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4章 過去と罪と1
★クラウディオ
遥か昔の出来事だ。
18世紀、フランス。
世の中は静かに変わり始め、革命の香りが漂い始めたころ。
子爵の三男だった私は、それなりの幸せに包まれ、何不自由無く暮らしていた。
ずっと続くかと思えた平穏の中、ある春先のことだった。
あの頃から私は、音楽に傾倒し、常に傍らにはヴァイオリンがあった。
姉の屋敷では頻繁に芸術家や学者が集まるサロンが開かれていた。私も音楽を嗜む者として度々足を運び、そこである男と出会った。姉の客人として来訪した彼は、見上げるほどの長身に柔和で上品な仕草が人目を引く男だった。
「弟のクラウディオよ。クラウ、こちらはヴィンセント・コンティさん。古典や遺跡の研究をしてらっしゃるのよ」
挨拶を交わし、彼の淡いオリーブ色の優しげな瞳に目を奪われた。
彼はよく姉の屋敷を訪ね、必然的に顔を合わせる機会も少なくなかった。
「君の弾くヴァイオリンの音色は特別だね。ずっと聴いていたいくらいだ」
「そう? それなら今度来たときは、あなたのために弾くよ」
ヴィンセントは姉の客人であったけれどよく私と話してくれた。私も彼の落ち着いた雰囲気や滲み出る情熱に好意を抱くようになった。
「ありがとう、嬉しいよクラウディオ」
「演奏する代わりにあなたの話も聞かせて? 約束」
しかし、約束の日に彼は姉に連れられて行き、なかなか戻ってこなかった。いつも集まっているメンバーは大して気にする様子もなかった。
姉は結婚していたが、夫婦の事情はそう単純でもない。なにより芸術や学に深い関心を示す姉にとっては、淡白な相手だったのは結婚前からわかっていた。
明るかった外は日が傾き、夜が訪れる。
友人と話して気を紛らわせるのも限界があり、憤りを感じ、思い立って姉の寝室に足を運んだ。
「ねぇ、お願いもう一度だけ」
扉の向こうから聞こえる、姉の上擦った声に怒りもふっと沈んで、変わりに芽生えたのはさめざめとした気持ちだけだった。
「マダム、そろそろ戻らないと心配されますよ」
そして続けざまに聞こえた、柔らかなヴィンセントの声に胸が締め付けられた。
「まだ大丈夫よ、主人が戻るまではもう少し時間があるし……それに、あなたに約束していた分に色を付けるわ」
「マダム……」
「それでも断るのなら、あなたの秘密ばらしたっていいのよ? わかって?」
「悪いお人ですね、あなたは」
「あぁ、ヴィンセント……あなたにならそう言われるのも悪くないわね、さぁ来て」
二人の会話が途切れ、代わりにぎしぎしと軋むような音が聞こえてくる。
胸をざわつかせる感情を鎮めることは出来ず、その場を急いで離れた。
もともと姉の客人として彼女の屋敷に出入りするようになったヴィンセントだ。あくまでも彼の研究の後見人という形だったが、それだけで無いことは噂で耳にしていた。その真相を目の当たりにしたからといって、今更動揺するきらいもない。ないはずなのに。
「私との約束はどうしたんだよ……バカ」
ヴィンセントは理知的で人を惹きつける魅力のある男だった。恵まれたスタイルや美しい顔立ちに加え、物腰柔らかく、刺激を求める聴衆を満足させるような冒険話も多く持ち合わせていた。
中でも集まった学者や貴族を驚かせたのはヴァンパイアの話だった。私の生まれた当時の認識は現代に近く、魔女やヴァンパイアは空想上の生き物でしかなかった。
「今から100年ほど前に大規模な魔女裁判が起きた話は聞いたことがある者も多いだろう。その際に殺された人の中には、本物の魔女だけでなくヴァンパイアもいたんだ」
初めは皆と同じように好意的に受け入れていただけのはずだった。
いつからだろう、その姿を目で追い、話せる機会を待ち望むようになってしまったのは。
「クラウディオどうした、もう帰るのか?」
友人に声を掛けられるのを無視してヴァイオリンケースを背負い、火を灯したランタンを片手に外へ飛び出していた。
肌寒い春の夜風を切り、勢いに任せ歩き続けた。
胸を締め付けられる感覚に混乱していた。
ただの口約束だったのは理解している。そう頭ではわかってはいても、湧き上がる感情を抑え込むことは難しかった。
「クラウディオ!」
虚しさに沈んでいく中、名前を呼ばれた。しんと静まり返った住宅街に響いた声に驚いて振り返った。
月明かりの下を長身の男が駆け寄ってくる。
「ヴィンセント、なんで……」
「約束、していたのに……本当にすまない」
荒く息を吐きながらヴィンセントが深く頭を下げた。
「……姉様と、用事があったんだろ。いいのか出てきて」
誠意を込めて謝る彼に内心ほっとしながらも、口をついて出るのは突き放すような言葉だった。
「君が帰るのが見えて、慌てて追いかけてきたんだ」
淡いランタンの光と月の輝きに照らし出される彼の表情が、心から申し訳無さそうに見えて、それ以上つつく気も失せてしまった。
彼の言葉にいちいち嬉々としてしまう自分がいた。
同性愛など公的に認められるわけもない時代だった。
なにより、彼と自分の姉との関係を目の当たりにしたというのに。
それでも、息を切らせて追いかけてきた彼に、自分の中で沸き立つ感情を止めるすべを知らなかった。
「ヴィンセント、私は……」
胸を燻らせる気持ちを伝えようと口を開いた瞬間、彼の背後できらりと何かが光った。
本能的に悪寒が走り、彼の腕を力いっぱい引き寄せた。
空を切る風の音がして、銀の短刀がヴィンセントのいた場所に振り下ろされる。
「ちっ、外したか」
ぶつぶつと口にする男の青白い顔がランタンの明かりに照らし出される。闇に紛れてしまいそうな真っ黒なコートを身に着け黒い帽子を深く被っている。
「なにをする貴様」
声が震えるのを抑えながら男に話しかける。
「……貴族に取り入るその手口も調査どおりだな……貴族様ぁ、その獣 から離れてください。今、息の根を止めますから」
「何を言っている? 立ち去れば見逃してやる、さっさと失せろ」
けらけらと不気味な笑い声が響く。
「よぉ、ヴァンパイア……ヴィンセントとか言ったか。は、大した名だ。お前にはもったいない名だ。なぁ、知ってるんだよ。相変わらずやり方が汚いなァ。誑かし、姦淫で人心を掌握するとは、悪魔の所業そのもの……ここで地獄に送り返してやろう」
ヴィンセントがヴァンパイア?
唸るようにしゃがれた声で言う男は正気とは思えなかったが、その言葉に少なからず動揺を覚えた。
「クラウディオ、僕を置いて逃げるんだ」
私の前に立ち、ヴィンセントは声を潜めて言う。
「そんなことできるわけないだろ! あなたも一緒に」
男は手元の短刀を構え直すと、深く踏み込んでヴィンセントに切りかかった。
私を突き放すようにして押しやり、同時に男から距離をとるヴィンセント。深い一撃のあと続けざまに振りかぶる剣先を一重の所で躱 していく。黒いコートの裾をはためかせながら、男は軽く不規則に見えながらも着実にヴィンセントを壁に追いやり、とうとうその背中が石壁に押し付けられる。
「これが神の御心。罪ある魂の浄化!」
一層大きく振りかぶり切っ先が弧を描き、ヴィンセントの胸に振り下ろされる。
「ヴィンセント!!」
カランとランタンが地面に落ち、光が乱反射したかと思うとふっと温かな輝きが消え失せる。
「な、なな……なんで」
男の情けない声がしたかと思うとずるりと剣が抜かれ、血が吹き出すのがわかった。
燃えるように熱い、身を引き裂かれる痛みに顔を歪める。
「うそ、だ……くそくそ、貴族に手を出しちまったら、お、終わりだ。くそっ」
ぶつぶつと相変わらず独り言を漏らしながら、男が走り去っていく。
その後姿を見送り、ほっと息をついた。
「クラウディオ……そんな」
背中から胸を貫通する一刺しだった。胸に当てて抑えようとしたその手を濡らし血が溢れ出す。ずるずると座り込み苦痛に喘いだ。
ヴィンセントの手を借りて壁際に落ち着くも、足元に広がっていく血の海が月の光を反射していた。
顔を歪める色男を呆然と眺めながら、徐々に意識が遠のきはじめる。
「どうして……僕なんかを庇うことなんてなかったのに」
ヴィンセントがそう呟き、私の頬を撫でる。
血は止まることを知らずに流れ続けていた。まぶたが重くなり、体も酷く冷たくなってくる。
「……僕の声が聞こえるかい?」
彼の声は聞こえていたが、喉から声を絞り出すことは叶わず、首を動かすことも出来ない。
「もうそんな時間もないか……僕を、僕を恨んでくれて良い」
少し後、感覚の無くなっていく身体に、胸に空いている傷口に血が煮え立つような熱を感じた。身じろぐ身体を抑え込まれ手を押し当て続けられるが、彼が触れている部分の強烈な痛みに頭がおかしくなりそうだった。
「それで、つぎは……」
手が離れていった後も熱くじんじんとする傷に気が遠くなる。
「さぁ、口を開いて……飲み込んで」
今度は口元に手を充てがわれ、反射的に首を振って抗った。べったりと掌についた血の味に顔を歪める。
「くそ、すまない……本当にすまない」
なけなしの力を振り絞って抵抗していたが、その力も次第になくなり脱力する。
今度こそ死を覚悟していると、首に手を回され唇を塞がれた。
淡い意識の中で困惑していると、生ぬるい液体が腔内に入り込む。生臭い、血の味が口いっぱいに広がる。抵抗できないまま血液が喉奥に入り込んでいった。
唇が離れ深く息を吸う。
するとどうだろう、先程まで感じていた痛みが徐々に弱まっていく。
痛みと苦痛に支配された身体が呼吸を繰り返す度に楽になる。
コートもシャツも血で濡れて肌に張り付いている。しかし、触れるとそこにあるはずの傷がない。
まるで今までと違う存在へと変化してしまったような不思議な感覚だった。
死の淵を彷徨 っていたはずの私は、再び命を得た。
「あぁ、よかったクラウディオ……」
地面に座り込み血まみれで、ヴィンセントは心底嬉しそうに微笑んでいた。
「……助けて、くれたのか」
「あぁ。助けたと言っていいのかな……僕は君を」
少し言い淀み、彼は言いにくそうに続けた。
「君をヴァンパイアにしたんだ」
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