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序曲(オーヴェルテュール)1 side奏多

「…今、なんっつった?」 耳に当てたスマホの向こうから聞こえてきた言葉を信じたくなくて、俺はもう一度聞き返した。 『だから…ごほ、げほっ…インフル、だってさ…げほ、げほっ…しばらく、がっこ、無理…ごめ…ごほっ』 「はぁ!?試験、3日後だぞ!?伴奏者のおまえがいなくて、どうすんだよ!?」 『ごめ…ごほっ…って…ごほごほ…』 「…わかったよ…」 苛立ちと焦りのままに、通話の向こうの夏生(なつお)に詰め寄ろうとしたけど。 あんまりにも苦しそうな様子に、ぐっと言葉を飲み込む。 この試験の成績次第で 来年も特待生でいけんのか決まるんだけど… だからって夏生に無理言うわけにもいかないし 特待生じゃなくなったら… このクソ高い学費 全額母さんに出してもらうのは厳しいよなぁ… 仕方ねぇからバイト増やすか、なんて諦め始めた時。 『伴奏、なら…げほっ…だいじょぶ…ちゃんと代わり、頼んどいたから』 「え?代わり?」 『うん…ごほごほっ…じゃ、俺寝るから…試験、頑張ってね』 「お、おう。お大事に」 俺の言葉の途中でぷつりと切れたスマホを眺めながら、つい首を傾げる。 代わりって… こんな試験直前に受けてくれる奴なんているわけ? しかもあと3日しかないんだぞ? …絶対、無理だ… 「はぁぁ…練習、しよ…」 それでも来年の特待生の為に足掻けるだけは足掻こうと、大きな溜め息を吐きながらバイオリンを持ち上げた、その時。 コンコン、と控えめに練習室のドアをノックする音が聞こえた。 …もしかして、夏生が言ってた代打の人? 急いでドアを開けると。 そこに立っていたのは、俺より頭ひとつ分背の低い、でも息を飲むほどに美しい、男。 「…君、一之宮奏多(いちのみやかなた)くん?」 発した声は、少しハスキーで。 でも心を震わせる楽器の音色のように、澄んでいる。 「あ、うん…」 その切れ長の、ブラックダイヤモンドのような瞳に見つめられて、ドキンと心臓が跳ねて。 その直後に目に飛び込んできた物に、さらに心臓が大きく跳ねた。 首に巻かれた クリーム色のチョーカー この人、もしかして…… 「…牧野夏生くんに、君の伴奏頼まれてきたんだけど」 俺の不躾な視線が気に入らなかったのか、不快そうに眉を潜めながら、男が言う。 「あ、あぁ…」 そんな顔も、めちゃくちゃ美人だな…なんて、ぼんやり考えながら上の空で返事をすると。 ますます、眉間の皺を深くした。 「…伴奏、いらないんなら、帰るけど」 そうして、くるりと背中を向けたから。 「っ…い、いるっ!伴奏、いるっ!」 慌てて、その背中を引き留める。 「…はぁ…じゃあそこ、入れてくれる?」 心底仕方なさそうに、大きな溜め息を吐きながら振り向いて、指をさされて。 そこで初めて、自分が入口を塞ぐように立っていたことに気がついた。 「あ、ご、ごめんっ!」 急いで身体を退けると、また溜め息を吐いて。 俺の横をすり抜けるようにして、練習室に入ってくる。 そのすれ違う瞬間、ふわりと甘い花のような香りが微かにして、また心臓が跳ね上がった。 「…あんた…あの…」 真っ直ぐに部屋の中央に置いてあるグランドピアノへ向かう背中に、恐る恐る声を掛けると。 「あぁ…名前わかんないと不便だっけ?俺、九条凪。よろしく」 さらりと、自分の名前を口にした。

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