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第5話

 まず平日の営業で研修をすることになった。先輩アルバイトがメインで入っている横で、おしぼりを出すとか皿を下げるとかすることから始まった。そのくらいのことが少しもまともにできなくて驚いた。いつおしぼりを差し出すかいつ皿を下げるか、その程度のこともわからないことがわかった。その程度のこともわからないのに、大将もミホさんもスマイルさんもハナブサさんも、誰もきつい言葉をかけてこないので困ってしまった。部活なら怒鳴られるのになと3年も前にやめたハンドボールのことを思い出して眠れなくなった。眠れなくなって、はじめて1時間目を寝過ごした。 「大丈夫だって。あのセンセ欠席3回まで余裕ってサークルの先輩に聞いた」  2時間目の講義室にジャージで飛び込んだ(わたる)の肩を叩いて、メロスはそう言った。 「単位落とすことないって」 「落とすとか落とさないとかそんな低次元の話じゃない」  切れ切れの息の隙間でそう返すと、メロスは肩を叩く手を止めた。航はメロスの顔を見た。弓なりの眉が思い切り下がっていたので、言葉選びを間違えたと思った。 「ごめん。ちょっとパニックになってた。寝坊とかしたことなかったから」  メロスは、今度は弓のてっぺんを馬鹿みたいに持ち上げた。 「そういうこともあるって。ノートコピーいる?」 「いる。ありがとう」  7回目の出勤を終えて、授業を受けてアルバイトをすると疲れることに気づいた。日に4、5コマの講義と演習はとりあえず出席するだけでよし、あとは週に2、3回のアルバイトというくらいなら問題なく回せそうだけれど、できるだけ優秀な成績を出したいと思うと予習復習の時間がいるし、課題も手を抜くわけにいかない。専門科目の方はそこそこいけているけれど、語学と共通教養が手に負えなくなりつつある。その上、飲食に慣れたら他のバイトも増やすつもりだった。そして、以上をストイックにこなすだけの生活を送るには清渓寮には誘惑が多すぎる。  そういうわけで、ミスなくオーダーをとり、飲めない生ビールをうまく注げるようになったころには、授業中の居眠りくらいは珍しいことではなくなった。復習と、語学以外の予習もちょこちょことサボる。家族に申し訳ないとも思ったけれど、はじめてのバイト代ですき焼きのギフトセットを贈ったら、珍しく真ん中の弟からありがとうと電話があったのですぐ気をよくした。気をよくして働いていたら、はじめてお客さんに怒鳴られた。  金曜シフトで店は混んでいた。怒鳴ってきたのは座敷席で飲んでいた中年サラリーマン4人の1人だった。みさきやはごくごく普通に客層のいい店で、店員に向かって声を荒げるお客さんはそう多くない。それが、特にオーダーミスもしていないし、何かをこぼしたわけでもないのに、テーブルの隅に積まれた空の皿を下げようとしたら怒鳴られたので驚いて動けなくなった。動けなくなっていると余計に怒鳴られた。  何かが気に入らなくて怒鳴っているらしいことはわかるけれど、呂律が回っていないので何を言っているのかちっともわからない。同じテーブルの他の3人が彼の肩を抱えたり、まあまあ落ち着いてとかなんとか言ったりして諌める。それも癪にさわるらしい。体を乗り出してきた。 「すみません、何か粗相がありましたか」  振り向くとガンディーさんが立っていた。 「はい、はい。はい」  お客さんは相変わらず呂律が回っていないのだけれど、ガンディーさんには聞き取れるらしい。 「なるほど、はい、それはもう、そうですね、はい、でしたら僕が、はい」  ガンディーさんはにこにことうなずくだけで、意味のあることは何も言わない。何も言わないのに、何故だかお客さんはだんだんと縮まってきて、はあとかまあとかわかればいいとかなんとか、これもよくわからないことを一頻り言ったあと静かになった。彼の方を抱えていたお客さんが航の顔を見て、お兄ちゃんごめんねと言った。  最後のお客さんをお見送りして、テーブルの上を片付けているときに力が抜けた。涙が勝手にこぼれそうになるのを意地で飲み込んだ。このくらいで動じていたら社会で通用しないと頭の中で繰り返した。グラスと皿とダスターの山を全部お盆に載せて調理場に入ると、シンクを磨いていたガンディーさんと目が合った。すぐに逸らした。今日はもう、うまく人と話せる気がしない。  店を出て、小さい角3つ分歩いたところにガンディーさんがいた。またかよと思った。 「おつかれぇ」 「おつかれさまです。ガンディーさんまだ店だと思ってました」 「追いつこーと思って。お腹空いてないかい」  まかないは開店前に食べて、そこからひたすら働いて今だ。大丈夫ですと言うつもりで、空きましたと言っていた。 「ラーメン食べてこうよ。奢るから。通りの裏にうまいとこあるの」  正直なところ、1人ではやく眠りたい。けれどもここで断るのは後輩として感じが悪い気がする。だいたい、ラーメンと聞いただけで口が渇いてきた。 「ありがとうございます」  表通りから一本入ったところに、ほとんど小屋みたいな建物に昔は赤だったのだろう色の褪せたのれんのかかった、航1人ではちょっと入れないラーメン屋があった。ガンディーさんは平気でのれんをくぐって、アンチャンこんばんはぁと言った。  カウンター席が8つ、誰かが席に着いたらそれで通路が半分なくなるような店の、右の端の席にガンディーさんは座った。左隣に並ぶ。 「しょうゆがおすすめ。若い子はチャーシューも載せた方がいいよ。大盛りで」 「そしたらそれでお願いします」 「アンチャン、この子大盛りしょうゆにチャーシュー、俺金麦のおっきいの」  ガンディーさんが卓上の水差しからコップに水を注いで回してくれる。小さい岩みたいなアンチャンが、普段みさきやで見るのよりふた回りくらい大きなジョッキをガンディーさんの前に置いた。 「しょうゆはちょっとだけ待ってね」  それだけ言ってアンチャンは鍋の前に帰った。 「ラーメン食べないんですか」 「夜中にモノ噛むのめんどくさいの」 「はぁ」 「大丈夫金麦にもカロリーあるから」  それでいいのだかどうだかさっぱりわからない。ガンディーさんはジョッキを煽り、5分の1ほどひと息に飲んだ。シャツの袖口がずり下がって、骨みたいに細い手首が見えた。 「はいしょうゆチャーシューメン」  ほんとうにちょっとの待ち時間でラーメンが出てきた。スープのにおいがいっぱいに広がって、ガンディーさんの手首を航の頭から追い出した。いただきますと言って麺を啜った。うまい。分厚いチャーシューをかじる。うまい。 「どう、仕事慣れた」 「はい、まあ、それなりに」  ラーメンを掻き込む隙間で応える。 「困ることあったらちゃんと言ってね、あの店みんないい人なんだから」 「はい、ありがとうございます」  あのお客さんの顔を思い出してまた涙が上がってきたけれど、ラーメンを口に入れるとすぐ下がった。体を動かしたあとに食べるラーメンの味をすっかり忘れていた。  気がつくと丼が空になっていた。その間ずっとガンディーさんは何も言わなかった。ふと隣を見ると、ガンディーさんは真正面を向いてジョッキの中身を飲んでいた。 「すいません、うまくて一気に食べちゃいました」 「いいえ。ごめんね俺まだちょっと飲んでる。先帰る?」 「いえ、急いでないです、います」 「そう。チャーハンとかもらう?」 「や、大丈夫です」  食べようと思えばまだ食べられるけれど、奢りだと言われているので気が引けた。ガンディーさんは一定のペースで静かに酒を飲んでいる。アンチャンは鍋の前にいる。他にお客さんはいない。使い込まれたカウンターと油の染み付いた壁と、マジックの色の抜けた壁貼りメニューを眺めていたら頭の中にメロスが湧いて出て、航に口を開かせた。 「あの、ガンディーさんはみさきや長いんですよね」 「うん、6年」 「フリーターなんですか」 「ううん、同じとこの大学生」 「医学部とか」 「理学部。医者のいじゃなくて理科のり」 「4年で卒業じゃなかったですっけ」 「留年してると8年までいられて、うちは別途4年まで休学ができるのね。俺は2留に休学2年で8年目の6年生」  とうに40代説は嘘だったけれど、それでも相当年上だ。頭の中で計算する。 「1年だけ別の大学通ってたんだけど、やめてこっち来たの」  わけがわからなくなったのでやめた。 「え、なんでそんな、なんかこっちでやりたいこととかあったんですか」 「星がきれいなとこで勉強したくて」 「そうですか」  間抜けな相槌になってしまった。  2留とか3留とか、噂に聞いたことはあるけれど本物ははじめて見た。しかも休学2年はすごい。病気かなにかだろうか。そうだとしたらこれ以上深追いはよくない。 「ぼけっとしてたら8年も経っちゃって。インドも行ったよ。その前からガンディーだったけど」  単にいい加減な人の可能性が高くなった。そう思うと腹が立ってきた。こっちはできるだけ安く早く大学を出てきちんとした仕事に就かないといけないのに、いい年をしてこうも適当な生き方でいられる人間もいる。不公平というものだ。  ガンディーさんがジョッキを空にして、2人で店を出た。大盛りチャーシューメン代を出してもらっている間に怒りがしぼんだ。 「ちょっとわかりにくいけどこっちの方が寮近いのよ」  ガンディーさんはそう言って、そのまま裏道を歩き始めた。すぐに住宅街に入る。どこが公道でどこが人の土地なのかもよくわからない。 「あとこっちのが暗いから、ほら、きれいっしょ」  指し示された空を見る。白い点がいくつも散らばっているのがわかる。 「前の大学は都会だったからほんとマジ全然なんも見えなくてさ」  都会の夜というものを航はよく知らない。実家の庭から見る空もこんなものだったような気がする。夜空を見上げることそのものをほとんどしたことがなかったかもしれない。ガンディーさんが言った。 「うちの大学、学部生のときから宇宙の研究できんだ。前の大学は機械工学やってたんだけど、やっぱり星のことやりたくてこっち来たの。まあ、結局あんま大学行ってないんだけどさ」 「宇宙ですか。好きなんですか」 「好きだよ。大きくて大きくて、わかんないことだらけなとこが。ワタルくんはどうしてこっち来たの」 「いや、地元の大学落ちまして、うち浪人するお金ないから後期で確実に入れるとこじゃないとだめで、アパートも高いんで安い寮がほしくて」  ここまで正直に言うのは、家族以外でははじめてだった。はじめてだったけれど、ガンディーさんなら大丈夫だと思った。ガンディーさんは笑って、ワタルくんは偉いねと言った。背中に手が回ってきて、ぱんぱん、と叩かれた。真っ白に痩せているくせに手は温かくて、しつこく涙が上がってきたので堪えた。2人とも黙って歩いた。

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