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第2話

 大学会館2階、購買部を抜けた奥にアルバイト紹介掲示板がある。最近の学生さんはインターネットで探す人も多いと職員のおばさんは言うけれど、ネットの求人募集サイトは使い方がよくわからないし、危ない職場に当たりそうで怖い。大学関係の紹介なら無茶苦茶なことはないだろうと思う。  幸い父の病気は落ち着いて、今年から復職することができた。奨学金を借りさせた分、仕送りくらいはできると言う。けれども以前ほど稼げる仕事でないのは知っているし、弟3人にはこれからお金がかかる。もう働ける年なのだから、自分にかかる分は少しだけでも稼ぎたい。食べないといけないし付き合いもあるし、そのうちに自動車の免許だってとらないといけない。  塾講師は時給はいいけれどサービス残業が多いので実入りが悪いらしい。家庭教師の紹介というのもあるけれど、かけ持ちしない場合の収入はどのくらいだろう。接客業ならまかないのある飲食店のほうがいいだろうか。清渓寮には炊事場はあるが定期的な食事の提供はない。週何回かの飲食バイトでまずは小遣い程度を稼いで、慣れてきたら日雇いも組み合わせて収入を増やすのはどうだろう。昼休み中掲示板の前で腕を組み続けて、結局何も決まらなかった。  5時間目まで受けて、夕食は生協中央食堂でかけうどん小とかやくご飯のおにぎりを注文した。席を探していると、2人がけ席に1人で座っているサカケンさんと目が合って、向かいに座らせてもらえた。 「夜それで足りるの」  足りないけれど食費を抑えたいので仕方がない。部屋にプライベートブランドのカップ麺やカロリーの高いチョコレート、重量のある菓子パンなどを置いてそれで調整している。サカケンさんは皿の上の唐揚げを1つ、(わたる)のうどんに載せてくれた。 「サカケンさんバイトって何してるんでしたっけ」 「イベントスタッフとドラッグストア。バイト探してるの」 「そうなんですけど、何がいいのかひとつもわかんないす」 「寮で誰かに聞いてみたら。ネットにも生協にもないようなの知ってるのいると思うけど」 「あー」  部活や研究室の中だけで代々受け継がれるアルバイトの口も珍しくないと、そういえばこれも聞いたことがある。清渓寮も歴史のある寮なのだから、そういう話があるのかもしれない。 「俺もちょっと聞いてみようか。談話室とか同じ階の奴とか、彼女にも」  サカケンさんは4棟の同級生と付き合っている。教養教育部のカフェで会ったことがある。背が低くて目が大きくてふわふわのワンピースを着ていて、口を開いたら関西弁でゲリラ豪雨みたいに喋るのでびっくりしてしまった。サカケンさんは彼女のたくさん喋るところが好きらしい。目の前の航ではなく隣の彼女の顔ばかり見て、ずっと笑っていた。大学生のカップルだ、本物だ、と思ったあと、ほんの少し寂しくなった。  キャンパス裏門から清渓寮までの道を、サカケンさんと一緒に自転車を漕いで帰った。右手に林、左手にときどき住宅やコンビニや食堂がある、7分くらいの道のりだ。サドルの上でまっすぐ伸びているサカケンさんの背中を、実家から運んできた自転車で追いかけた。  早いうちに風呂に入ってしまうことにした。この時間ならそれほど混んでもいないだろう。汗を流したら、今夜こそはB談話室に行かずに勉強して眠りたい、と思ったが、そういえばサカケンさんが談話室でアルバイトの話を相談してくれるらしい。そうなると行かないわけにもいかない。日付が変わる前に顔を出してすぐ退散するしかない。  清渓寮の男子棟のうち個室に風呂があるのは3棟だけだ。各室キッチン風呂トイレつきの3棟に対して、1棟はトイレまで共用だから安い。風呂場は公式には17時から24時までだけれど、清掃の時間でなければシャワーくらい浴びられるし、平気で湯船を使う人もいるそうだ。だいたい清掃も寮生の仕事なのだからどうとでもなる。  脱衣場に入ると、どうやら誰もいないらしいことがわかった。急いで服を脱いで浴場に入り、7つある洗い場のうち1番奥で体を洗った。湯に足をつけたところで扉が開いた。航は目だけをそちらに向けてすぐに戻した。4年のカクタさんだ。邪魔すんねえと言われて、小さい声でいいえと応えた。  父が仕事を休んで母が仕事を増やしたとき、自分は高校を出たらすぐに働くんだと思った。18歳になったら大学に行くものだという根拠のない思い込みは捨てることにした。父と母は航を止めた。大学を出すお金くらいは貯めてあると言われた。けれど下の弟はまだ小学生だ。何度も話し合って結局奨学金を取ることに決めて、地元の本命校には落ちて今の大学に後期入試で滑り込んだ。合格が決まったのは春先だったから、寮に空きがなかったらどうしようかと思った。一人暮らしも食事付き学生アパートも高い。清渓寮第1棟はとにかく安い。とにかく安い代わりに、人と同じ風呂に入らないといけない。  カクタさんが湯船に入ると一気に湯が溢れる。カクタさんの体には筋肉も脂肪もたくさんついていて、縦横奥行き全部が大きい。正直、初めて見たときから今まで1度も、21歳だなんて信じていない。38歳くらいだ。サカケンさんの締まった体ともメロスの骨の太い体とも違う。こんな風にじろじろと人の裸を見たくなんてない。けれど、だから3棟に住みたいと親には言えない。  アルバイトの口は、結局サカケンさんの彼女経由で見つかった。清渓寮から自転車で10分ほど、駅から少し離れたところにある個人経営の居酒屋「みさきや」だ。時給がそこそこよくてまかないがおいしくて大将とその彼女がいい人で、歴代のバイトはほとんど清渓寮の寮生か元寮生、またはその友だちなので安心だそうだ。  土曜の午後に面接に行った。背が低くて肩幅の広い、白髪まじりの大将が出迎えてくれた。2階建ての店で、1階に厨房とカウンター、テーブル席が5つある。2階は座敷と従業員控室だった。 「年度末まで頑張ってくれる予定だった院の子が事情あるらしくて急に辞めちゃって。1年生に来てもらえるとありがたいから」  奥のテーブルで航と向かい合って、大将は言った。仕事はホールと、慣れてきたら調理補助。今いるバイトは4人で、平日は1人か2人、金土曜は3人で回している。オープンは17時でクローズが23時半、前後に仕込みと片付け。月曜定休。予約の状況にもよるけれどオープンかクローズのどちらかにはいてもらえると助かる。 「よかったらとりあえず研修で入ってみる? ゴールデンウィークはご実家に帰るよね?」  そういえばもう連休が近い。ちょっとくらいは帰ってくるよねと母から電話があったけれど、まだ決めかねていた。格安のバスなら十分帰れるとも、それでも高過ぎるとも思う。 「はい、是非、あ、連休は、でももう人足りてるんですか、混みますよね」 「ああうん、連休中はベテランが毎日オープンクローズで入ってくれることになってるから。今日もそろそろ来ると思うよ、彼は土曜の仕込みも手伝ってくれるから。会ってく? なんならまかないも作ってもらったら。夕飯にはちょっと早いか」 「いえ、あの、ありがとうございます、頑張ります」  背後で引き戸の転がる音がした。 「お疲れさまっす、あ、面接だ。こんにちは」  振り向くと男の人が立っていた。黒のシャツと黒のズボンを着て、長い髪を後ろでまとめている。シャツもズボンも大きめで、中で体が泳いでいるように見える。 「こんにちは」  できるだけ大きめの声で返した。接客業に就こうとしているのに無愛想に見えるのはまずいと思った。大将が言った。 「寮の1年生。仕込みの前にまかない作ってあげてくれる」 「かしこまりましたぁ」  男の人は2階に上がって、下りてきたときにはエプロンと名札をつけていた。名札を見て、あ、と航は思わず言った。男の人がにやりと笑った。 「はじめまして、ガンディーです」 「ああ、あ、はじめまして工学部1年の新藤航です」 「彼本名山口くん。店ではガンディー。新藤くんも名札は適当にあだ名にしてね。エプロンは支給で服は黒っぽくて動きやすい奴でいいです」  大将が言ったので、「名字がガンダさん」説は消えた。ガンディーさんは厨房に入って、ありもんでいいよね何か食べれないのあるのと言った。ありませんと返した。 「今はガンディーが1番長くて、何年だっけ」 「6年す」 「そうそ、あとは女子3人、みんな学部生で」 「ミホが3年でスマイルとハナブサが2年」  厨房から脂と醤油のにおいがしてきた。大将いわくここで店を開いて23年目で、最初にバイトに入った男の子が清渓寮の学生だったので、そのまま代々寮生を雇っている。メニューを説明してもらったり席の番号を教わったりしていたところにガンディーさんが皿とお椀を持って厨房から出てきた。ガンディーさんは笑った。 「ほい」  何かの肉の入ったチャーハンと、卵と青い野菜の入ったスープだった。いただきますと大きい声を出してから掻き込んだ。台所で作ったものの味だと思った。台所で誰かが航のために作ったものの味だ。ガンディーさんは航の前に立ったまま、航がチャーハンを掻き込むのを眺めていた。右の手で左の肘を掴んで言った。 「やっぱ若い子がメシ食うとこはいいもんだね」  本当に40歳くらいなのかもしれない。でも今はどうでもいい。たぶん5分ばかりで食べ尽くした。結局何の肉なのか何という野菜なのかさっぱりわからなかったけれど、それも別に構わなかった。これがまた食べられるなら、ここで頑張ってみようと思った。  ガンディーさんが皿を下げるのを見てから大将が言った。 「じゃあ連休明けたとこの水曜から研修しようか。何かあったときの連絡は店でもいいけどガンディーでも大丈夫、シフトも全部見てくれてるから。連絡先交換しといて」  調理場から帰ってきたガンディーさんとメールアドレスを交換した。これはメロスに怒られるなと思った。電話帳の登録が終わったのを確認して、携帯電話から視線を上げたとき、ガンディーさんが片目だけ二重なのに気づいた。

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