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第10話

※孝臣の母親の話です。ふたなりや百合が苦手な方はご注意ください。  瀬野島孝臣は二人の母親から産まれた。  天上(アルファ)の母・瀬野島塔子の名を、上流社会で知らぬ者はいない。彼らは塔子の、女性でありながら天上人(アルファ)という不遇を嘲笑し、半陰半陽を忌避し、その美貌に平伏した。美しく、冷たく、憂いを帯びた横顔には高潔が滲み、微笑には微かな威圧があった。所作一つとっても彼女を(かたど)るすべてには嫋やかさもしとやかさも感じられず、天上としての才能を(すべから)く我がものとした女であった。  故に、嫉妬も不評も買う。持たざる者は憐れみ、(いぶか)しみ、女たちは嫌悪した。男たちは彼女を見世物のように眺め、内心では下等生物だと見下していたし、女たちは彼女を穢れや呪いのように忌避した。しかしながら、上流社会の躾が行き届いているから、あからさまな敵意も蔑視も向けないが、そのぶん噂話の悪態は下劣極まりなく、(おぞ)ましかった。塔子は本人の預かり知らぬところで穢されたに等しい。  塔子は天上絶対・男性優位主義の上流社会において、あたかも可憐な小さな花が深山幽谷の大地に厚かましく根を張り、ちっぽけな自己を精一杯奢り誇って高嶺を思わせる野の花が如く、浅ましく、逞しい存在であった。ただ美しくあるために添えられたちいさな花に過ぎぬのである。  彼女は女性性には求められぬ男らしい色香を纏わせ、男に負けぬ才覚を持ち、男に負けぬ爵位を継いだ。女性でありながら男爵の爵位を得たのはなんとも皮肉である。彼女は天上の女というだけで両親から疎まれ、苛烈な躾を受けて育った。彼女の母親は謂った。 「貴女は、女としての幸せを手に入れられない。道を拓くのも、幸せを掴むのも、自分の力でなさらなければ」  その後は決まってさめざめと泣くのである。娘に対し、幾度となく「貴女が男であれば」と怨みごとを繰り返し、「男に産んであげられなくて御免なさい」と詫びた。  即ち、苛烈なまでの躾は両親の愛情であり、責務であった。すべては彼女が成人を迎えた先、短い子供時代を経て、その後の長きに亘る人生に備えるためである。  塔子が大人になる──それは女ながらに男性社会で生きることを意味する。すべては天上ゆえに。天上の女は天下の男と等しく稀少価値のある生き物だが、天下の男より重宝されない。女であるだけで、彼女の天上としての価値は一層劣等を極める。  男爵という爵位さえ、塔子には皮肉そのものである。天上がゆえに赦された爵位の継承が女人に与えられるとは、天上の群れに於いて天変地異と同義を持った。慣例慣習を好む上流社会では、前例がないという理由で疑義を唱えられ、縁談さえ持ち上がった。噂話は遥か雲の上の皇王にまで届き、結局は西欧諸国に倣って、暗黙の了解を得た。  塔子は折れなかった。我を貫き、野心を隠さず、過剰なまでに威厳に拘り、両親の言い付けを守り、些細な好奇心と反抗心から、軍医になった。父親からは「私は産科医になれと云ったが、軍医になれとは云っておらん」と不満を買ったが、塔子が成熟するにつれ、父親の威厳は塔子の前で徐々に力を喪った。  そうして天下として政略結婚の道具とされた幼馴染の小百合を強引に娶り、正式に家督を継いだ。小百合に産ませた赤子は男児、それも天上である。塔子は心の底から娘でなくてよかったと思った。娘でなければ、天上だの天下だのはどうでもよかった。小百合は娘を欲しがったが、欲しければ養子でも貰えば良いと謂うと、呆れた顔をして「(わたくし)は塔子さんとの子供が欲しいのよ」と云った。塔子は黙った。小百合の言葉は塔子を傷付け、苛立たせた。 「ごめんなさい。ちゃんと判ってるわ」  擦り寄り、しなだれる小百合を温順(おとな)しく受け入れる。塔子の複雑怪奇な運命を、同じく女性性である小百合が理解しないはずがない。  小百合は少女時代と変わらぬ悪戯な微笑を塔子に向ける。塔子が何もかも赦して了うことを知っている、蠱惑的な微笑である。 「いつかお嫁さんがきたら、うんと可愛がりますけれど、()くって?」 「……好きにおし」  ──私たちに娘は不要だ。こんな薄汚い地獄を、娘に味わわせてなるものか。  品行方正な長男・義孝(よしたか)は海軍に入り、知らぬ間に華族の伯爵令嬢と婚約を済ませていた。素知らぬ顔で「婿へ入ります」と告げ、塔子を怒らせ、小百合を涕泣させた。義孝は事もなげに謂う。 「相手は伯爵家の一人娘ですから、致し方ないでしょう。うちには瀬野島孝臣は二人の母親から産まれた。  天上(アルファ)の母・瀬野島塔子の名を、上流社会で知らぬ者はいない。彼らは塔子の、女性でありながら天上人(アルファ)という不遇を嘲笑し、半陰半陽を忌避し、その美貌に平伏した。美しく、冷たく、憂いを帯びた横顔には高潔が滲み、微笑には微かな威圧があった。所作一つとっても彼女を(かたど)るすべてには嫋やかさもしとやかさも感じられず、天上としての才能を(すべから)く我がものとした女であった。  故に、嫉妬も不評も買う。持たざる者は憐れみ、(いぶか)しみ、女たちは嫌悪した。男たちは彼女を見世物のように眺め、内心では下等生物だと見下していたし、女たちは彼女を穢れや呪いのように忌避した。しかしながら、上流社会の躾が行き届いているから、あからさまな敵意も蔑視も向けないが、そのぶん噂話の悪態は下劣極まりなく、(おぞ)ましかった。塔子は本人の預かり知らぬところで穢されたに等しい。  塔子は天上絶対・男性優位主義の上流社会において、あたかも可憐な小さな花が深山幽谷の大地に厚かましく根を張り、ちっぽけな自己を精一杯奢り誇って高嶺を思わせる野の花が如く、浅ましく、逞しい存在であった。ただ美しくあるために添えられたちいさな花に過ぎぬのである。  彼女は女性性には求められぬ男らしい色香を纏わせ、男に負けぬ才覚を持ち、男に負けぬ爵位を継いだ。女性でありながら男爵の爵位を得たのはなんとも皮肉である。彼女は天上の女というだけで両親から疎まれ、苛烈な躾を受けて育った。彼女の母親は謂った。 「貴女は、女としての幸せを手に入れられない。道を拓くのも、幸せを掴むのも、自分の力でなさらなければ」  その後は決まってさめざめと泣くのである。娘に対し、幾度となく「貴女が男であれば」と怨みごとを繰り返し、「男に産んであげられなくて御免なさい」と詫びた。  即ち、苛烈なまでの躾は両親の愛情であり、責務であった。すべては彼女が成人を迎えた先、短い子供時代を経て、その後の長きに亘る人生に備えるためである。  塔子が大人になる──それは女ながらに男性社会で生きることを意味する。すべては天上ゆえに。天上の女は天下の男と等しく稀少価値のある生き物だが、天下の男より重宝されない。女であるだけで、彼女の天上としての価値は一層劣等を極める。  男爵という爵位さえ、塔子には皮肉そのものである。天上がゆえに赦された爵位の継承が女人に与えられるとは、天上の群れに於いて天変地異と同義を持った。慣例慣習を好む上流社会では、前例がないという理由で疑義を唱えられ、縁談さえ持ち上がった。噂話は遥か雲の上の皇王にまで届き、結局は西欧諸国に倣って、暗黙の了解を得た。  塔子は折れなかった。我を貫き、野心を隠さず、過剰なまでに威厳に拘り、両親の言い付けを守り、些細な好奇心と反抗心から、軍医になった。父親からは「私は産科医になれと云ったが、軍医になれとは云っておらん」と不満を買ったが、塔子が成熟するにつれ、父親の威厳は塔子の前で徐々に力を喪った。  そうして天下として政略結婚の道具とされた幼馴染の小百合を強引に娶り、正式に家督を継いだ。小百合に産ませた赤子は男児、それも天上である。塔子は心の底から娘でなくてよかったと思った。娘でなければ、天上だの天下だのはどうでもよかった。小百合は娘を欲しがったが、欲しければ養子でも貰えば良いと謂うと、呆れた顔をして「(わたくし)は塔子さんとの子供が欲しいのよ」と云った。塔子は黙った。小百合の言葉は塔子を傷付け、苛立たせた。 「ごめんなさい。ちゃんと判ってるわ」  擦り寄り、しなだれる小百合を温順(おとな)しく受け入れる。塔子の複雑怪奇な運命を、同じく女性性である小百合が理解しないはずがない。  小百合は少女時代と変わらぬ悪戯な微笑を塔子に向ける。塔子が何もかも赦して了うことを知っている、蠱惑的な微笑である。 「いつかお嫁さんがきたら、うんと可愛がりますけれど、()くって?」 「……好きにおし」  ──私たちに娘は不要だ。こんな薄汚い地獄を、娘に味わわせてなるものか。  品行方正な長男・義孝(よしたか)は海軍に入り、知らぬ間に華族の伯爵令嬢と婚約を済ませていた。素知らぬ顔で「婿へ入ります」と告げ、塔子を怒らせ、小百合を涕泣させた。義孝は事もなげに謂う。 「相手は伯爵家の一人娘ですから、致し方ないでしょう。うちには瀬野島孝臣は二人の母親から産まれた。  天上(アルファ)の母・瀬野島塔子の名を、上流社会で知らぬ者はいない。彼らは塔子の、女性でありながら天上人(アルファ)という不遇を嘲笑し、半陰半陽を忌避し、その美貌に平伏した。美しく、冷たく、憂いを帯びた横顔には高潔が滲み、微笑には微かな威圧があった。所作一つとっても彼女を(かたど)るすべてには嫋やかさもしとやかさも感じられず、天上としての才能を(すべから)く我がものとした女であった。  故に、嫉妬も不評も買う。持たざる者は憐れみ、(いぶか)しみ、女たちは嫌悪した。男たちは彼女を見世物のように眺め、内心では下等生物だと見下していたし、女たちは彼女を穢れや呪いのように忌避した。しかしながら、上流社会の躾が行き届いているから、あからさまな敵意も蔑視も向けないが、そのぶん噂話の悪態は下劣極まりなく、(おぞ)ましかった。塔子は本人の預かり知らぬところで穢されたに等しい。  塔子は天上絶対・男性優位主義の上流社会において、あたかも可憐な小さな花が深山幽谷の大地に厚かましく根を張り、ちっぽけな自己を精一杯奢り誇って高嶺を思わせる野の花が如く、浅ましく、逞しい存在であった。ただ美しくあるために添えられたちいさな花に過ぎぬのである。  彼女は女性性には求められぬ男らしい色香を纏わせ、男に負けぬ才覚を持ち、男に負けぬ爵位を継いだ。女性でありながら男爵の爵位を得たのはなんとも皮肉である。彼女は天上の女というだけで両親から疎まれ、苛烈な躾を受けて育った。彼女の母親は謂った。 「貴女は、女としての幸せを手に入れられない。道を拓くのも、幸せを掴むのも、自分の力でなさらなければ」  その後は決まってさめざめと泣くのである。娘に対し、幾度となく「貴女が男であれば」と怨みごとを繰り返し、「男に産んであげられなくて御免なさい」と詫びた。  即ち、苛烈なまでの躾は両親の愛情であり、責務であった。すべては彼女が成人を迎えた先、短い子供時代を経て、その後の長きに亘る人生に備えるためである。  塔子が大人になる──それは女ながらに男性社会で生きることを意味する。すべては天上ゆえに。天上の女は天下の男と等しく稀少価値のある生き物だが、天下の男より重宝されない。女であるだけで、彼女の天上としての価値は一層劣等を極める。  男爵という爵位さえ、塔子には皮肉そのものである。天上がゆえに赦された爵位の継承が女人に与えられるとは、天上の群れに於いて天変地異と同義を持った。慣例慣習を好む上流社会では、前例がないという理由で疑義を唱えられ、縁談さえ持ち上がった。噂話は遥か雲の上の皇王にまで届き、結局は西欧諸国に倣って、暗黙の了解を得た。  塔子は折れなかった。我を貫き、野心を隠さず、過剰なまでに威厳に拘り、両親の言い付けを守り、些細な好奇心と反抗心から、軍医になった。父親からは「私は産科医になれと云ったが、軍医になれとは云っておらん」と不満を買ったが、塔子が成熟するにつれ、父親の威厳は塔子の前で徐々に力を喪った。  そうして天下として政略結婚の道具とされた幼馴染の小百合を強引に娶り、正式に家督を継いだ。小百合に産ませた赤子は男児、それも天上である。塔子は心の底から娘でなくてよかったと思った。娘でなければ、天上だの天下だのはどうでもよかった。小百合は娘を欲しがったが、欲しければ養子でも貰えば良いと謂うと、呆れた顔をして「(わたくし)は塔子さんとの子供が欲しいのよ」と云った。塔子は黙った。小百合の言葉は塔子を傷付け、苛立たせた。 「ごめんなさい。ちゃんと判ってるわ」  擦り寄り、しなだれる小百合を温順(おとな)しく受け入れる。塔子の複雑怪奇な運命を、同じく女性性である小百合が理解しないはずがない。  小百合は少女時代と変わらぬ悪戯な微笑を塔子に向ける。塔子が何もかも赦して了うことを知っている、蠱惑的な微笑である。 「いつかお嫁さんがきたら、うんと可愛がりますけれど、()くって?」 「……好きにおし」  ──私たちに娘は不要だ。こんな薄汚い地獄を、娘に味わわせてなるものか。  品行方正な長男・義孝(よしたか)は海軍に入り、知らぬ間に華族の伯爵令嬢と婚約を済ませていた。素知らぬ顔で「婿へ入ります」と告げ、塔子を怒らせ、小百合を涕泣させた。義孝は事もなげに謂う。 「相手は伯爵家の一人娘ですから、致し方ないでしょう。うちには孝臣(スペア)がおりますし」  塔子はすかさず長男の頬を引っ叩いた。強烈に乾いた一音が部屋に満ちる。 「馬鹿者が……!」   塔子に()たれ、顔こそ背けても、義孝は微動だにしなかった。若い青年の肉体と、熟した女の肉体の、歴然とした力の差が塔子の自尊心を傷付ける。  義孝は打たれた頬をなぞりながら謂った。 「これが孝臣にとっても最良だと思うのです。伯爵家と縁ができれば、孝臣もこの世界で生き易くなるでしょう。私たち兄弟が、天上の女と天下の女に生まれた男児として、やれ竿なしだの種子なしだのと、好奇の目で見られずに済む」  塔子は精一杯冷徹な顔をして「口を慎め。小百合に穢らわしい言葉を聞かせるな」と謂うに留めた。  義孝の言うことも理解できる。一理どころではない。これはなのだ。 「……お前の()いようにしろ。相手は伯爵家だ。瀬野島とは家格が違う。我々は従うより他にない」 「承知いたしました」  長男は人好きのする微笑を向けた。まさしくこのために、格上の爵位を持つ令嬢をたらしこんだのだ。 「母上と母様には感謝しております。この顔に産んでくださって」  義孝は胸に手を当て、恭しく一礼をした。  小百合の小さな王子様だった彼は、もういない。この子だけは違うと信じていた最愛の息子も、所詮はただの男であったのだ。

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