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第8話

 その週の土曜営業を、ハナブサさんとガンディーさんと3人で回した。ハナブサさんはクローズ作業が終わるなり、これから女だけのパーティーと言って、にやりと笑って出ていった。(わたる)は、エプロンを畳んで鞄に押し込んでいるガンディーさんに声をかけた。 「あの、こないだのラーメン行きませんか。奢りじゃなくていいです」  ガンディーさんが顔を上げた。よく見るとまだ左頬が、真っ白な右頬と比べて黒ずんでいるように思える。 「奢っていいなら行くよ」 「わかりました」  そんなことはどちらでもいいと航は自分に言い聞かせた。  少し歩いて、2人で色褪せたのれんをくぐった。他に客はいなかった。右端の席に座って、ガンディーさんは言った。 「何がいい」 「えっと、こないだのを」 「おっけー、アンチャン、この子大盛りしょうゆにチャーシュー、俺金麦のおっきいの」  アンチャンがガンディーさんの前に大ジョッキを置いて、ガンディーさんはすぐにそれを持ち上げた。一気に煽る。もう夏も近いのにガンディーさんは相変わらず長袖で、こういうときにだけ青白い手首が見える。 「アンチャンのラーメン気に入った?」 「はい。うまいです」 「よかった。お金あるときでいいから来てやってね。そんなに怖い店じゃないから」  航の前に丼が置かれた。手を合わせてチャーシューをかじる。麺をすする。その隙間で話す。 「ガンディーさんラーメン食べないじゃないですか」 「食べるときもあんのよ。ねえアンチャン」 「たまにな」  本当に大学生なのか疑わしいくらい、ガンディーさんはみさきやにいる。ガンディーさんがシフトにいるときは、大将はまかないを任せている。だから航もミホさんもスマイルさんもハナブサさんもたぶん大将もガンディーさんの料理を何度も食べているけれど、ガンディーさんが自分の作ったものを食べているところはほとんど見たことがない。人が食事をしているときも、たいてい液体を飲んでいる。 「学食とか行くことあります?」 「んーたまに、そもそもあんま大学行ってないからな」 「大学生なんじゃなかったでしたっけ」 「そうなんだけど、バイトかけ持ちしてるし合間で競輪とかパチンコとか、あー、昔入ってた劇団手伝うときは大学行ってる」 「小田川さんのとこ来るのはいつもあんな遅くですか」 「そうね、あいつ昼いろいろあるから」 「そうですか」  丼が空になった。 「そっちこそもっと食べなよ。若いし体できてくとこなんだから。半チャンならいける?」  左側からガンディーさんの横顔を見ると、青白い皮膚にうすく黒が滲んでいる。心配なのはそっちの方だと思った。 「はい、いただきます」 「アンチャン半チャン」 「ん、ちょっと待ってね」  ちょっとも待たずに炒飯が出てきた。レンゲでひとすくいずつ食べながら、ガンディーさんがジョッキを干すのを待った。  2人で店を出て、この間と同じ住宅街の道に入った。航は少し首を上げて空を見た。夜空というのは黒いものだと思い込んでいたけれど、むしろ青に近いことがわかってきた。濃淡のある青い空に、白い点が、ちょっと数えられなさそうな程度の数散らばっている。ガンディーさんが言う。 「星わかる?」 「北斗七星の形は知ってます」 「天の川は? 夏は明るくてきれいだよ」 「そういや本物ちゃんとみたことないです」  どうせ誰ともすれ違わないので、空を見上げたまま歩いた。小さな十字路の角の大きな家の前で、ガンディーさんは右を指して、じゃあ俺こっちだからと言った。航は足を止めた。 「その顔って小田川さんですか」  目は空に向けたままなので、ガンディーさんがどんな顔をしているのかわからない。返事はない。どうしていいのかわからなくて口を開いた。 「2人めっちゃ仲いいって、でもガンディーさんあんまその話しないし、喧嘩とかしたのかなって、あんまよくわかんないんですけど」  つまんないことで大喧嘩になってさ。殴り合い。そう言ってくれればいいのにと思った。ガンディーさんは言った。 「ワタルくんさ」  視界の端に、ガンディーさんの手が見えた。まっすぐ上に伸びて、人差し指で空を指す。 「星ってさあずっと見てるとたくさん見えるようになるんだよ。目が夜に慣れるからさ。さっきまで見えてなかった、暗いやつも見えてくるんだよ」  航は手を上げて、視界にある白い点をひとつずつ数えた。20を過ぎたところで、そもそも最初に見たときにいったいいくつあるのかわからなかったのだから、今数えたところで増えたも減ったもわかるわけがないと思った。濃い青色の視界の中で、ガンディーさんの手がいちばん白い。視線を地上に下ろした。ガンディーさんは痩せた体の上に真っ黒な長袖を着て、袖と襟から出ているところだけが白くて、左の頬には黒が染み付いていて、優しい顔で笑っていた。 「じーっと目を向けてたら、なんだってよく見えてくるんだね」  航の返事を待たないで、ガンディーさんは右の道に入った。後ろ姿を見ていると、背中がどんどん丸まっていった。

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