育てることになった。  

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