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第5話
五
二六時中あの甘やかな匂いに苛まれ、孝臣は久しくなかった夢精に目覚めた。本能の神秘と啓示とが彼を郷愁の向こうへ押しやった。彼は特段潔癖でも純朴という男でもなかったが、色事には無反応であった。天上であることは血筋が証明している。思春期の検査がそれを裏付けている。彼は天上人でありながら、不能であるという一個の瑕疵のみに於いて、劣等生であった。
それが突如としてあの運命に巡り合ったのだ。
女の格好をしていたが、上背から男ではないかと思われた。男の天下ならば好都合だ。天上としての雪辱を果たせるのだから。
二人の母親から産まれた孝臣は、天上の母から誰よりも男らしくを強いられた。孝臣が男性性を持ちながら不能である劣等感を持つなら、この母親は天上にして女に産まれ、世間 から軽蔑され、本家からは冷遇され、どこにも属することの叶わぬ半端者であった。軍人一族の中で久しく生まれた天上が女であったことの落胆、その仕打ちが彼女を孤高にした。
孝臣の兄はこの母親とは特に折り合いが悪く、嫡男でありながら格上の爵位を持つ令嬢の元へ匇々 と婿に行ってしまった。兄からすれば、これで母親の劣等感を払拭した積もりか、そうでなければ単なる腹いせに過ぎない。
一方、天下の母──小百合には大切に育てて貰った。この母は天上の母──燈子と同級生であり、春の陽気に似たあたたかみとやさしさを持つ温厚な女性である。兄弟は天上の「母上」よりも天下の「母様」を好いた。そのことが母上にはますます気に入らなかったと見え、彼女なりに息子への愛情があるのかと思えば、息子に対する嫉妬や敵対心といった実に幼稚な理由で不機嫌を露わにし、へそを曲げ、家長への忠誠を強いた。今では大人になった孝臣も、天上としての性が母をそうさせるのだと解釈し、彼女を本能の犠牲者とまで思っていた。これが彼なりの母親への敬愛と忠義、可憐な献身であった。
故に、孝臣は母親たちに運命との邂逅を打ち明ける気には到底なれないでいた。何よりも期待を持たせること、その期待を裏切るやも知れぬ結末を恐れた。
孝臣は呑み慣れぬ酒を呷り、料亭の周辺を徘徊するように成った。近くの宿を物色し、只管 に運命を求めた。突然の素行不良に産みの母は嘆いたが、天上の母は天上たるが故の哀しい習性に同情して、これには寛容であった。併し、矢張り家長としては「小百合を泣かせることがあってはならぬ」と厳命するに留め、暗に了解を示した。
偖 、奇しくも彼は一度、千晴の伯母の元へやって来たのだった。微かな匂いを辿って迷い着いた先がペタルであり、青年は意を決して扉を開いた。人を探していると真実を述べ、遣手婆が運命の番いの伯母上とも知らず、尋人の特徴を仔細に話した。
「ご存知ありませんか」
「さあね。うちには居ないよ」
「女でも、男でも構いません。何か……」
「知らないよ! 他を当たりな!」
取り尽く島も無く追い出され、孝臣は溜息を滲ませた。途方に暮れて空を仰ぎ見る。くんと匂いを嗅げば、確実 に近いところまで来ている筈であった。
ここで諦める選択肢もあった。併し彼はそうしなかった。運命を渇望するには飽き足らず、運命に執着した。不能の天上が優秀な後継を得るには、運命に頼る他ない。
孝臣は野良犬にでも成った気分で川沿いをぶらり歩いた。いつだったか、考え事をするには歩くことだと母が云った。二人の母は悩むと悩まざるとに関わらず、二人並んでよく歩いた。その後ろ姿を土手の長い一本道に見た。母には運命があった。兄は運命に依らず所帯を持ち、栄華の一族に加わった。自身は運命が間違いなく近くにいるというのに、それを探せないでいる。見つけられないでいる。
──堂々巡りだな。
日差しに辟易し、河原の木陰に腰を下ろした。考え歩く許りでは飽いた。
先客がいると見え、幾つかの小さな風呂敷包が無造作に打ち捨てられている。
「やーい、やーい! 父 なし子!」
「こじきの子!」
「ケガレがうつるぞ!」
溌溂とした子供の声が耳を突く。幼さの残る言葉の発し方で、一人を相手に執拗に煽っていた。全く面倒なところに出くわしてしまったものだと内心また溜息を濃くする。子供同士の小競り合いに大人が首を突っ込むのも野暮というものである。そうして眺めるうち、一人が投石を始めた。それに倣って次々と投石が始まる。そうまでして相手を痛めつけるのは目に余る。孝臣は重い腰を上げ「おい、止めないか」と声を掛ける筈であった。ところが、制止を求めて口を開くより早く、暴力に晒された少年が拳を振りかざし、いじめっ子に突進してぶん殴ったのだ。にわかに情勢が変化する。それで終いにするかと思えば、馬乗りになって追撃する。もう一人が羽交い絞めにして止めにかかるのを器用に身を捩って投げ飛ばし、傍らの、投石するには大きすぎる石を握り締めた。そこで漸く孝臣は声を上げた。
「そこまでだ。きみたち、やめなさい」
予定にない大人の登場に、子供たちは露骨に敵意という拙い表情を見せ、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。残された少年は掴んだ石を離さないまま、鼻血を拭った。
「きみ、どこのうちの子だ」
「うるせえな。いいところだったのに。邪魔すんなよ、おっさん」
「それで殴れば相手がどうなるかくらい、検討がつかないのか」
「どうなろうが知ったこっちゃねえよ」
「目上の者に向かってその態度は……」
「お節介野郎! お前みたいな正義面した大人がいちばん嫌いなんだよ! あっち行け!」
孝臣に向かって重たい石を投げ捨てるが、届くはずもなく、石はごとりと鈍い音を立てて地面に転がった。呆気に取られる青年をよそに、少年は薄汚れた風呂敷包をひったくり、たっと駆け出してしまった。
嵐のような子だった。暴風の痕に残されたのは孝臣と、朱色の小さな布切れであった。近寄って手にすれば、手作りの御守りらしい。薄汚れてはいるが、丁寧に作られており、作り手の愛情を感じるものであった。劣化した紐が千切れている。無礼を承知で中身を検める。折り畳まれた紙切れには「チヒロノシアワセネガフ ハハヨリ」と書かれている。
孝臣はふっと笑みを漏らした。彼には二人の母がある。彼は天上の母と天下の母の、ひとつの運命の元に生まれたが、女である母親は天上であっても家督を継ぐことは許されなかったし、天下の母には政略的な縁談が絶えずあった。母たちは苦労した。折れず、腐らず、諦めず、息子たちを育て上げた。母親とは、子供のためであれば平気で自らを犠牲にする。
「母、か……」
微風があの香りを運ぶ。その香りは手中の御守りから匂った。あの夜の、忘れ形見の香りが、彼の胸を、肉体を、目頭を熱くさせる。運命の糸口が遂に彼の掌 へと齎された感激を、噛み締めることさえ惜しみ、急ぎ少年の駆け出した方へ歩を進めた。
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