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地獄の入り口①

 悟にはきつく言われたが、ゴールデンウィークに入る前に俺は翔太と予定を合わせておきたかった。目的は勉強会だ。少しでも学校に行く事を翔太が前向きに考えてくれたらいいなと俺なりに考えた結果だ。 翔太がもしいいと言ってくれたら要も誘いたい。そしてそれを明日朝一番に要に伝えたい。  だからタイミングとしては今日しか無かった。  学校帰り、SNSで呼びかけても翔太の反応はない。  やっぱり突然押しかけるのはマナー違反だよな、そう思いながらも出来たら今日確認しておきたい。その流行る心が、気づけば俺を翔太の家がある三階まで運んでいた。 廊下を進んで一番奥。  俺はもう一度、今度はSNSの電話を発信してコンタクトを試みるけれどやはり翔太とは繋がらなかった。  要は誘えないかもしれないけれど、やっぱり出直そうか……と考え始めた頃、翔太の家の中からびっくりする程大きな音がして、俺はその場に飛び跳ねた。 「な、何?」  ガラスが落ちて壊れたような、そんな音。  階段に向けた足を再び翔太の家の扉に向けて、俺は深呼吸してから家の取手に手をかけた。  鍵の存在などなく、何の抵抗もなく開く扉とその先にある暗闇。  玄関から続く廊下の先で薄らと光が漏れる場所は……リビングだったろうか。  この時俺の頭を過ったのは、悟の言葉だった。 『余計な事はするな』  でも俺は自ら開いてしまった扉から手を離す事が出来なかった。  家のずっと奥から翔太の声が聞こえた気がした。  本当に聞こえたのか、幻聴なのか判断すら付かない。    ゆっくりと、一歩ずつ、何かに操られるように踏み込んだその先はやっぱりリビングで、そこは唯一電気が点いていた。  廊下の暗さに慣れた目が、リビングの明るさに眩む。  締め切られたカーテンと、何も乗っていないテーブル。  対面キッチンは電気が落とされ暗く、少し旧型のテレビは真っ暗な画面をこちらに向けていた。 延々と感じるこの時間が数秒にも満たない事に気づけないほど、 俺は思考が止まってしまった。  リビングの中央にソファが置かれている。  ソファの上に体ごと陣取っているのは風馬で、風馬の下に翔太がいた。  ソファの周囲には服が散乱していて、俺は……その場に縫い付けられたように動けなくなった。    翔太の片足を肩に担いだ風馬が、翔太を押しつぶす様に腰を動かす。その度に聞き馴染みのない水音がして、微かに翔太の声が漏れる。なんて言ってるのかなんて聞き取れない。風馬の翔太を見る目は獲物に夢中になる捕食者のソレで、俺にはまるで化け物のように見えた。  その化け物が俺を見て蛇の様に目を細める。 「んー、あー……だれ?なんだっけ、なまえ……名前……」  風馬の動きが止まったからか、翔太が億劫そうに首を回して俺を見る。その目にはいつものような溌剌とした様子はなく、ただただ澱んでいた。涙で濡らした頬は熟れた果実の様に赤く、口端は紫色に染まっている。  翔太の定まらない視線が時間を掛けてゆっくりと俺に注がれて、唇が戦慄いた。 「あ……ぃ、やっ見ないで!!」 そこに怒気は含まれていなくて、耳を塞ぎたくなる様な悲鳴が俺を突き刺す。立ち尽くしたままの俺は足を一歩後退させるのがやっとで、それさえ足と足がもつれて後ろに尻餅をつく様に転けてしまった。 「お願い、やだっ、ゃだぁ……っ、お願、出てって………見ないで……」 お願い、お願いと繰り返す翔太の視線が俺を捉えていたのはほんの少しの間だけだった。 「ひぅ……ぁっ、あっ……あァッ、やぁっ」 焦点のあっていない視線を彷徨わせた風馬が翔太の声に思い出したように腰を動かす。それに釣られるように詩音の悲鳴のような訴えが、か細く啜り泣く様な声に変わり、次第に聞こえなくなった。  得体の知れない粘着質な音と、他人の乱れた息遣い。  どれもが吐き気を催すほど気持ちが悪いのに、俺は指先一つ動かせない。  風馬が翔太の上で体を一段大きく震わせると翔太のソファの上で張っていた体もくたりと力が抜けた。 「しょ……た?」  理由のわからない恐怖を退けようと、精一杯搾り出した俺の声に反応したのは翔太ではなく風馬だ。 「思い出した」 翔太の足を肩から無造作に下ろして、風馬が俺を真正面から見据える。 「詩音君だ。また会えて嬉しいな」 「っ」  ソファから降りた風馬は俺に話しかける一方で着衣の乱れを直していく。 翔太の手足はソファから放り出されたまま、その体は何ひとつ身につけず生まれたままの姿だった。  まだ俺の頭は処理できない。今何が起きていて、俺は何をすべきで、翔太はどうなってしまったのか。  考えようとしても思考が空回る。  耳障りな俺の呼吸音と、ドクドクと五月蝿い心臓の音。  おまけに緊張と恐怖でグルグル、グルグルと視界が回って。  ――ペタリ。  足音でハッと我に返った時にはすぐ近くまで来ていた風馬が俺の目の前でしゃがみ込んだ。  咄嗟に背を逸らして風馬から逃げようとする俺の顔を愉しそうに覗き込んでくる。  鼻を刺すアルコール臭に風馬がついさっきまで飲酒していた事がわかる。俺が耳にした"何かが割れた音"はきっとテーブルの向こう側に飛び散っている酒の入ったグラスだ。 「おいでよ、詩音君」  風馬の手がフローリングに付いたままの俺の手を取って、強引に引っ張られ腰が浮いた。  そしてそのままソファの方へと引き摺られる。俺はその意味を理解した途端首を左右に振った。  嫌だ、あそこには近づきたくない。  まだブラリとソファから落ちたままの翔太の片足が目に入る。  怖い。怖くて怖くて、気持ち悪くて、恐ろしい。  目の前の男も恐ろしいが、全ての現実を突きつけてくる翔太を見るのが一番怖い。 「や、……やだっ」 「何が?」  俺が両足に力を込めて抵抗しても風馬はさらに強い力で俺の掴んだ手を引っ張ってリビングの奥へと引き摺っていく。  恐怖が俺の自制心を上回って、視界が滲む。声に出して嫌だと言えば、頬を涙が伝った。 「嫌、だ!やめろ……っ離せ!」  俺の手を掴む風馬の手をどうにか外そうと躍起になると風馬はこれ見よがしに悲しそうにため息をついた。 「ツれないなぁ」 「ぁっ……い"?!」  俺の手を離した風馬はそのまま俺の前髪を掴んだ。  頭皮に走る痛みに悲鳴を上げた、涙で霞む俺の目の前に風馬の顔がある。  ジロジロと不躾な視線が俺を上から下までまるで値踏みするかのように舐めまわした後、にっこりと三日月に歪む。 「ヒッ」 「うん、詩音君って凄い綺麗な顔してるね。俺の好みだ」  もう片方の手で顎を掴まれ固定される。ニタリと笑うその目に正常な思考を感じられなかった。アルコールのせいかもしれない。 「でも俺には翔太がいるから、ごめんね。」

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