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第7話

「オダガワさんでしょ普通に」  3棟にガンディーさんの友だちがいるっぽいんですけど。カウンター裏で水割りグラスを並べながら世間話のように聞いてみると、ミホさんは世界の常識を聞かれたみたいな顔をして言った。 「や、普通にと言われましても」 「あれ2人会ったことないんでしたっけ大将」  大将が厨房から顔を出す。 「オダガワ抜けたから新しく入ってもらったんだって」  院の子が辞めちゃってと面接の時に聞かされたのを、(わたる)は思い出した。大学院生ならサカケンさんたちよりは年上だ。ガンディーさんと比べるとよくわからないけれども。 「すごい働き者の子だったんだけど、バイト続けられない事情ができたって。真面目な感じだったけどガンディーとはよく遊ぶって言ってた」  カンディーさんはあの次の日も、左の頬に大きなガーゼを当てただけで、いつもと変わらず出勤してきたらしい。 「オダガワさんってほんとの名前ですか」  くだらないことを聞いてしまった。大将は厨房に顔を引っ込めながら答えた。 「そうそう。小さいに田んぼに親子川の字の川」 「変なあだ名つけたくなるタイプじゃなかったもん。うちの院生にしちゃシブめのイケメン。うちにしちゃ」  ミホさんは喉の奥で笑って、暖簾をかけに表へ出た。  スマイルさんとハナブサさん、大将の彼女さんからも話を聞いた結果、小田川さんは3棟に住む理学研究科の大学院生で、今年で修士課程の2年目で、ガンディーさんといつもつるんでいたということがわかった。彼女さんいわく、ほんと2人仲良くてどっちかバイトの後も夜中じゅう遊ぶって聞いたし、なんか確かシフト合わせて旅行とかもしてたと思う、お土産もらったよとのことだ。  ついでに、ガンディーさんがなんだか複雑な通い方をしてこの大学にもう7年以上いることも今は清渓寮を出て近くの安アパートに住んでいることもみんな知っていて、B談話室でのように謎のヌシとして扱われているわけではまったくないこともわかった。  航がこれだけ聞いて回っていることがガンディーさんの耳に入っていないものかは疑問だけれど、ともかく本人は何も変わらなかった。そのうちガーゼも外れて、あの晩のことは何も覚えていないように見えた。  一方、B談話室で小田川さんの名前を出してみたところ、現役の寮生の話なのにほとんど誰も知らないことがわかった。 「小さい寮じゃねえしさ、皆知り合いってこたねえよな」  カクタさんが言って、隣のメロスがなぜか得意そうな顔で頷いた。カクタさんの台詞は正しいはずなのだけれども、現に近所で生きているガンディーさんについて「諸説ある」とあることもないことも流布されている寮で言われるとどうも納得感がない。  そこにエミリアが、今にも背表紙が千切れそうな汚い文庫本を持って割り込んできた。 「嘘、小田川さんでしょ3棟303号の。レアキャラですけど結構女子人気あるんですけど皆知らないんですか。ワタ写真見る?」 「写真?」 「写メ」  エミリアはジーンズのポケットから携帯電話を出して、ボタンを1つ2つ押して航に差し出した。画面には、キャンパスのどこかだろうか、知らない建物から出てくる男の人を遠くから撮った写真が表示されている。画質があまりよくないけれど、背が高くて浅黒くて、顔立ちがまっすぐ整った人なのがわかる。適当な言葉を頭の中で探して、精悍という単語を思い出して、でも口からは別の言葉を出した。 「なんかめっちゃ、あれ、隠し撮りっぽくね」 「あたしじゃないよ。ファンやってる先輩が撮った」  メロスがはんと鼻を鳴らして肩をすくめた。何だか知らないけれども大仰な気分の日なのかもしれない。 「何よ女子人気って。ファンって」 「裏できゃっきゃ騒ぐのにちょうどいいからさあ。顔よくて感じいいけどあんまり人付き合い多そうじゃなくて、なんたって女が裏できゃっきゃするのをモテと勘違いしなそうな佇まい」 「モテだろうよ」 「全然違う」  メロスとエミリアはあっという間に小田川さんから脱線して、モテがなんだとかイケメンがどうだとかで口から泡を飛ばし始めた。カクタさんはそれを横目で眺めながら缶コーヒーを啜って、ああそうかと言った。 「3棟の3階って結構マジなタイプ多いっつーから、それでたぶんあんま名前聞かんのだわ」 「マジなタイプってなんですか」 「青春を談話室で浪費する俺らみたいんじゃなくてちゃんと学生の本分に勤しむために寮にいるタイプよ。3棟は間取り普通のアパートだから別に誰とも付き合わんでも暮らせるもんよ」 「言ってカクタさん結構いいとこにちゃっかり就職決まってるって聞きましたけど」 「それはそれよ。あとちゃっかりって何よ」  カクタさんと思いつきの会話を続けながら、航はまず、そんな人がなんだって7年だか8年だか大学に居座るような人と親しくなるんだろうと考えた。事情があってみさきやをやめたのに、ガンディーさんとはまだ夜中に部屋で会うくらい仲がいい。  次に、自分がいつの間にか談話室で青春を浪費する側に入っていることに気がついた。夜働いて昼大学に行くリズムには慣れたけれど、寝坊で欠席が続いて出席点が怪しい講義もあるし、最初の数回は簡単だったので油断していたら突然ついていけなくなった演習もある。7月の後半には試験が始まる。  この辺りまで考えたところで部屋に戻った。1時間でも2時間でもいいから勉強しようと思った。ついていけなくなった演習の教科書を開いたら気分が悪くなってきたけれど、そんなことは言っていられない。ついていけなくなったページまで戻って読み始めた。文字が目の上を滑って頭に入らない。本命の入試を思い出した。絶対に落ちるわけにいかないと思ったとたん何もわからなくなって落ちた。  ろくに集中できなくて、また小田川さんのことを考えていた。それだけ仲のいい友だちがいるガンディーさんはすごいと思った。B談話室に行けば話し相手がいるしみさきやではよくしてもらえるけれど、あの人たちを友だちだなんて図々しくて呼べない。メロスは顔が広くて調子がよくて、別に航がいなくても困らない。葛城は、あんなに毎日一緒にいた、一緒にいたかった葛城は、たぶんきっともうすぐ友だちではなくなるのだと思う。少なくとも自分から連絡する気にはもうなれない。  でも、ガンディーさんと小田川さんはずっと友だちでいる。写真の小田川さんは背が高くて浅黒くて顔立ちがまっすぐ整っていて、航は格好いい人だとまず思った。もし自分が女の子だったら、かっこいいねとあの場で言っていたかもしれない。あの小田川さんとほっそりしたガンディーさんが一緒にいるのはなんとなくおかしいと思う。そんなことを言ったらハンドボール部の葛城とガリ勉のなりそこないの自分が一緒にいたのも周りから見ればおかしかったのかもしれない。どっちにしても、ガンディーさんと小田川さんはまだ一緒にいて、自分と葛城はそうじゃない。ガンディーさんと小田川さんは友だちで、ガンディーさんの左の頬には黒い痣がある。  目を開けると朝で、もしかして、と航は思った。

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