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第7話

 突き飛ばされた衝撃に孝臣は目を丸くした。必然(てっきり)千晴に拒絶されたものだと思った。ところが、彼の軍人らしく引き締まった肉体と精神を押し退けたのは、純真な憎しみを持った、小さな、まだ柔らかさの残る両の(てのひら)であった。 「兄ちゃんに、何するんだよっ!」  激昂に燃える二つの瞳が孝臣の肉体を捕縛し、抑圧し、拒絶しようと躍起になる。臆することなく青年を遥か下から睨め付け、その相貌と真正面から瞭然(はっきり)と対峙したとき、千洋の幼い声が低く唸った。 「てめえはさっきの……! 何しに来やがった!」  孝臣は当然怯むことなく、冷静に未来の義弟となる彼を見下ろした。気概や良し、少々が必要であるが、気性の荒い性分も、規律を叩き込めば良い軍人になるか知らんと楽観的に勘案する。孝臣はこのとき千洋に軍人としての素質を見出し、身の振りを考えていた。そこには打算と偽善、傲慢とが審判となっていたのだが、身勝手に少年の行く末を決定付けることに些少(いささか)の罪悪も持たなかった。  少年はますます激して吠える。千晴が懸命に叱咤の声を張り上げても、発情に弱った剣幕では幼い弟の憤怒の巨軀に立ち向かえず、また千晴のか細い手では制止できない。再三の叱責も虚しく、千洋は孝臣の上等な清白の襯衣(シャツ)を引き裂かん許りに掴み掛かった。 「千洋……!」  弟の怒りに任せた小さな手に追い縋ろうと、千晴もまた手を伸ばした。彼のその手は、本来慈愛を与えるべきはずの嫋やかなやさしい手である。その慈愛の御手が、滑空中に突然事切れて墜落する小鳥のように、静かに床に臥せるので、孝臣は()むなく千洋の首根っこを掴み、兄の元へ導いた。幼い双眸が現実を捉える。果敢にも青年に掴み掛かった掌は、忽ち献身のそれに変貌した。見知らぬ上等な上着を抱いて臥せる兄の背を撫で、その肉体の熱を薄い布地一枚を隔てて感じたとき、云いようのない不安が幼い彼を満たし、又、気丈にもさせた。 「兄ちゃん、大丈夫? おばちゃんの薬、まだある? おれ、もらって来ようか?」 「……兄ちゃんは大丈夫だよ」  弱弱しく微笑み、弟を心配させまいと、熱の篭る肉体で以て彼を包み込む千晴の、なんといじらしく、うつくしいことだろう。孝臣は自らの運命を称賛し、歓喜した。同時に、彼ら兄弟にとって、自己が如何に異物であるか──兄弟の愛情の円環から外れた異形の存在であるかを思い知らされたのである。  早くこの天下(オメガ)を──その人質として弟を、我が所有(もの)としなければならない。 「……千晴さん。転居のことは追々。ひとまず付添婦を派遣いたします」 「そんなもの、いらない。誰もこの家に入らせない」 「まだご自分の立場がお判りでいらっしゃらない。私には、貴方を保護する義務と権利がある」 「転居……? なあ、兄ちゃん。なんのことだよ」 「千洋くん。兄上は少し休めば直に()くなるが、身の回りの世話をする人を寄越します。何も心配は要らない。下女と思って、楽にしていれば──」 「なんだよ、お前! さっきから偉そうに!」 「非礼をお詫び申し上げる」  千洋が再び掴み掛からんとするのを避けるため、孝臣は素早い身代わりの速さで、千洋に立ち向かった。千晴は弟の暴力を好ましく思わない。故に孝臣は千洋に対し、(わざ)と慇懃に礼をした。生まれてから一度も他人から丁重に扱われたことなどない千洋は面食らい、呆然と孝臣を見上げる。呆気に取られて居る間に手を取られ、見慣れたお守りを握らされた。あ、と少年のいとけない口が開かれる。 「これ……」 「河原で君を見かけたときに拾った。派手にいただろう」 「あ……。ああ、うん……」 「さて、私はやるべきことが山積している。早速今晩から──」 「付添婦なんかいらない!」  千晴は弟を抱き寄せ、力任せに抱擁した。 「お前の施しなんか……」 「食事を差し入れましょう。千洋君のために」  千晴の薄い色彩は再び揺れた。自己の不甲斐なさ、無力さ、すべてを呪った。もし──もしも、自分が天下でなく天上であれば、千洋に空腹を覚えさせることはなかったのだ。飢えも渇きも、寒暖に肉体を脅かされることもなく、衣食住を完璧に整え、教育を受けさせ、何もかも自由に、何処までも寛大に、好きにさせてやれたのだ。自分が天下でなければ──。  ……天下でなければ、千洋には。  千晴は弟を確乎(しっかり)と抱き締め、孝臣を睨め付けた。まるで彼が奪われてしまうことを恐れるかのように。  千晴の濡れた瞳は、後から後からとめどなく流れる涙の一粒一粒を、嗚咽を噛み殺して溢れさせた。その涙に呼応して、空も泣いた。力強い雨粒の一滴一滴が荒屋(あばらや)の屋根を連続して穿ち、隅の方で雨漏りが始まる。湿気が籠り、当たりは静かに(にお)い立つ。黴と埃と、甘美なる匂いが、悠々と、そして確実に、孝臣の理性を揺曳していくのであった。

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