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地獄の入り口②

   風馬の口から出る言葉は全くもって意味不明だ。  いっそ錯乱してるのではないかとすら思える。 「お前、翔太に何したんだ」 「目上の人に対して"お前"だなんて。詩音君って顔は綺麗なのに躾がなってないね」 「五月蝿い……そんな事どうでもいいっそんな事より翔っ痛…っ」  俺を見るその目が、俺の名前を呼ぶその声が、俺に向ける態度が。全てが気持ち悪くて噛み付くように叫ぶと風馬の俺の前髪を掴む手に力が籠る。 「詩音君の方がうるさいよ。近所迷惑じゃないか、静かにしようね。……それとも静かにする方法がわからない?」  首を傾げさらに近い位置で目を覗き込まれる。  その汚泥のような真っ黒な目を恐れて体が後ろへと傾いたが前髪を掴まれた俺は大して距離が取れずに背を反らしただけだった。  風馬のもう片方の手が俺の頬に伸びて指先が皮膚をなぞった。 「翔太もね、最初は聞き分けがなくてさぁ。でも素直でいい子だからすぐ俺の言う事聞いてくれた」  目の前の男に翔太に何をしたのかなんて詰め寄る気持ちは萎縮してしまった。怖くて、絶対に聞けやしない。  嫌だ、その続きは聞きたくない。俺がフルフルと首を横に振ると風馬が目を細め嘲笑う。 「そういえば何してるんだって聞いたっけ?俺と翔太は愛し合ってるんだよ。保健体育で習わなかった?セックスだよ、セックス」  あまりにも非現実的な行為に頭が真っ白になって、それでも俺だって目にした事への理解、言葉の意味ぐらいはわかる。    ――わかるからこそ、わからない。  なんで、風馬は翔太にそんな事ができるんだ?  翔太は俺に好きな人がいると言った。それは目の前の男じゃないのは確かだ。  愛し合ってる?そんな筈はない。もしそうなら、あの耳を塞ぎたくなるような翔太の悲痛な声はなんだと言うのか。  ――風馬は、絶対にやってはいけない事をしてる。    口にする事すら憚られる、合意ではない行為。   「翔太は……、好きな人がいるんだぞ……!何やってんだよ!!」  一瞬で怒りという感情が体の芯を突き抜けて、それは恐怖さえも一時的に上塗りしたらしい。  あんなに幸せそうに要が好きだと俺に教えてくれた翔太が、こんな大人に襲われて、犯されて。そんな一方的な暴力あっていいはずがない。  吐き捨てる様に風馬に向かって叫んだら、風馬は「は?」と一言だっけ発した。  その声が今までの猫撫で声とは打って変わってゾッとするほど冷たい。 「何言ってんの?俺以外に翔太に好きな人?そんな人いるわけないだろ」 「っうあ"っ!」  次の瞬間俺の体は易々と風馬に振り払われて、机の端に強かに背中を打った。息が詰まるほどの痛みと衝撃にそのままズルズルとフローリングに横になり体を丸める。  痛みでチカチカと明滅する視界。風馬が俺から離れて再び翔太のいるソファへと身を乗り上げた。 「うぅ……」 「え?何?……翔太嘘だよね?居るわけないよね」 「っぁ……っや、やだ!ごめんなさい、風馬さっ、謝るから、ごめんなさい、ごめんなさっ」  頭の上から翔太と風馬の声が降ってくる。ひたすら泣き啜りながら謝る翔太の声と、そんな翔太を宥める様に責めて脅かす風馬の声。  痛む体を丸めたまま耳を塞いで何も聞かず、全てが終わるまでこのままじっとしていたい。そんな気持ちを何とか押し殺して俺は足に力を入れた。噛み締めた唇からは血の味がしたけれど、今はきっとそんな事に構ってる暇はない。  なんとか立ち上がった俺の視界に入ったのは、再び翔太の上に身を乗り上げた風馬だ。  近くで見た翔太は改めて見るとまるで芋虫のようだった。両腕は自らの体の下に回され自由を封じられ、肩から腹にかけては口端と同じように紫色に変わった斑らな肌が蛍光灯の下に晒されている。  大きく広げられた両足の太ももはヌラヌラと濡れて光っており、風馬のその手には翔太のモノが握られていて、酷く赤く腫れていた。    ――あぁ、目眩がする。   「やめろ……、やめろって!!」  俺が叫ぶと風馬が不思議そうに首を傾げた。 「何で?悪い子にはお仕置きしないと」 「何言ってんだてめぇ。さっきから気持ち悪いんだよ……っ」 「君は……、失礼な子だな。自分の物が粗相をしたら罰してあげないと理解しないだろ」 「翔太はお前のものじゃねぇ!!翔太の上から退けよ!」  俺は側にある机に手をついて必死に風馬を睨みつけた。  気を抜くと今にも足から崩れ落ちてしまいそうで。  頬を濡らした涙も手の甲で無理矢理拭って噛み付く様に叫ぶ。 「退けって言ってんだろ!」 「あー、もう。五月蝿い……これは、俺のものなんだから俺がどう扱おうとお前にどうのこうの言われる筋合いはないの。分かる??」  俺の訴えに心底煩わしそうに言葉を返す風馬は、剣呑な視線を向けた。  俺が必死の形相で睨み返すと、風馬は何もない空中をぐるぐると視線で追った後に「あぁ」と首をゆっくりと垂れた。  その手が翔太のモノから離れて、痛々しい体を上へ上へと這い細い首へと掛かる。  その意図を理解して俺はぞっと血の気が引いた。 「っ!!」 「やめろ!!!」  翔太の口が開きっぱなしになって、悲鳴にならない声が漏れる。  翔太の首を風馬が締めた。  ――翔太が死ぬ、死んでしまうっ!  咄嗟に駆け寄ろうとした俺に、振り払った風馬の手がぶつかる。  俺はまたフローリングに横倒しになったけれど、翔太の首からは風馬の手が外れた。 「あっー、げほっごほっ……っげほ」 「なぁんて、本当にヤっちゃうと思った?」  翔太の首を絞めた手を宙で振って、俺に向かってニタニタ笑う風馬に怖気が走る。  前会った時ここまで破綻した人間だっただろうか。少なくとも好きな人種ではないと思ったかもしれないが、こんな事が平気でできる人物だとは考えてもみなかった。  抗う術を見出せない風馬の凶行に、視線を彷徨わせると机の上に飲みかけの酒瓶を見つけた。  駄目だとはわかっていても、でもこの場で翔太を救い出せる方法などもう俺には考え付かなくて。  翔太がこんな男に殺されてしまうぐらいなら、と覚悟を決めようとした時翔太が小さな声で何かを言った。 「……って、」 「え」 「帰っ、……て。お願い」  この部屋に入ってから、今初めてまともに翔太と目があった気がした。  翔太の手が、腕が、風馬の首に巻きついて絡めとる。まるで自分の中に誘い込むように巻き付いて、けれどその視線は俺に向けられていた。   『帰って』    明確な意思を持って告げられた言葉に、俺は後ずさった。  強請るような翔太の態度に機嫌を良くしたのか風馬は俺の事を忘れたかのように翔太の体に埋もれ見向きもしない。そのまま一歩、二歩、三歩と後退りリビングの出口まで来る。   『バイバイ』    最後に見た翔太は涙に濡れた目を僅かに微笑ませて俺を見た気がした。  耳の奥に翔太の悲鳴がこびりついたまま、俺は翔太の家を飛び出し陽の落ちた暗い路地を駆け抜けた。  息の仕方さえ忘れるほど無我夢中で走って、吸った息は胃の中のものと一緒に吐き出してしまいそうな程気持ちが悪い。 いくら拭っても溢れる涙は止まらなくて、服の両袖は冷たく湿っていた。  気がつけば目の前に天塚の玄関があって、俺はひどく重い足で天塚の敷地を跨いだ。      ――どうしよう。  ――どうしたらいい?  匠に言うべきか?  緒方さんか?  学校だろうか。  先生?  悟?  それとも…………。  要の顔を思い出して、俺は足を止めた。  気付いてしまった。  きっと翔太が学校に来られなくなったのは風馬のせいで。  要が好きだと言った翔太は、風馬との事を要に知られたくなかったんだ。  話もできず、顔も合わせられなくなるほどに、翔太はもうずっと前から地獄に一人で追いやられていたんだと気づく。 「そんなの、……俺、どうしたら」  助けてと言っていいのだろうか。それで今まで耐えてきた翔太はどうなる?  これは犯罪で、あってはならない事で、でも俺が助けを求めた結果翔太と要の関係が完全に壊れてしまったら?? 「どうしたら、いいんだよ……」 家に上がりトボトボと自分の部屋に向かう。  暗い部屋、崩れ落ちる様に座り込めばSNSの着信がスマートフォンを震わせ、不気味な明滅が部屋を照らした。 『明後日から始まるゴールデンウィーク、家に泊まりにおいでよ』  それはこないだ交換したばかりの翔太からの連絡で、この連絡先の向こう側には翔太でない誰かがいるのは明白な文章だった。  どうやら、気付かぬうちに地獄は俺の足元にまで迫っていたようだ。

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