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第6話

 風下に位置する細民街に幾度となく異臭が流れ込む。塵芥に触れるような穢れた匂い。腐敗がこびりついた甘く饐えた匂い。孝臣の後方からやや離れ、虱と垢に侵されたぼろを着た子どもがどこからともなくついてくる。身形のいい人間が珍しいのか、何か貰えると思ってついてくるのか。草臥れた大人たちも同様に薄汚れ、長年の汚穢に染みた不潔たらしい臭いが、孝臣の顔を僅かに顰めさせた。彼はこれを鍛錬が足りぬと恥じた。軍人たる身分がそう思わせたに過ぎず、彼の高貴なる精神は、決して彼等に同情も憐憫も、慈愛も持ち合わせていない。所詮は家畜に等しかる存在であり、孝臣のような身分には汚穢そのもの、生涯交錯することのない塵芥に過ぎぬ。ただ彼の心根の穏やかさ、やさしさ、誠実たらんとする生き様が、努めて彼等を排除せぬよう振る舞ったに過ぎぬ。  孝臣はさして緊張も萎縮もなく、件の甘やかな匂いのみを希求し、運命を探求した。緊張によるものと思われる動悸に苦しめられても、歩を止めることはなかった。肉体は緩やかに熱を帯び、呼吸の乱れが彼の理性に揺さぶりを掛ける。この肉体的反応こそが、運命に近づいている符号、合図であった。  不意に運命の匂いを感じた。あの夜に嗅いだ甘やかな匂いである。それに湿気た匂いが混じるので、怨めしげに空を睨め付けた。雨の匂いに消される前にと逸る気持ちを抑え、匂いを辿る。細く長い靄を掴むように、神秘の糸が途切れてしまわぬように。足は勝手に動く。匂いは確かに近い。  細民街の外れの荒屋(あばらや)に、その匂いはあった。ぴったり閉じられた破れ窓の隙間から漂う誘発物質(フェロモン)を嗅ぎながら、確かに情欲を催しているはずであるのに、彼の雄たる象徴は一向に兆す気配がなかった。  いつだったか、酩酊した上官が座敷で語った文句がある。 「勃起の向くところに運命あり」  酒と女の魔力にあてられた末の失言であるとはいえ、凡そ天上人にあるまじき品を欠いた発言であるが、かの上官は、平生は生真面目な好人物であった。孝臣は自らの正体を見抜かれたのであるまいかと危惧したが、知られるはずがないものを、どう知られるというのだろう。臆病は猜疑心を生み、繊細は過敏になり、天上人たる品性を貶める。彼はこれを戒めのひとつとし、堅物としての殻はますます分厚く、固く閉じられていった。  孝臣は携帯している抑制剤を口にした。不能ではあるが、運命を前にどう作用するか判断できかねる今、対策は怠らない。規定の二錠が三錠になり、五錠になった。躊躇わず噛み砕いて嚥下する。苦味が口の中いっぱいに広がる。耐えろ。今この場で無理に番うつもりはない。自分には運命をいっとう大事にする義務がある。自らを叱咤し、古板の引き戸を叩いた。 「──ごめんください」  やや間があって、か細い声が内から聞こえる。「だれ?」という男性の声が鼓膜を震わせる。彼は自分の運命の相手が男性の──それも天下であったことに歓喜し、身を震わせた。喜びは大地から湧き出で、彼を酩酊させ、立っていることが煩わしいほど、満悦が彼の全身を駆け巡った。単純明快な誰何の言葉、たった二文字の言葉が、孝臣の胸を熱く焦がし、求めさせる。この衝撃、この感動を言語化する術を彼は持たない。  孝臣は務めて穏やかに語りかけた。 「こちらのご子息の落とし物をお届けに参りました」  その丁寧な口ぶりが、却って運命に警戒心を(もたら)して了ったとは露知らず、沈黙に不安を覚えた。  然るに運命は毅然と答える。 「帰ってください」  なぜ帰宅を促されるのか、孝臣には些少(ちっとも)理解できない。穏便に事を進めたい気持ちとは正反対に、肉体は熱く燃える。発情か緊張か判別しきらぬ汗が皮膚から滲み出る。彼の脳髄は熱に浮かされ確かな興奮状態にあったが、なまじ男性たる象徴は憐れなほど凪いでいるばかりに、冷静さを保っていられた。本能と肉体の落差、乖離ほど彼の精神を不安定にするものはない。併し彼は哀しいかな、この手の不安を飼い慣らす術を心得ており、神経を病むことには思春期の頃から慣れ親しんでいる。長きに亘り友として傍にあった憂鬱の呪縛を解く神秘は、この向こうに在るのだ。 「という子が御守りを落としたようで……」  焦ってはいけない。急いてはいけない。  孝臣は滴る汗を手巾(ハンカチ)で拭い、悠々とした呼吸に集中した。喩い今すぐこの天下を欲しても、再び逃亡の憂き目に遭う失態があっては成らぬのである。 「……どんなものですか」  嗚呼、なんという甘美なる声! なんという福音!  可哀想に、天下の声は震えていた。憐れに思えば思うほど、雄の嗜虐欲と庇護欲とを唆る罪深き声色とも思えた。  粗末な家の中に籠る空気が微かに騒めく気配を感じる。彼もまた、運命の再来に気付いているのだと確信した。 「手作りのものでしょう。よく出来ている」 「……っ、それなら、置いて帰ってください……」  言外に「許して」と願う気持ちが痛いほど突き刺さる。彼は許しを乞うている。天上の、運命を目前に、慈悲を求めている。その事実が青年の支配欲、征服欲、雄としての自尊心を高め、久しくなかった昂りを感じた。 「一目お会いしたい」 「いやだ……ッ!」  懇願も虚しく、運命は拒絶した。今にも叫喚に至るような声で「帰れ」「あっちへ行け」と懸命に追い払おうとする。  孝臣は傷付かない。彼は運命を恐懼せしめていることに些かの同情も持たなかった。所詮、運命には抗えない。  破れ障子の窓枠に手を掛けた。一息に開けて了えば、求めて止まない相手にお目に掛かれるだろう。そうすれば、心を砕いて想いを言葉にすることができる。沈黙したままの自身の潔白を照明することができる。  併し、彼にはそれだけの意気地はなく、破れ窓からお守りを突き出すに留めた。 「せめて、受け取っていただけませんか」  暫くの沈黙の後、空気が動いた。衣擦れの音、草履の音が聞こえる。足取りは鈍く、躊躇いを感じる。彼もまたこのひとときを惜しんで呉れているものと誤解したい。男の勝手な妄想が彼を傷付けるとしても、同じ気持ちであることを切願せずにはいられない。  やがて戸口の破れ障子の小さな窓に向かって差し出された白い掌を認め、自分と彼とを繋ぐただひとつきりのそれをぽとりと落下させる。  千晴には見慣れた、草臥れた御守りであった。その御守りは母と千晴とが一針一針に心を込めて作ったものであった。丈夫に育ちますように、いつまでも幸福でありますように。親子の愛情が込められたその御守りは加護あるべきはずのもので、決して不吉を告げるものではなかった。小鳥の遺骸を掌に落とされたような恐怖と不快感とが千晴を狼狽させた。最愛の千洋に何かあったのではあるまいかと早合点した結果、天上の存在など瞬時に忘却し、自ら棲家を飛び出した。 「千洋……!」  狼狽した声が、孝臣の胸前に飛び込んで来た。  輝かしい髪色の、ふわりと香る甘い匂い。  狼狽し震える声色、薄い彩色の瞳、白皙に碧く走る血脈、火照りを残した体温。  一目姿を見られればそれでよかった筈が、計らずも運命の方から飛び込んで来るとは。  孝臣は咄嗟に千晴を抱き留め、彼を宥めることに苦心した。 「離せよっ! 千洋、千洋が……!」 「落ち着いてください、彼に何かあった訳では……」  離せ、と藻がく力が弱まり、男から離れようとする。足腰が立たぬと見えて、孝臣は運命を抱き上げ、「失敬」と家中へ侵入し、粗末な敷布へ横たえた。 「おれから、離れて……」  熱に魘され、運命は懸命に訴えた。  離れるのが辛かった。生殺しでは、彼も辛いはずだ。孝臣はまだ抑制剤のおかげで耐えられるが、彼の方は判らない。  孝臣は自分の上着(ジャケット)を彼に与えた。  懐中(ポケット)から手巾を取り出し、汗ばむ額に当てる。千晴は幾らか心が安らいだと見えて、ほうと息を吐いて、愛おしげに上着を抱きすくめ、襟元に顔を埋めた。  愛らしい横顔に掛かる髪を指先で撫で梳く。ふと思い出し、紙煙草に火を付けた。紫煙が二人を別つ。襟元を緩め、無心で(ふか)し続ける。 「これ……、どこで拾った……」  か細い声では聞き取れず、顔を寄せる。  熱い吐息に愛しさが込み上げる。 「河原で拾いました。私が声を掛ける前に、去って行ってしまって」 「かわら……。ああ、また川遊び……」 「チヒロくんとやらは、貴方の弟君ですか」  運命は僅かに首肯し、茫然(ぼんやり)と微睡み始めた。どうやら彼も抑制剤は服用していると見え、落ち着きを取り戻しつつあった。孝臣は匂い避けに煙草を絶やさない。 「危ないこと……してないだろうな……」  孝臣はただ黙って、肺の続く限り紫煙を燻らせる。  あの夏の夜の幻想は、それ以上の美を以て彼の前に現れた。姿だけでもという願望以上に、彼に触れ、抱きとめることができた。こうして口を利いて貰えた。 「……あの夜、お会いしましたね」 「人違いだ……」 「貴方も判っている筈だ」  愛でたいという欲求に抗えず、孝臣の指先が痩せた頬に触れる。その手は無惨にも払い除けられる。 「違う……ッ! おれは、お前の運命なんかじゃ……」 「ご安心ください。いま貴方を襲って、無理に番う積もりはございません。併しながら、その……失礼ですが、このような処にお住まいでは、私が心配で堪らない。ただちに住居をご用意いたします。まずはそこへ越していただけませんか」 「おれを囲うってのか。妾みたいに……」  孝臣は傷付いた顔をした。しかし自らの不躾な提案で、傷付けて了ったのは彼の方かも知れなかった。 「貴方の身の安全を確保したいのです。気の進まぬことだとは重々承知しております」  緩然と、言葉を流し込む。  熱に潤む瞳を捉え、この刹那に生涯を誓約する。 「全てを私に任せていただければ、貴方の良いようにいたします。喩えば……」  悪役になることは容易い。それでこの天下が手に入るなら、どうとでも構わない。 「弟君を良い学校へやれます。食事も、身の回りのことも、すべてが彼の良いように……。最高の環境と、最高の教育を彼に与えましょう」  千晴の薄い彩色が揺れ、湖面から湧き上がる一粒が零れ落ちた。美しい人は落涙まで美しい。彼の無垢なる美貌に、孝臣は矮小な自己のすべてを曝け出して(しま)いたい衝動に駆られた。運命の相手が不能だと知れたら、彼はどう思うだろうか。自分を嘲り、見下し、蔑み、侮るだろうか。秘密を打ち明けて了えば、天上としての優位は忽ち瓦解するだろう。そのときの恥辱を、絶望を、憎悪を(おも)うとき、(いっそ)のこと死を求めたほうがどれだけ幸福だろう。  併し孝臣は成人した天上であった。それが単なる逃避に過ぎないことも、自身が運命という馳走を前に垂涎するただの畜生に過ぎない存在であることも、理解していた。畜生の分際で自尊心だの、虚栄心だの、世間体などに束縛されているから不可(いけ)ないのだ。畜生が人間であるから不可ないのだ。運命を渇望することが天上天下に課せられた罰であり、それゆえに栄華たる賞を授かることができるのだ。 「私は、貴方の御心が決まるまで、決して手出しはいたしません」  孝臣の指先は御髪に触れた。今度は払われず、千晴は双眸から輝かしい綺羅星の一粒一粒を流れ落とし、声を絞って云った。 「そんな……そんなに都合の好いことがあってたまるか……。学も、金もないおれと、縁もゆかりもない弟の面倒を見る。いい暮らしをさせて、それで、体の関係はなし。お前にいったいなんの利がある」 「運命に尽くさぬ天上がどこにあります」 「運命だから、なんでもするってのか」 「ええ。そうです」 「天上の云うことなんか、おれは信じない……!」  紫煙が二人を分つ。孝臣の冷めた視線が運命を捕らえて離さない。威圧ではなく、寄り縋るために。 「他の天上など如何(どう)でもいいでしょう。判りませんか。この私が──貴方の運命が申し上げているのです」 「信用できるかよ! お前の名前だって知らない! お前がどんな奴かも知らない! 急に現れて、こんな貧乏人の面倒を見るなんて云い出して、気でも狂ってるんじゃないのか」  孝臣はふと微笑を漏らし、やや芝居がかって云った。 「他でもない貴方に狂っている男の名前をお教えしましょう。私は瀬野島孝臣と申します」 「あんたの名前なんかどうでもいい。帰って。あんたの言いなりになんかならない」 「しかし……」 「お守りのことはありがとう。でも、あんたの妾も、あんたと番うのもごめんだ。おれはおれだけの力で、千洋を育ててみせる」  女神の無慈悲な審判。孝臣は懸命に冷静を装い、どうにか場を取り持とうとしたが、彼の歓心を買うにはどうすればよいか検討がつかなかった。代わりに、悪知恵は幾らでも働いた。強引に事を進めて了えばいい。兄弟共々、拐って、囲って了えばいい。管理、監視して、飼って了えばいい。 「せめて、お名前を教えていただけませんか。貴方のお名前を……」 「……千晴」  ちはる、この名がどれだけ彼の心を慰めたであろう。胸奥に柔らかい陽気が降り注ぎ、悪だくみも悪知恵も燃え尽くされ、灰塵となる。その灰塵を、爽やかな風が流して了う。この爽風は彼の弟君であった。いたずらに花弁を弄び、散らせる、花嵐のそれである。そう思ったとき、彼らをとても愛おしい存在に思った。ちょうど少年が石ころを宝箱に大切に仕舞うような、捕縛した虫を瓶に入れて大事に抱えるような、そんな愛情である。これが本能、これが運命の番い、運命にのみ許された厭わしい熱情──。 「千晴さん。その上着は貸して差し上げます」  千晴は(さっ)と頬を赤らめた。返す、貸すといった押し問答が続く最中、帰宅を告げる朗々とした少年の声が、荒屋に響いた。

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