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5章 残光と決断と1
あれから数日たった。
俺は、ヴィンセントとクラウディオの関係をこじらせてしまったことを後悔せずにはいられなかった。
「レオ、……君に頼むのは筋違いかもしれないけれど、ヴィンセントのことを気にかけてくれたら嬉しい。身勝手な頼みなのは重々承知しているが私は、彼の側にいてはいけないから……」
電話口で聞こえたクラウディオの声は深く沈んでいた。
ヴィンセントにも何度か連絡をしたが反応はなく、不安が募る一方だった。
人間同士ならただ一緒にいることを選べたのだろうか?
ヴァンパイア同士だということが、事情をこじれさせているのだろうか?
相手を思いやる愛の形が結果として彼らを引き離すことになっているなんて皮肉な話だ。二人とも本心では寄り添い、側にいることを望んでいるように見えるのに。
本格的に梅雨入りし、外に出るとむしむしとした熱さが肌に纏わりつく。
「はぁ、まだ雨降ってるんか。憂鬱やなぁ」
「ですねぇ、練習も支障出るし」
「ほんまそれな。大会まで日もないっちゅうのに」
仕事を終えて、同僚の基村さんと校内を後にした。
「新潟楽しみですね。大会はもちろんですけど、ごはんが美味しそう!」
「はは、せやな。なんや最近元気なさそうやったし、うまい飯くって、ぱーっと酒でも飲んで気晴らししような」
「基村さん……って、だめですよ。選手が頑張ってるのに俺達がハメ外したら」
どんよりとした曇り空の下でも、明るく笑う基村さんを見送って正門で別れた。深く空気を吸い込んで気持ちを切り替える。そして、傘を握り直して日が傾き始めた道を家に向かって歩き出した。
「渡辺くん!」
大学を出てすぐの道路脇に停車している車から、見知った人が顔を覗かせた。
「三浦さん?」
駆け足で近くに行くとやはりそうだ、三浦さんだ。
「どうしたんですか、こんなとこで」
「たまたまその、近所に来てたから寄ってみたっていうか……」
この間カフェでエヴァンといるところを見られたんだと思い出し、真っ直ぐと目を見ることが出来なかった。
「雨だし、送ってくよ」
「……いいんですか? じゃあ、お願いします」
彼の誘いを断るのも変な気がして、素直に助手席に乗り込んだ。
「梅雨入りして大変でしょ。大学から距離あるし」
「そうなんですよ。梅雨明けが待ち遠しいです」
雨の音とワイパーの動く音に混じり、小さな音量で洋楽が流れていた。
初めて三浦さんとドライブに行った時、彼の香水の香りにドキドキしたな、なんてぼんやりと思い出していた。
三浦さんは悪いところなんて一つもないような人だ。一緒にいて居心地もいい。それなのに、惹かれる感覚が無いのは、俺の欠陥なんだと思っていた。
彼だけじゃないその前に付き合っていた人だってそうだ。
俺は、人を上手く好きになれないのだと、そう半ば諦めていた。
窓を滴り落ちる水滴を目で追いながら、向き合いきれずに遠ざけていた三浦さんとの関係について考えていた。
赤信号でゆっくりと車が停まる。
「渡辺くん」
ふと名前を呼ばれて顔を向けると、彼の真剣な瞳と目が合った。
「好きだよ」
はっきりと聞こえた言葉に心臓がどくんと高鳴った。
「出来ることなら真剣にお付き合いしたいなって思うくらい、君が好き」
真っ直ぐな言葉に、柔らかな微笑みに、何も言えずに膝の上のカバンをぎゅっと握りしめた。
いつかこうなるだろうと思っていたけれど、それが今とは思わなかった。
「優しくて明るくて、太陽みたいにあったかくて……君の横にいると安心するんだ」
好意を持ってもらえているのはなんとなく感じていたけれど、こんなにも想ってくれていたなんてと呆気にとられる。
「ありがとう……ございます」
嬉しさよりも後ろめたさが冷たく胸に広がった。応えられない苦しみに、罪悪感も相まって泣きたくて堪らなくなった。
「でも、俺……その」
車が再び走り出しフロントガラスに雨が打ち付ける。
「わかってる。好きな人がいるんでしょ?」
三浦さんは、そう穏やかな声で続けた。
「ごめんね。困らせたいわけじゃないんだ……ただ、告白しないと次に進めない気がして。振られるってわかってて言ったんだ。だから、気に病まないで」
どこまでも優しい彼の、その思いやりが余計に辛かった。
はっきりと拒否できずに中途半端にずるずると関係を続け、俺はこんなに素敵な人を傷つけてしまったんだと思い知らされる。
「渡辺くんと出会えて、仲良くしてもらえて、それだけでちょっと自信になったし……君の優しさに触れて癒やされた。それで充分だから……ね、渡辺くんは渡辺くんでその人と幸せになって欲しいよ」
思わず涙が零れ落ちていた。
エヴァンに出会って彼に惹かれて、彼を求めてしまう自分を抑えられなかった。
頭では三浦さんのほうがいいって、こんな人と一緒になれたらきっと幸せになれるってわかっていながらも、身体は、心は言うことを聞いてはくれなかった。
「ごめん、なさい……」
せめて俺から、振ったら良かったのだ。
はっきりと気持ちを伝えたら良かったんだ。
「あぁ、ほら……泣かないで?」
車を道路脇に止めて、三浦さんの手が頬に触れた。
優しく涙を拭ってくれる。思っていたよりも穏やかなその表情に胸が苦しくなる。頬に触れる彼の手をぎゅっと握って温もりにまた涙が滲んだ。
「はぁ……抱きしめたくなるから、そんな表情しないで」
はっとして、慌てて彼の手を離した。
「ご、ごめんなさい……そういう、つもりじゃ」
「わかってる」
頬を優しくつままれ、名残り惜しそうにその手が離れていく。
「さ、帰ろう? 疲れてるでしょ」
にこりと微笑んで、三浦さんがまた車を走らせる。
雨が沈黙を包み込むように降り続けていた。
家の前につき、車が停まる。
「じゃあ、また……または、おかしいか」
三浦さんは自嘲して深くため息を吐いた。
「でも……また会うことがあったら、友達として話せたらいいな」
「はい、もちろんです……俺」
彼の顔を改めて見ると涙が滲んできた。こんな顔して困らせたくないのに、抑えが効かない。
「三浦さんのこと……好きでしたよ。その、一人の人として」
いつも穏やかで紳士的で思いやり深い、俺にはもったいないくらい素敵な人だ。
「でも恋人にはなれない、です」
「うん」
三浦さんは切なそうに微笑む。
「ごめん、なさい……」
「ううん。ありがとう、これで次に進めるよ」
「はい……じゃあ。その……送ってくれてありがとうございます」
「うん、じゃあね」
深くお辞儀したのと同時にぽたりと涙が溢れた。気づかれないように傘をささずに外に出て、できるだけ笑顔で手を振った。
エヴァンに出会わなければきっと彼と付き合っていたと思う。
だけど、俺は、俺の好きな人に出会ってしまったから。
心から求める人に出会ってしまったから。
土砂降りの雨に濡れながら急いで玄関まで走った。
玄関口でしばらく立ちすくんでいた。髪も仕事着のジャージも濡れてしまっていた。
「おかえり……どうした、大丈夫か」
物音を聞いてか、エヴァンがリビングの方からやってきた。
俯いて黙っていると、流石に不思議に思ったのか顔を覗き込まれた。
「レオ……?」
エヴァンの顔を見たら、声を聞いたら止まりかけていた涙が再び滲んできてしまった。
「タオル持ってくる」
エヴァンがそう言って洗面所からバスタオルを持って戻ってくると、ふわりと俺を包んだ。
「……泣いてるのか?」
拭っても水滴が伝う頬に気付いたのか、エヴァンが心配そうに眉を潜める。タオルでくるまれたまま抱きしめられ、そっと彼の背中に手を伸ばした。
なんでこんなにショックを受けているのか自分でも良くわからなかった。ただ申し訳無さでいっぱいで、傷つけたことが苦しくて――。
「……誰かといたのか?」
密着していた身体を離し、エヴァンが俺の顔を覗き込んだ。
「香水の匂い……なにかされたんじゃ」
酷く深刻な顔をするエヴァンにふるふると首を振って見せる。
「違うんだ。その、……実は三浦さんに会って送ってもらって、それで……好きって、言われて」
眉根を寄せて、明らかに不機嫌そうな表情をするエヴァン。
「付き合えないですって、断って」
「……それで何か言われたのか?」
「ううん、そんな人じゃないよ。そんな人じゃないから……中途半端な態度を取ってた俺が悪いのに責めてもくれないから、すごく申し訳なくなっちゃって」
また泣いてしまう俺をエヴァンはやや不満そうに見ていたが、それ以上はなにも言わずに涙が止まるまで抱きしめてくれていた。
雨で濡れて冷えた身体をシャワーで温め、リビングに戻った。ソファで本を開いていたエヴァンは俺を見るとすぐ本を置き、彼の横に座るとそっと抱きしめてくれた。
「ごめん、もう大丈夫だから」
エヴァンは俺を胸に抱いたまま暫く何も言わなかった。彼がこうして慰めてくれるお陰で胸を占める罪悪感も紛れた。
雨脚は弱まること無く、雨は降り続けていた。
ゆっくりと身体を預けたままでいると、ふとエヴァンが立ち上がりキッチンの方へ向かっていった。戻ってきた彼はアイスを手にしていた。
「風呂上がりはアイス、なんだろ」
差し出されるカップを受け取りながら、前話したことを覚えていたんだと嬉しくなった。
エヴァンと出会って2週間とちょっと。
出会っていきなり身体を許したり、一緒に暮らすことになったりと、普通とは違う時間を過ごしてきた。こんなにも短い付き合いなのに、日ごとに惹かれて愛おしく思う気持ちが強くなった。
「ありがとう、エヴァン」
彼が微笑んでいるだけでこっちまで気分が和らぐ。不器用な優しさや俺をまっすぐと見つめる青い瞳に胸が高鳴る。もっともっと近くに行きたいと、彼を知りたいと思ってしまう。
再び横に座るエヴァンを見つめて、口を開く。
「あのね、俺……エヴァンのこと」
どうしようもなく胸を焦がす想いは真実だと思えるから。
そう、想いを伝えようとしたとき、チャイムが響き渡った。
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