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★クラウディオ
ベッドの上で目が覚めた。
自分の部屋で布団に包まれたまま、ぼんやりする目を擦った。
コーヒーと焼けたトーストの匂いがする。
「クラウ、起きた?」
声がして見るとネクタイを締め、シャツの袖口を直す彰紀の姿があった。
やけに胸がざわつくのは夢を見ていたからだろうか。
「先に仕事行くよ。あとで迎えに来るから準備しといてね」
「……うん」
彰紀の声も何気ないやり取りも、私の今の日常だった。
ベッド脇にきて彰紀が私の頬に触れる。その指先の熱に意識を引かれていると、顎をすくわれ唇が重なった。柔らかく温かい。歯磨きをしたばかりなのかミントの香りがする。
「じゃあ、またあとでね。いってきます」
「うん、いってらっしゃい」
彰紀の背中を見送り、気だるい身体を起こす。
まだ朝の微睡みの中にいたい気持ちはあったが、今日は収録の予定もあるから早めに準備を終わらせて、一度ヴァイオリンに触れておきたかった。
伸びをして布団から出る。
昨夜脱ぎっぱなしにしていたシャツが床に落ちていた。洗面所に持っていこうと何気なく拾い上げた。
「……っ」
そこに残る香水の香りに、一気に昨夜の光景が溢れ出すように頭を支配した。
ヴィンセントの香りだった。
彼に会えて嬉しかった。声を聞けて、その身体に触れられて。
彼のことを200年の時を経ても忘れられなかった。それだけ彼は、ヴィンセントは、私にとって特別な存在だ。
ずっと押し込んで、忘れようとしてきた記憶が堰を切ったように溢れ出てくる。
「ヴィンセント……」
知らず知らず涙がこぼれ落ちる。
自分からまた飛び出して、突き放して彼の側を離れてしまった。いつだって彼は私を見て私を愛しながらも繋ぎ止めようとはしてくれない。それが酷く切なくて、腹立たしい。
シャツを胸に抱きながらベッドに倒れ込んだ。涙は次々と溢れ止まらない。
昨夜、肌に触れた彼の手の感触を恋しく思って仕方なかった。
ヴィンセントを助けて大怪我を負った私は、ヴァンパイアになることで一命をとりとめた。
ヴァンパイアへなって最初の一週間程は、頭痛や吐き気に襲われ苦しみながら、あっという間に過ぎ去った。
創作物の中に描かれる怪物のように、実際のヴァンパイアも日の光に弱く、それは死に至るほどだという。そのためヴィンセントの借りている宿の部屋から出ることも叶わなかった。
苦しむ私を、彼は根気強く手助けしてくれた。
「じゃあ私は死んでいることに?」
「あぁ、もう一週間も行方不明になっているからね」
「そう、だよな……その、姉様は何か言っていたか?」
日中に外に出ていたヴィンセントからの話だけが、唯一外界とのつながりだった。
「彼女もだいぶ気に病んでいるようだった。……それよりも気がかりなのは彼女の夫のほうだ。僕が君の後を追っていったことを知っているようだった。僕が事件に関わっていることに出来れば、自分の妻が執心の男を追い出せるからね」
「そんな……」
ヴィンセントがそばにいることを心強く思いながらも、彼の身を案じずにはいられなかった。
「君が気を落とす必要なんて無いんだよ。僕の油断と不始末がたたったのさ。あの男、恐らくハンターだったんだと思う」
「ハンター?」
「そう、ヴァンパイアを殺すことを使命としているやつらさ。僕のことを調べていたみたいだったし……本当に巻き込んでしまってすまない」
いつもの堂々とした態度も引っ込み、しおらしいヴィンセントの姿に心が痛んだ。
「結果的にあなたが殺されずにすんだんだ。それに私もまだ生きている、だから平気だよ」
彼を少しでも安心させたくて微笑みかける。
ヴィンセントの淡い緑の瞳を見ていると心が安らぐ。夜闇の中では見られない、木漏れ日の差す森のように穏やかだ。
彼の指先が私の頬に触れる。目を閉じると額が合わさり、彼の存在がより近く感じられる。
犯人が捕まらない以上、現場に居合わせたヴィンセントが容疑者に上げられることも安易に想像できた。何よりもいつまでも私の存在を隠し通せるわけもなく、二人で近くのヴァンパイアの集落に向かうことになった。
街を離れる夜。人目を忍びながら、幼い頃から何度も訪れていた湖に足を運んだ。
数日ぶりの外の空気を肺いっぱいに吸い込む。良く晴れていて空には月が輝き、星々が瞬いていた。
ランタンの灯りを頼りに、湖畔を二人並んでゆっくりと歩いた。春の夜は冷え込み、風が骨身にしみる。
街を離れることに寂しさは勿論あった。いざ出立の日になってそれはより色濃く胸を支配していた。
「ここでよく兄弟達と遊んでいたんだ。母上に連れられてね」
「そう、それは素敵な思い出だね」
「だろ? 母は一人でナポリから嫁いできて、ここで私達と過ごす時間が息抜きだったと話していた」
「奇遇だな。僕もナポリの出なんだ」
「そうなのか?」
「あぁ、200年以上も前のことだけどね。そこで生まれ育って、結婚して、家庭を築いていた」
何でも無さそうに話す彼の言葉にかなり驚いた。たった20年生きてきただけでも、長い年月を感じるというのに、その10倍もなんてとても想像がつかなかった。
「途方もない時間を過ごしてきたんだな」
「まぁね……でもあの頃から大して変わらないよ。妻と子どもを病気で失ってからは、研究に打ち込んで、のめり込んで、それだけの日々だ。それだけのために生きてきた。だからヴァンパイアになったところで変わりはしなかった」
ランタンを地面に置いて座り込むヴィンセントの横に私も腰を落ち着けた。湖が波立ち、月光を反射する様が美しかった。
「大切な人を失うのはさぞ辛かっただろうな」
「ふふ、今でも時々夢に出てくる気がするんだ。出会った頃の彼女が、ぼんやりと光の中に立ってこちらを見つめている。だけど手を伸ばしても届かない」
彼が月に向かって伸ばす手にそっと掌を重ねた。
「あなたの奥さんは天国にいるんだ。いつかあなたがそこに行くまで、きっと待っててくれてるんだよ」
ヴィンセントは柔らかく微笑み、私の手を引き寄せ甲に唇を寄せた。
「僕は神の教えに背いている。向かうなら、きっと地獄だ。だから彼女と会うことは、もう無いんだと思う」
「ヴィンセント……」
「それでも僕は構わないよ」
もう一度、彼は私の目を真っ直ぐと見つめたまま手の甲に唇を充てがい、ゆっくりと離れた。
暗くて良かったと心の底から思った。頬の火照りを春の夜風が煽り、過ぎ去る。
「これから向かう集落で儀式を受ければ、日の光への耐性もつく。そしたらどこへだって行ける」
私の手を握り、ヴィンセントは湖畔に視線を移しながら続けた。
「ヴァンパイアの人生は長い。でも本質は人間でいるときと変わりはしないよ。常に刺激を探して、楽しまないとね」
月の光の明るい夜だった。春風の冷たい夜だった。
私はヴィンセントと共に慣れ親しんだ街を後にした。家族や友人や家柄も全てを失い、私を繋ぎ止めてくれるのは肩に担ぐヴァイオリンケースの重みと、前を歩き続ける彼の手の優しさだけだった。
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